病み上がりではしゃぎ過ぎたのがやっぱりたたったのか、歩き疲れてどこかで休もうと足を向けた喫茶店のその入り口で、僕の足は止まった。
 カラン、とドアベルが鳴り、ほとんど埋まった席の間を忙しく行き交う店員が、いらっしゃいませの声をかけた。
 その場から動かない僕を、裕也が後ろから覗き込んだ。
「どうした? 気分悪いのか?」
 凍り付いた僕の視線の先に、一度だけ見たことのある人の姿があった。1年前は肩につかないほどだった髪が、今は背の中程まで伸びている。ひまわりの花のような、夏の光を浴びて輝いているような、そんな印象は少しも変わっていなかった。綺麗な人だった。彼が彼女を好きになったことが、当たり前のように頷けるほど綺麗な人だった。
 そこだけが、その二人だけが、違う色に映って見えた。森里が何かを言い、彼女が弾けるように笑い出す。見つめる森里の眼が眩しいくらいに優しい。包容するようなまなざしで彼女を見守っている。滅多に見せることのない、とっておきの眸。
 踵を返そうとした。だが指先一つ動かせなかった。僕の中の全てが、目の前の光景に引きつけられていた。心臓の音がどんどん大きくなっていく。周囲のざわめきが遠く退いて、二人の会話が聞こえてくるような気がした。
 テーブルに置かれた森里の左手。大きくて角張った手が、優雅にコーヒーカップを持ち上げる。目が逸らせない。
 ぐいっと肩を抱き寄せられた。その強さが目眩のように僕を揺さぶって、硬直をほどいた。
「出よう」
 低く、裕也が言った。




 頭がふらふらしたままで歩いた。
 人混みと冷気から護るように、裕也が僕の肩を抱いている。すれ違う人が、次々に驚きと好奇の目をその手に注いでくる。
「変な目で見られてるよ」
 僕はぼんやりと裕也を見上げた。
「そんな顔も知らない奴らのことなんか、ほっとけよ」
「変態だって思われてもいいのかよ」
 前を向いたままの裕也の眼が、ますます険しくなる。
「だったらなんだっつーんだよ。気色悪ぃなら、あっちが避けりゃいいだろ」
「なに怒ってんだよ、お前」
 裕也が頭に血を上らせている分、僕は表面上は冷静になることができていた。
「森里はいい奴だよ」
 裕也は立ち止まり、眉を上げて僕を見た。
「がさつなわりによく気がつくし、人を裏切ったりしないし、友達も恋人も大事にするし」
「俺、あの人を殴ってやりたかった」
 暗い眼で、裕也が言った。
「一度、歩さんが眠ってる時に夏城さんが見舞いにきたんだ。でも、入れてやらなかった」
「けど、そんなことされても怒らなかっただろ、あいつ」
 裕也は俯き、押し黙る。そして低く言った。
「俺は夏城さんを許さない。歩さんを泣かせる奴は許さない」
 裕也がいじらしいと思った。他人事のようにかわいそうにさえ思った。
「あいつが悪いんじゃないよ。このくらいのことで泣く方がどうかしてるんだ。一方的に好きになって、彼女が出来たこと知って落ち込んだって、それは森里のせいじゃないだろ?」
 喉が焼けるようにひりひりと痛んだ。自分自身で言い切ることで未練を断ち切ることができるかもしれない。僕はまだそんなことを思っていた。
 不意に裕也が僕の手を掴んだ。
 驚く僕を無視して、黙ったまま足早に歩き始める。人の流れを無理に割って逆行しながら。
 痛いほど強く手首を掴む、手袋越しの手のぬくもり。振り返りもせず歩き続ける裕也の背中を、僕は追いかける。
 息が弾んで声もかけられなかった。息が白い。夕暮れが近づいて暗くなっていく鉛色の空にちらちらと白いものが舞っている。
 雪だ   .
 弾む呼気の向こうに、頭の上をキャロルがぐるぐると回っている。
 裕也の背中が遠い。追いかけても追いかけても追いつかない   .
「待てよ……」
 人混みはいつの間にか消え、華やかな通りは閑静な住宅街に変わっていた。
「待てったら……裕也!」
 ようやく足をとめて振り返ろうとしたその背中に、つまずくようにして抱きついた。
「歩、さん?」
 苦しい呼吸に息を詰まらせながら、僕は抱きしめる手に力を込める。
「ばか、やろ……僕より先に 行くなよ……早すぎて、追いつけないだろ……」
「ごめん歩さん、俺なんにも考えてなくて……」
 ぎゅっと眼を閉じた。
「おいてくな。独りにするなよ……」
 手にミトンが触れた。まどろっこしく思ったのか、手袋を脱いだ手が僕の指を強引にほどき、裕也が振り返る。次の瞬間には抱き竦められていた。噛み付くような口吻けが僕の口をふさぐ。力ずくで唇を押し開けられ、身動きも出来ない僕の舌に差し入れられた舌先が絡みつく。頬に触れていた指が僕の髪を梳き上げ、掴む。首を振ることも出来ない。
 僕を丸ごと飲み込むようなキスだった。底なしに全部が吸い込まれそうで怖かった。がくがくと足が震え、力が抜けていく。
 息苦しさはすぐに襲ってきた。顔を逸らそうとしたが、裕也は執拗に追ってきた。腰に回した腕に一層の力がこもり、身体が軋んだ。
 両手で必死に裕也の胸を押し返し、それでようやく彼が気づいて顔を離した。
 僕は裕也の鎖骨の上に突っ伏し、咳き込んだ。足が立たず、そのままではずるずると落ちていく僕を、裕也が慌てて抱きとめる。
「だ、大丈夫か、歩さん!」
 何度か大きく喘いで、それからようやく僕は怒鳴った。
「馬鹿っ……こっちが息切らしてんのに、何考えてんだよ!」
「ごめん、頭に血上ってて……なんつーか、歩さんがあんまりかわいく見えて、それで理性なくしちまった」
 こっちが赤面するような科白を吐きながら、裕也は心配げに腕の中の僕を覗き込んだ。
「ほんと、ごめんな。病み上がりなのに無理なことして。もう、平気か?」
「なんとか、な……」
 まだ心臓が乱れた鼓動を打っている。触れあう身体から伝わる裕也の温もりが、僕を安心させる。
「心配しなくていいよ。犬って、三日面倒見てもらったら一生その恩忘れないんだぜ」
 裕也が眼鏡の奥の眸を和めて笑いかける。
「飼い主置いて、どっかに行ったりしねーよ」
「じゃあ、今どこ行こうとしてたんだよ、お前」
「教会。何回かこっちきた時、一度行ったことがあるんだ。そっから見える夕陽がすごく綺麗でさ。あんたを捜し出せたら一緒に行きたいって、そん時思ったんだ」
 一瞬、言葉をなくした。
「あんたの暗い顔見たくなかったから。今日は天気悪いし夕陽は無理だろうけど、でもあそこ、夜景もいいんだぜ」
「知ってるよ」
「え?」
「それって、丘の上の教会だろ?」
「そう。確かこの前歩さんが行ってた坂道の上の方だったと思うんだけど……」
「方向全然逆だよ、それ」
「え?」
 きょとんとした裕也の顔を見て、僕は呆れる。
「丘は街の東側。こっちは西側。あんなものすごい勢いで突進しといて、道間違えてたのかよ、お前」
 裕也は髪を掻き上げ、僕を見た。どこか不思議な表情をして。
「俺、方向音痴なんだよ。初めてとか、一回行ったくらいの場所って、絶対辿りつけねーの。地図見たって駄目だし、人に教えてもらっても迷子になるんだぜ」
「そんなこと偉そうに言うなよ……」
 不意に、ふわりと既視感が過ぎった。裕也が赤いコートを着ていた。それに白いマフラー。サンタクロースみたいだと思ったその印象が、目の前の彼に重なった。
 突然黙り込んだ僕を、裕也が気遣わしげに覗き込む。
「歩さん、気分悪いのか?」
「なあ、前にもこんなことなかったか……?」
 裕也の表情が変わった。
「……あったよ、確かに」
「急がないといけないのに、お前迷ってて……なんでそんなサンタクロースみたいな格好してるんだって、僕訊かなかったっけ?」
「姉貴のコートだったんだよ。あの日の俺のラッキーカラーが赤だからって、サイズも合わないのに強引に持ってかされて。思い出した?」
 裕也が僕を見つめる。想いが滲む、深い色に染まった眸で。
「去年の2月、大学入試の時だった。試験会場まではなんとか行けたんだけど、トイレに出たら見事に迷っちまって。焦りまくってた時にあんたと出会った。あんたが会場の教室まで送ってくれたんだ。あの時のあんたの笑った顔がずっと忘れられなかった。消えそうな笑顔だった……」
「去年の、2月……」
 裕也の指が頬に触れる。僕は笑みを浮かべて吐息した。不思議に静かな気分だった。
「ごめんな。その頃の記憶はほとんどないんだ」
「え?」
 裕也が眼を見開いた。
「記憶喪失とかいうほど大袈裟なものじゃないんだけど……何も見てなくて何も関心がなくて、何もする気が起こらない日がずっと続いてたから、頭が曖昧にしか記憶してないんだと思う」
 裕也は息を詰めるようにして僕を見つめ返していた。
「去年の……1月の終わりだったかな。森里が好きな娘がいるって僕に相談してきて、それから、一度実家に帰ったりしてちょっと気持ちが落ち着いてきた今年の夏あたりまで。僕、普通じゃなかったんだ」
 泣くかと思ったのに、僕は微笑っていた。
「だからごめんな。お前のこと思い出してやれなくて。多分故意じゃないんだ」
 森里を好きだと気づいたのは、彼の相談を訊いたその後のことだった。
 僕は何も出来なくなった。それでもまだ自覚はなかった。何故、何もする気力が失せてしまったのか。何故笑うことができなくなったのか。頭の芯が痛いような脱力感が続くのか。教えてくれたのは森里だった。
 僕が2日講義を休んだだけで、彼は僕を訪ねてくれた。理由が病気ではないということを知ると、後は何も訊かずに他愛のない話をしてくれた。それから、毎日毎日、部屋のまんなかに、寄りかかることも知らないまま座り込んでいた僕を訪ねてくれた。
 1週間大学を休んで、僕は初めて何を失ったかを悟った。声もなく泣いた。森里の帰った後、独り、広く空いた部屋のまんなかで。
 何を見ても涙が溢れた。全てが嘘のように遠かった、胸に空いた傷を塞いだのは、一枚一枚薄紙を重ねていくように過ぎていった日々だった。その積み重ねだけが、突きつけられた事実の重みを柔らかく隠してくれた。
 本当に何も眼に映していなかったのだろうと思う。見ていたのは、夜の真っ暗な部屋の隅や、森里の笑顔や、夜明け前の真っ青な窓ガラスや、あの丘の夕焼けくらいだった。
 アパートのすぐ近くを通り過ぎていく真夜中の救急車の、音程の変わっていくサイレン。誰もいないキッチンから突然唸り出す冷蔵庫のモーター。窓を揺らす強風。近くの家に飼われている小型犬の、狂ったような甲高い鳴き声。テレビもつけない部屋の、冷たい沈黙。
 憶えているのは風景の断片だけだ。
 森里の笑顔だけが支えだったのに、彼がいなくなった後の喪失感に耐えられなくて、僕は部屋に閉じこもることを辞めた。無理矢理に大学に行って友達と明るく振る舞い、バイトも多く入れた。必死に勉強するふりをした。眠れない夜をごまかす為に、睡眠薬を飲んだ。
 病院で眼を覚ました時、森里がいた。
    馬鹿野郎! 何考えてんだよ!
    なにも、考えてなんかいないよ
    死んで、それでどうすんだよ! それでなんかのカタが着くのかよ!
 森里の涙を見た時、これじゃあ駄目なんだ、とようやく悟った。彼を悲しませることなんか出来ない。僕が死ねばいい。生きているふりをすればいい。心を消してしまえばいいんだ、と。
「歩さん……」
 裕也の右の掌がそっと僕の頬を包んだ。
「消えてしまいそうな顔、してる」
 冷たい指。大きな掌。この手が僕の感情を揺り起こした。殺しても消し去ることが出来なくて、ずっと凍らせていた心を。
 僕の頬が静かに濡れ始める。喉が鳴った。それを消すように僕は言った。
「教会行こう。夕陽、見に行こう」
 痛ましげに見つめる裕也が、静かに頷いた。



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