winter squall



 2.


 テレビの司会者の声が急に大きくなって、光は隣に眼を向けた。リモコンの音量ボタンから指を離した暁が、かしこまった顔で光に向き直り、ソファの上で正座した。
「あのさぁ。つかぬ事をお訊きしますが」
 長兄の陽海は自室で勉強中で、家長の父はどうせまたどっかのホテルでメイクラブ中だろう。リビングには光と、2ヶ月違いの弟、暁しかいなかった。
「なんだ、その奇妙な言動は」
 訳の分からないことをするわりに、暁の大きな眼は真剣だった。
「兄貴の初チューっていつ?」
「はぁ?」
「はぁ? じゃなくて、まじめに訊いてるんだから答えろ」
 何を言い出すかと思えばこの弟は。呆れながらも相手は真剣なので、とりあえず記憶をさかのぼってみる。
「えーと、確か幼稚園に入りたての頃だな。隣に座った女にいきなり付き合ってとか言われて、頬掴まれて有無を言わさずブチューっと」
「そうじゃなくて!」
 暁が遮る。何しろテレビの音量が大きいから、両方とも自然と声が大きくなる。
「なんだよ」
「聡一郎さんとの初チューだよ!」
 さすがに光も少し戸惑った。
「んなこと知ってどうすんだよ」
「いや……それは……ちょっと……」
「とりあえず、音小さくしろよ」
 暁はリモコンをさっと後ろに隠した。
「話聞かれたくないから、わざとでかくしてんの」
 陽海に? それでようやく話が見えた。
「なに、お前らもしかしてまだなのか?」
 暁の顔がみるみる赤くなって、声がみるみる小さくなった。
「まだじゃないけど、1回しか……してない……」
「マジ?」
 暁がこの家にきて、もうじき1年だ。最初の頃こそ派手に言い争い、仲違いしていた2人だったが、暁がある事件に巻き込まれて陽海がそれを助け、2人の雰囲気は変わった。何があったかは聞いていないが、互いを想っていた2人の気持ちが通じ合ったのは間違いないだろうし、今も2人の間の空気は変わっていない。毎日のように言い争うのを止めないのも、レクリエーションの一環だろう。
 それで何もない、というのは、よほど変なカップルだ。今時、小学生でもあり得ない。
「兄貴もお前も、ホント奥手だよなぁ」
 呆れてため息が出る。「んなこと言ったってよぉ」と暁は口を尖らせた。
「俺からしたり言ったりって、変じゃねぇ? 変っていうか、その……そんなこと言ったら怒鳴られそうだし」
「いや、案外迫られたらその気になったりして」
「マジ?」
「冗談」
「兄貴ー、俺すげぇマジなんだけど」
 暁が頬をふくらます。光は笑った。
「悪ィ悪ィ。けどなー、1年経ってそんなんじゃ、この先現状維持してたって、進展するとは思えねーけど」
「だよなー」
「なんだろな。兄貴、何か考えるところがあるのかな」
「考えるところって?」
「さあ。けど最近、時々なんか考え込んでるみたいだしな」
「え? そう? なんか心当たりある?」
 暁の顔が不安げにかげる。
「いや。兄貴は一人で抱え込んじまう人だからな。自分一人のことなら訊いても教えてくんねーだろ」
「うん……俺、またなんか怒らすことしたかな?」
 しゅんとするその頭をくしゃりと撫でてやった。
「お前のことなら、訊き出しといてやるよ。大丈夫だって。んな心配すんな」
 大きな眸がふわりと笑顔になる。
「うん、頼むな!」
 呆れるほど素直な反応だ。光にはとても真似できない。つくづくかわいい弟だよな、と苦笑した。陽海が惚れるのも無理はない。
 自分にもこれくらいかわいげがあったらよかったのかもしれないな、とちらりと思う。ひねくれ者の自分ではなく、暁のような子供が光の代わりに生まれていれば、光の実家はもう少しまともに落ち着いた家庭が出来ていたのかもしれない。
 まあ、そんなことを考えても意味がないが。
 とりとめのない考えを一蹴して、光は口を開いた。
「念の為に訊くけど、チュー1回で悩んでるってことは、その先はまだってことだよな」
 暁が心持ち後ずさりながら、どもった。
「さ、先って?」
「そりゃストレートに、ヤったのかって、意味」
 暁は、真っ赤になって怒鳴った。
「そ、そんなの、まだに決まってるだろーっ!」
「なにやってんだ、お前ら」
 2人同時に振り返る。不機嫌そうな顔でドアを開けた陽海が立っていた。
「は、陽海ぃ?!」
 暁の声が裏返る。テレビの音量を大きくしすぎて、ドアが開いた音にも気づかなかったのだ。
「おい、音量落とせよ。うるさいぞ」
 暁が飛び上がってリモコンを掴んだ。
「大体夜中になに叫んでんだ、お前。何が『まだ』だって?」
 幸いにしてテレビの音で会話の内容は聞かれなかったらしいが、眉間にしわが寄っている。機嫌が悪いらしい。
「な、なんだよ。人の会話盗み聞きしてたのかよ。趣味悪ィ」
「誰が盗み聞きだよ。お前が勝手に叫んでただけじゃねーか!」
「それを本人の承諾なしに聞いたら、盗み聞きなんだよ!」
 早速バトルが始まるのを横目に、光はとばっちりを受けないようそっとソファを立ち部屋を出た。
 まったくケンカっ早いのは血筋だろうか。廊下でため息をつく。あの2人のケンカはレクリエーションなのだが、同居人にとってはなかなかはた迷惑なじゃれ合いだ。
 まあ、自分も同類の人間だから、やはりこれは血筋なのだろう。
 光も昔は売られたケンカは片っ端から受けて立っていた人間だった。普段は至ってマイペースで、他人にも当たらず触らずの距離を置く性格なのだが、そういう時は血が上って自分でも馬鹿みたいに歯止めが利かなくなった。相手が助けてくれと許しをこうても、それでも周りが止めに入るまで殴り続けた時もある。
 そのせいで、大事な人に死ぬほど心配をかけてしまった。
 そういえば、聡一郎との初めてのキスは、その時だったな。
 光はカーテンを開けて風で揺れる窓の外に眼を遣った。今日はひどく荒れている。庭の木の枝が、風に揉まれるようになびいている。
 光はその奥、木立の向こうの隣家の方へ目を凝らした。
 聡一郎は、独りで心細い思いをしていないだろうか。




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