12. 眼鏡を取り上げられてしまっては逃げ出すことなどないのだから、といくら言っても、彼は手足のロープをほどいてくれなかった。それでも、不自然に背中に回されたままの腕が痛いことを訴えると、それだけは聞き入れてくれて、両手を身体の前で縛り直してくれた。 聡一郎はもう、ここから逃げることは考えていなかった。事情は分からなかったが、彼の淋しさや辛さが痛いほど伝わってきて、このまま彼を独りおいていくのは、聡一郎の方が苦しくて出来そうになかった。 ただ、聡一郎が急にいなくなって心配しているだろう光達や両親に連絡を取って、安心してほしいということを伝えたかったが、それは許してもらえなかった。 部屋の中は静かだった。彼の家だというのだから他の家族の気配がしてもいいはずなのに、壁の向こうからも物音ひとつない。この家には今、彼一人なのだろうか。それを訊いてみると、寒々としてきた部屋で、ようやく灯りだけはつけて、彼はぽつりと口を開いた。 「母さん、出ていったんだ」 表情は分からなかったが、声はひからびていた。 「4ヶ月ぶりに帰ってきた親父とケンカしてさ、どうせまたすぐ赴任先に帰るっていうのに、出ていくって言い張ってさ。バカみてーだろ?」 ははっ、と笑った。 「離婚するんだってさ。今まで散々いがみ合って、無視しまくって、家ん中ボロボロだったくせにさ。なら、もっと早くしろよって感じじゃねぇ? 俺がいるから離婚はねぇとか人のせいにしといて、いざ離婚ってなったらそっちが引き取れって言い合いして、俺はお荷物扱いだぜ? あいつら、バカじゃねぇ? マジで俺って何? みたいな」 「幸……」 彼が振り向くのがぼんやりと分かった。 「君があそこで待ってたのって……」 「聡だよ」 よどみなく彼が答える。 「俺はあのベンチで聡を待ってた。聡が来てくれるのをずっと待ってた。聡はそれに応えてくれたんだ。だから俺、すげー嬉しかった」 彼の言葉が重たくて、聡一郎は眼を伏せる。 今、どんな言葉をかけても、それは彼を傷つけることにしかならない。 嘘をつけたら。聡一郎がそう出来たなら、聡一郎も彼も、どんなにか気持ちが楽になるだろう。もし自分に光という存在がなかったら。ふと思い、即座に否定した。それだったら、単なる同情じゃないか。そんなことは、彼も望んでいない。 偶然出会い、彼の苦しみを知り、気持ちが分かるからその苦しみをやわらげてあげたい。それだけではいけなかったのだろうか。 どうしてそれが、彼をこんなに追いつめてしまったのだろう。 「僕は……」 ためらいつつ、言葉を探し、口を開く。 「君にひどいことをしてしまったんだろうか?」 「ひどいこと? なんで?」 彼の声には屈託がない。 「幸……僕、一人っ子なんだ。両親が共働きで帰ってくるのも遅かったから、小さい頃からほとんど一人で夕ご飯を食べてた。だから、何かを待ってる人の気持ちは分かるんだ。心細さとか、どうしようもない淋しさとか」 「俺も一人っ子だよ」 聡一郎は頷く。 「だったら分かるだろ? 両親が帰ってきた時の、それまでの不安が全部吹き飛ぶくらいの嬉しい気持ちって。その嬉しさがないと、待ってる時のあの淋しさは、ずっと消えないような気がするんだ」 聡一郎はまっすぐに彼を見つめた。 「信じて待っていたのに、裏切られたら辛いよね。だけど、その事実を受け止めてちゃんと自分で納得しないと、ずっと後までひどい傷になって残ると思うんだ」 「どういう意味?」 「……君があのベンチで、あんなに寒い場所でずっと待ってたのは、君の壊れてしまった家族なんじゃないかな」 「違う」 「僕がちょうどその前を通りかかってしまったから、君はそれをすり替えてしまったんじゃないかな」 「聡、なんでそんなこと言うんだよ?」 「君にずっと残る傷を作ってほしくないから、目を背けないでほしいんだ。簡単なことじゃないけど、いつかは受け入れられるように、少しでも痛みが軽く済むように、向き合ってほしんだ。逃げないでほしいんだ」 彼は薄っぺらく笑った。 「……言ってること、わかんねーよ」 「ゆき……」 「そんなことより、腹減らねーか? 聡、まだ今日なんも食ってねーだろ? ピザ頼む?」 「幸、聞いて」 「それとも豪華に寿司にする? 最近寿司食ってねーしな。やっぱ寿司かな? 聡がいるから特上頼んじゃおうかなー」 「幸」 「俺、聡が好きだよ」 不意に、まっすぐな声が届いた。 「聡の顔も声も髪の色も、ちょっと抜けてるとこも、お節介なとこも、笑った顔も、怒った顔も、困った顔も、全部好きだ」 彼の手が、頬に触れた。 「俺、嘘言ってないよ。マジで聡が好きだ。信じてよ」 「ゆき……」 どうしたらいいんだろう。 彼の顔が近づいてくる。ぼやけた視界にピントが合ってきて、その表情が真剣なのが分かった。 どうしたらいいんだろう。 後ずさりかけて首根に手を回され、身動きが封じられる。身体を強張らせ、思わず眼を閉じた。 どうしたら 唇に濡れた感触が重なった。 「聡ー! いるなら返事しろー!」 2人はびくりとした。家の外からの声だった。聡一郎は身をよじって彼の腕から抜け出し、口を塞ごうとする彼の手から逃れながらありったけの声を上げた。 「光!!」 そのまま体勢を崩して、うつ伏せに床に倒れ込む。人の声とがたがたドアを叩く音が聞こえ出した。 彼はしばらく茫然と動かなかった。 「なんで……なんで……」 急に騒がしくなった階下の音に掻き消されそうなほど、低く、呪詛のように呟きが落ちる。 聡一郎は、目の前で震える彼のこぶしを見つめていた。 「なんで裏切るんだよ、聡。なんであんたが……」 裏切ったことになるのかな。悲しくなって眼を伏せる。 「なんで……なんでだよ!」 乱暴に肩を掴まれ仰向けにされて、彼が馬乗りになる。 「ふざけんなよ! あんたまで俺を裏切ってんじゃねーよっ!」 「幸、違う……」 片手で胸元を掴まれ、つり上げられた上肢が床を離れる。表情は分からなくても、彼の激情がびりびりと伝わってくる。聡一郎は不自然な体勢で頭を動かし、彼を見遣った。きらりとしたものが空いた彼の手で反射した。両手のロープをいったん切って、結び直した時に使ったナイフだろう。 どうして、こんなに傷つけてしまったのだろう。傷つけるつもりなど、これっぽっちもないのに。 ドンっと部屋のドアが揺れた。 彼が腕を振り上げた。 聡一郎はたまらなくなって、呟いた。 「幸、ごめん……」 ドンっと、2回目の衝撃でドアが弾かれたように開いた。ほとんど同時に、馬乗りになっていた彼が突き飛ばされた。 誰かと彼が、床で取っ組み合になってもみ合っている。その光景を、動くことが出来ず、聡一郎は床に横たわったまま見つめた。 人が殴られる鈍い音がした。2回、3回。 その音で、聡一郎の脳裏に鮮明な光景が蘇った。今にも崩れ落ちそうな身体で、抵抗の力も失せ座り込んだ相手を、なおも殴り続けるそのこぶし、音、顔、笛の鳴るような呼吸。飛び散った血。 鈍い音は止まらない。聡一郎は聡毛立った。 「……光! 止めろよ、光! お願いだから!!」 音が止んだ。 階段を駆け上がってくる音と共に、陽海や暁の声が飛び込んできた。 「聡一郎!」 「兄貴!」 震えが止まらない。 「……聡」 声が落ちて、ためらいがちに、光の手が頬に触れる。 その手に縛られた両手で縋り付いた。涙が溢れて頬を滑り落ちた。 「聡、ごめんな」 抱き起こされ、きつく抱き締められる。何度もごめんと繰り返す光の声を聞きながら、聡一郎はその胸で肩を震わせ、泣きむせんだ。 ≪ back top next ≫ |