息を切らせて坂道を上がり、教会にたどり着いた頃にはもう辺りは闇に包まれ始めていた。
 教会は糖蜜色のランプの灯りに溢れ、扉の脇の針葉樹はライトアップされて即席のクリスマスツリーに飾り付けられていた。クリスチャンなのか、それともただ覗きにきただけなのか、華やかに装った人々やカップルが出入りしている。
 遠巻きに眺めながら、裏庭の方に回った。小さな墓地を抜け、深そうにみえる木立の奥へ入っていくと、唐突に視界が開け街が眼下に広がる。
 息が出来なくなりそうになった時、ここに座り込んで沈んでいく夕陽を眺めるのが僕の日課だった。
「まだ夜景には早いけど、充分綺麗だな」
「……街全部がイルミネーションみたいだ」
 夜が濃くなるにつれてどんどんその強さを増していく光の粒が、すごいものにみえた。
「寒くないか?」
 隣に立つ裕也の息の白さも見えないほど、闇が降りてきている。僕は大丈夫、と首を振った。
「でも冷え込み、きつくなってる」
 裕也が自分のコートを脱ぎ、僕の肩にかけた。彼の温もりがふわりと僕を包んだ。
「馬鹿、冷え込みきついのに、なんでコート脱ぐんだよ」
「歩さん、また風邪ぶり返したら大変だろ」
「お前が風邪ひくじゃないか」
 コートを返そうとして逆に手首を捕まれて引き寄せられた。
「俺はいいんだよ」
 耳元に囁く。
「こうしてればあったかい」
 裕也のぬくもりにすっぽり包まれて、抗いかけた僕は誘惑に力をなくしてゆっくりと眼を閉じる。こつん、と裕也の鎖骨に額を預けた。
「風邪ひいたって看病してやらないぞ」
「いいよ」
「お前、さっき僕から風邪菌持ってったんだからな」
「え?」
「窒息しそうなキスしたろ」
「ああ、そっか。でもいいよ。歩さんが俺に移して元気になるんなら」
「お前、なんでもいいんだな」
「あんたの為なら、なんでもするよ」
「じゃあ、お前が熱だして寝込んでる時に遊びに出てったりしても、文句言わないで家で待ってたりすんの?」
「文句は言うかもしれねーけど、待ってるよ。帰ってくるまで、じーっと」
 僕は顔を上げた。見下ろす真摯な眸が僕を映す。
「手袋してる?」
 裕也がぽかんとした顔になった。
「え? あ、邪魔くさくてポケットに突っ込んどいたような……」
 僕は裕也のコートを探ってミトンを引っ張り出した。
「まず手袋して」
 裕也は僕の腰から腕を解き、取りあえず文句を言わずに手袋をはめた。
「次、眼鏡外して」
「……なんで? 俺、あんま視力ないんだよ」
「文句言うな。どうせ暗くてはっきり見えないだろ」
 怪訝な顔のまま、ミトンをはめた手で不器用に眼鏡を外す。
「それで、背中を丸める」
「は?」
「考えなくていいから」
 少し低くなった彼の肩に僕は両手を乗せる。息が触れあいそうなほど間近で、僕は言ってやった。
「眼鏡したままでキスすると顔に当たるんだよ。今度から気をつけろ」
 漆黒の眸が驚きに見開かれる。僕は裕也の、何かを言いかけた唇に口吻けた。
 前に進めるように。
 神様が僕の願いを聞いてくれた。もう、独りでしゃがみ込まずに済むように。抱きとめてくれる手があれば、僕はきっと歩き出せる。
 どんなに疲れていても、きっと歩き出せる。
 甘い感触に一時身を委ねて離れると、裕也が放心した顔で立ち尽くしていた。それがおかしくて、僕はくすくす笑った。
「……不意打ちなんて卑怯だぞ。なんにも出来なかったじゃねーか」
「クリスマスプレゼントだ。ありがたく受け取れ」
 へへっと裕也が笑った。
「最高に嬉しい」
「お手軽な奴」
 不器用に僕は言う。
「じゃ、俺からもプレゼントするよ」
 キスはならもういらないというと、裕也はニヤリとして首を振った。
「俺、来年から歩さんと一緒の大学に編入するから。もう手続きは済んでる。だからこれからも俺をあの部屋に置いてくれよな」
 今度は僕がぽかんとする番だった。「え?」とだけ聞き返した。
「去年の入試、歩さんとこの大学だけ落ちたんだよ。で、第一志望の大学に行ったんだけどさ。俺、勉強はそこそこ出来るから高校の担任にも不思議がられたよ。……あの時は歩さんに一目惚れして、それでもう試験どころじゃなかったんだ」
 裕也のまなざしが柔らかく細められる。
「あんたが本当に実在するのか、どうしてもそれを確かめたかった。だからこっちに来ることにしたんだ。もしもう一度会えるんなら、あんたに言いたいことがあったから」
「なにを……?」
 彼は、照れを押し隠したような生真面目な顔で一息に言った。
「初めて会った時から1年、ずっと貴方のことを考えてきました。貴方が好きです。俺が貴方を幸せな笑顔でいられるようにしてみせます。だから、友達としてでもいいから、貴方の側にいさせてください」
 僕は微笑んで眼を伏せた。苦しくて笑顔が崩れそうになるのをこらえながら。
「俺はお前を、立ち直るための道具にするんだぞ」
「いいよ。歩さんが俺のこと、どう思っても」
「森里の代わりにするのかもしれない」
 返事が戻らなくて、不安に駆られて顔を上げる。優しい、蒼ざめた闇色の眸が僕を見守っていた。
「俺は、歩さんの笑ってる顔を見られることが俺の幸せだって知ってる。だから、歩さんが笑ってくれるなら、どんな願いだって叶えてみせるよ」
「……そんなに甘やかすなよ。また、泣きそうになる」
「泣きたい時に好きなだけ泣きなよ。俺の胸、いつでも貸してやるから」
「ばーか」
 胸が痛いほどいっぱいになって、僕は冷たい夜気を吸い込み顔を上げる。宝石のように煌めいて、夜景がすぐ眼下に迫っていた。 
「あれ? 雨降ってきたのか?」
 裕也が夜空を見上げた。 つられて見上げた僕の頬に、ひやりと冷たいものが落ちる。
「違うよ、これ雪だ   
 街から遠い光に蒼白く、雪が闇に浮かび上がる。それは、闇から手を差し伸べる、神の使者のようで。
「ホワイトクリスマスだな」
 僕の肩を引き寄せて、裕也が言った。僕は空から傍らへと視線を転じた。
「寒くないのか? 裕也」
「……二度目だ」
「え?」
 ご褒美をもらえた子供のように、裕也が微笑む。
「歩さんが、僕の名前呼んでくれんの」
「そうだった?」
「歩さんに呼ばれると、この名前で良かったなって思えてくるから不思議だよな」
 少し、どきりとした。同じことを僕も思っていたからだ。
「……変な奴」
 ずっと女みたいで嫌いだったのに、裕也が呼ぶ僕の名前は、何故か特別な響きを持っているように聞こえていた。いつの間にか、この名前で良かったと素直に思えるほどに。
 眼を逸らした僕を、裕也が覗き込んでくる。
「もう一回呼んでよ、俺の名前」
「やだね」
「いーだろ、別に減るもんじゃなし」
「図に乗んなっ」
 勢い顔を上げた途端に、漆黒の裕也の眸に捕まった。
  魔法をかけてやるよ。もう、独りで泣かなくても済むように」
 呪文が静かに降りてきて、僕は身じろぐことも忘れた。
「俺があんたを想い続けている限り、魔法は解けない。あんたが泣くのは俺の腕の中だけだ」
「裕也……」
 冷気にあてられた唇が、唇に触れた。冷たい、でも身体を熱くする、キス   .
 雪が音もなく僕らの上に降り積もる。
 教会の鐘が聞こえる。
 12月の魔法だ、と僕は思った。
 街の灯も艶やかな夜の深さも、幻のように綺麗だった。きっとこの魔法は、聖夜を祈る世界中の人々の上に降り積もっているのだろう。
 裕也の温もりに包まれながら、僕も心から祈った。

 I wish you a merry Christmas.

 この空も街も闇も、雪もキャロルも、森里の横顔も、風邪をひいた喉の痛みも、遠い車のクラクションも冬の寒さも、裕也も、なにもかもを愛おしいと思う自分をなにより愛しく感じながら。

 貴方に幸せがありますように    .                                

                                      Fin


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