枕元の目覚まし時計は12時を指していた。 喉の渇きを覚えながら、真っ暗な中でベッドから起き上がると、平衡感覚がぐるぐると回った。思わず感心してしまうほどの回りようだった。多分熱があるのだろう。周りが明るければ、すごい光景が見られたかもしれない。馬鹿なことを思いながら、ふらつく足でキッチンへ行って冷蔵庫の扉を開けた。 「あれ……?」 かすれた自分の声が遠くに聞こえる。ドアポケットに入れたはずの水のペットボトルが無くなっていた。曖昧な記憶を辿って、昨日飲んでしまったようなことをぼんやりと思い出し、冷蔵庫の取っ手を掴んだままちょっと考えた。水道の水を飲んだら吐きそうな気がする。 仕方なくパジャマの上からコートを羽織り、多分寝癖もそのままで財布を手に部屋を出た。ひやり、と刺しすような冷気がまとわりついてきたが、寒さは感じなかった。 闇に包まれ寝静まった住宅街を、点々と白く浮かび上がらせる街灯が眼に痛い。 その、一番アパートに近い街灯の下に、黒い何かがうずくまっていた。明日は粗大ゴミの日だったろうか? 首を傾げてよく見ると、それは黒いコートを着て塀にもたれている人間だった。 見覚えのあるコート。黒縁の眼鏡。眼を閉じたその頬に、前髪の影が濃く落ちていた。 死んでいるのかと思った。まるで、そこに投げ捨てられたように、彼はうずくまっていた。 僕はひょこひょこしながら近づいていった。足音に気がついて彼が眼を開ける。僕を見て、心底驚いたように肩を揺らして眼を見開いた。 「なんで、こんなとこにいんの?」 街灯の白色灯の下で見下ろすと、彼の髪は栗色をしていた。つむじが見える。 「すいません。こんな風に側をうろつくつもりはホントになかったんだ。けど、気がついたら電車なくなってて、どっかに泊まる金もなくて、この街に知り合いもいないし、警察で金貸してもらおうかと思ったんだけど……すいません」 彼はまた眼を伏せた。 「それでお前、僕の家までついてきたのか」 「……すいません」 消え入りそうな声だった。なんだか怯えた仔犬を叱っているみたいだ。たまらなくなった。 「手、出して」 目の前に降りてきた手に、彼はきょとんとして顔を上げた。僕はもう一度繰り返した。 「手ェ出して、って言ったんだよ」 彼は訝った顔で膝の間に沈めていた右手を恐る恐る差し出した。手袋もしていないその掌は、体温も感じられないほどに冷え切っていた。幼いほどの印象を裏切る、大きな手だ。 「お前の手って、いつもこんな冷たい?」 「え? うん、……これほどじゃないと思うけど」 僕は安心した。握った手に少し力を込めた。見上げる双眸が不思議そうに僕を映す。 「こんなとこに一晩いたら、凍死するよ」 凍死、という言葉で少し笑った。 「え?」 「そんな捨て犬みたいな顔するなよ。コンビニ行って水買って戻ってくるまで待ってられるんなら、部屋に入れてやるから」 言葉の意味を飲み込んで、彼の暗い眸の奥からふわぁっと喜びの色が広がっていく。まるでリトマス紙のようなあからさまな反応だ。僕は呆れて笑った。薄暗く澱んでいた身体の奥に蝋燭の明かりが灯ったような、そんな感じがした。 「どっから連れてきたんだよ、こんなでかい生き物」 逆に座った椅子の背もたれに両肘を乗せて森里が言った。外見にそぐわず器用な手つきで僕ら二人にインスタントのコーヒーを手渡すと、話題に上った彼は床のクッションに胡座をかいてこっちをじっと見ている。僕はベッドに半身を起こしてコーヒーを口にした。昨日から熱は下がらず身体はだるいのだが、熱のせいで逆にテンションは上がっているらしい。 「そこの電柱の下だよ」 僕の答えに、森里はおもしろそうに声を上げる。 「捨て犬か?」 「そう。どうしても拾ってくれって顔でついてきたから、仕方なく」 「そんな言わなくてもいいじゃねぇか、歩さん」 彼がむくれた顔で抗議する。 「凍え死ぬとこを救ってやったんだぞ。文句言うな」 言われて彼はしぶしぶ口をつぐんだ。反応があからさまで、思わず笑ってしまうと、かまってもらった子供のように嬉しげな顔に変わる。本当に面白い生き物だ。 「で? こいつの名前は? ポチ?」 そういえば、まだ名前を聞いていなかった。 「クロ」 「裕也です、乃木裕也!」 大きな声が遮った。 昨日は彼を部屋に入れて、水を飲んでそのまま寝てしまったのだ。今朝になって、両親が心配しているだろうとそのことを訪ねると、都内で一人暮らしをしているという。てっきり高校生だと思っていたら18歳で大学一回生なのだそうだ。僕と一つしか違わない。 それで、一晩泊めてやったら居着く気になったらしく、 「掃除でも洗濯でも料理でも、なんでもやるからここに置いてください!」 と、土下座されてしまった。面食らって取りあえず大学はどうするんだと切り返すと、こっちに編入するとあっさり言い返されてしまい、僕は彼の勢いにそのまま押されてしまったのだった。 森里が呆れ顔で笑う。 「で、飼うことにしたのか? このでっかいペット」 「しょうがないだろ。なんか成り行きで頷いてしまってたし」 お前らしいなぁ、と森里は笑った。 「でも良かったじゃねぇか。お前昨日調子悪そうだったから覗きにきたんだけど、こいつがいりゃ、安心だな」 「あれ? 心配してくれてたのか?」 「まあな。昨日無理に付き合わせた分は、風邪が治ったらなんか奢ってやる」 照れた表情を浮かべて彼が椅子から立ち上がる。吸い寄せられるように見つめていた自分に気づき、僕は反射的に視線を逸らした。 「じゃ、俺、連れと約束あるから帰るわ」 僕は笑みを返した。 「彼女によろしく」 森里は、ふと座り込んだままの裕也に視線を向けた。 「裕也 「これでも、ってなんだよ」 僕の反論を森里は笑って聞き流す。裕也はどこか睨むようなまなざしで森里を見上げ、「歩さんのことはご心配なく」と低い声で返した。森里はそれも意に返さず、「ほんと番犬みてーだな。噛み付きそうな眼してやがる」と笑いながら、大きな手を軽く振って出ていった。 パタンとドアの閉じる音で森里の気配が消え、一気に気が抜ける。何か大きなものがいなくなったような、部屋が妙に広く感じてしまう、いつもの重い喪失感。 深く吐息してのろのろと顔を上げると、ベッドの脇に裕也が立っていた。 「歩さん」 怖いほど真剣な双眸だった。似合わない、と気の抜けた僕はぼんやり思う。 「あの人が、好きなんですか」 ずきり、と痛みが駆け抜けた。不意打ちの激痛に、僕は数秒息も出来ずに凍り付いた。 茫然とする数瞬を過ぎて、眼の奥にみるみる険が宿っていくのが自分でも分かった。 「なに、言ってんだ」 僕は固い声で吐き捨てた。 「僕は変態じゃない」 裕也も痛みを受けたような顔をした。けれど、その口調の強さは変わらなかった。 「そんな言葉でごまかしているんですか、自分を」 僕の中で何かが切れる音がした。熱いものが猛烈な勢いで全身を駆け回る。眼が眩むような激情に飲み込まれ、僕は膝を起こし、裕也の胸ぐらを掴み上げた。 「お前に説教される覚えはないんだよ!」 ぐらりと視界が歪んだ。 強烈な目眩だった。目の前が真っ暗になり、一切の感覚がすぅっと退いた。自分の身体がどうなっているのか分からなくなる。落ちているのかちゃんと立っているのか、どちらが上でどちらが下なのか。顔と指先から血の気が退いていく冷たさだけが、痺れるように感じ取れた。 「 遠くで聞こえていた裕也の声が徐々に戻ってくる。混乱して堅く閉じていた眼をそろそろと開けると、すぐ間近に裕也の顔があった。あれ? と疑問符が浮かぶ。何かが違う。 「大丈夫か? なんともない?」 濡れたような奥二重の瞳だった。夜空のような深さを湛えた、漆黒の黒の瞳だ。 唇を動かそうとしたら、ひどく痺れていた。顔も手足も、身体中が痺れて他人のもののように感覚が極端に鈍っている。 「なに? どっか痛いのか?」 「……めがね」 「は?」 「眼鏡、は?」 裕也の顔から黒縁の眼鏡が消えていたのだ。彼は言われて初めて気づいたらしい。 「そんなもん、どっか飛んじまったよ。それより歩さん、平気か?」 僕は裕也の腕の中にすっぽりと収まっていた。彼が抱き留めてくれたおかげで、ベッドから転落せずに済んだらしい。裕也の心配をよそに、年下の童顔のくせに意外に胸板が厚いことに、僕は感心していた。 「歩さん?」 「ああ、大丈夫」 途端に裕也の表情が綻んで、大袈裟なほど肩で溜息をついた。 「びっくりさせるなよ、もう。心臓止まるかと思った」 「そんな大したことないよ。風邪のせいで調子悪かったんだろ」 「けど、まだ顔色真っ青だぜ。なんか熱も上がってるみたいだし。本当に気分悪くなったりしてないか?」 「お前 「ん?」 「眼鏡ない方が、眼、綺麗に見えるな」 思ったことをそのまま口に出したら、裕也は押し黙ってしまった。 雰囲気が変わっていく、その気配が分かった。だが、それを意識していた訳ではなく、僕はまた上がり始めた熱に頭をぼぅっとさせながら、裕也の真剣なまなざしをただ眺めていた。綺麗だなと思いながら。 本当に、魅入られてしまいそうに綺麗な眸だった。 裕也の頬がゆっくりと傾き、降りてくる。僕の肩を支えていた掌が首筋へ動き、髪の中へ指先が差し入れられる。 拒むことさえ忘れていた。 柔らかな感触が唇を覆う。優しく唇を押し開け、裕也の舌が滑り込んでくる。夢を見ているような感覚だった。果てのない眠りに埋もれていくような安らぎが胸にあふれた。背筋の力が抜け、そのまま委ねるように眼を閉じる。抱かれたままゆっくりと身体を倒され、ふわりとした羽布団の感触が背中を包んだ。覆い被さる裕也の重みが深くなる。服の擦れる音がする。抱きしめる彼の堅い腕。首筋を伝う唇の熱さ。 不意に、何かが頬を滑っていった。それを感じた瞬間、はっとした。 「やっ……よせ!」 大きな身体を押し退け、僕は叫んだ。裕也が凍り付いたように僕を見た。 僕は泣いていた。 一度溢れ出したものが、もう止まらなくなっていた。目頭に腕を遣りこらえようとしたが、惨めな泣き顔を隠すこと以外、何の役にも立たなかった。その上、涙にむせんだところに強烈な咳の発作が襲いかかってきて、僕はベッドの上でエビのように身体を折り曲げ咳き込んだ。咳き込みながら泣いた。声を上げることも出来ず呼吸困難に陥りながら、それこそ吐くようにして泣いた。 「歩さん!」 差し伸べられた手を払い退け、切れ切れに怒鳴る。 「さわる…な……出てけ………!」 苦しくて何も見えなかった。気が狂いそうだった。 もう乗り越えたはずなのに。乗り越えたと思っていたのに。何故、なぜこんなにものたうち回るほどに胸が痛むのだろう。何度も何度も、繰り返し荒波のように胸をえぐっては、耐えきれなくなった僕をずたずたにしていく。何度も何度も。気が狂うまで。気が遠くなるまで。まるで呪われているように。 暗い闇が唐突にぽっかりと口を開け、その中へ引きずられるように意識が遠退く。抗うことも飛び込むことも叶わない、全てをひととき切り離す闇は、いつも唐突に訪れる。 意識喪失。 嗄れた喉の痛みだけが、残像のように跡をひいた。 薄暗い部屋の壁際に、彼がうずくまっていた。 膝をかかえ、壁にもたれて、じっと僕を見ていた。 「歩さん……」 泣き出しそうな声で、裕也が言う。 「俺もう何もしないから、ここにいさせてくれよ。このままあんたを放っておけない。せめて、風邪がよくなるまで、俺をここにおいて」 縋るような眼をしていた。まるで、道端の段ボールの中から見上げる捨て犬のように。 「僕……眠ってた? どれくらい……」 「半日。その間に、一度気分悪いって、吐いた。憶えてない?」 おぼろげな記憶しかなかった。 「タオルとかあんたの着替え探すのにあっちこっち勝手に開けた……ごめん」 別に見られてまずいものもなかったから、僕はかすかに首を振った。 「あんたが寝てる間、アイスノン取り替えたりした以外は何もしてないから。あんたに近づいてもいない。本当だよ」 そういえば額がひんやりしていた。肩から起きようとするとタオルに挟まれた保冷剤が枕の上に滑り落ちた。まだ身体がふらついた。 「歩さんっ」 慌てて腰を浮かしかけた裕也が、思い留まったように動きを止め、僕を見る。 「側にいってもいいか?」 なんて言いつけに従順な奴なんだろう。そんな体力もないのに思わず笑みが零れそうになる。 「いいよ」 裕也は恐る恐る歩み寄ると、そっとベッドの脇に膝をついた。肘をついた僕と目線が同じになる。真摯なまなざしが瞬きもせずに僕を見つめた。 「苦しくない? 何か飲み物持ってこようか?」 「いい」 「寝てた方がいいよ。俺が何でも代わりにやるから」 僕は寝返りを打って俯せると、枕の上に片頬をつけ、裕也を見遣った。熱があるのか頬が熱かった。 「お前、なんで僕のこと知ってたんだ?」 裕也は薄く微笑み、首を振った。 「いいんだ。歩さんが憶えてなかったら。偶然会って、ちょっと話しただけだったから。俺もさ、後から思い出そうとするほど、どんどんそん時のことがぼやけていって、夢だったんじゃないかって、自信なかった。あの人は、俺が勝手に作った空想だったのかなって。なんか、あん時のあんたはどっか消えてってしまいそうな感じがして、すごく、なんていうか、生きてるのが不思議みたいな、ほんとにか細い幻みたいだったから。……でもあんたはちゃんと現実にここにいたんだ。夢でも幻でもなかった。俺、それだけでうれしいんだ。歩さんがここにいてくれたこと、本当に感謝してる」 照れ混じりの笑みを湛えた眸を眺めながら、変な奴、と思った。 「僕は別にか細くなんかないよ」 「そういう意味じゃなくて、印象だよ。あんたの持ってる雰囲気。昨日街で見かけた時もすぐに分かった。あの時と変わってなかったよ」 眠くなってきて、僕は眼を伏せながら問いかけた。 「なんで僕なんかがいいんだ?」 「なんで……って」 裕也はムキになった子供のように言った。 「そんなこと、言葉にできるもんじゃねぇだろ? 俺だってずっと悩んだんだ。俺、ホモじゃねぇし、男を好きになるなんて頭おかしくなったんじゃねぇかって。今だって、他の男見たって何も感じねぇよ。結局、男とか女とかそんなの関係ねぇんだよ。俺はあんたが好きなんだ。ほんの1、2分話しただけだったけど、それでもあんたを好きになった。ずっと忘れられなかった。どこがどうだから好きだなんて、そんなこと解らねぇよ。俺、頭悪いのかもしれない。けど、どうしてももう一度逢いたかった。話がしたかった。触れたら消えそうだったあんたに触れてみたかった。だから、捜しにきた。何度もこの街に来て。あんたのいた大学に行って」 「僕と大学で会った……?」 「去年の入試の時。でも忘れたろう?」 胸の傷が、少しうずいた。 「そうらしいね」 僕は泣いた後のような気分を抱いて、眼を閉じる。 「顔、熱い」 「熱、また上がったのかもな。氷、持ってこようか?」 「うん」 動きかけた裕也の動きが止まった。 「歩さん」 「なに?」 「触れても、いいか?」 ほんの少し、震えたような声音だった。僕は眼を閉じたまま、いいよ、と答えた。少しためらうような間をおいて、ひんやりした掌が左の頬に降りてきた。壊れ物に触れるようにそっと頬を包み、それから前髪を掻き上げて、熱っぽい額に当てられる。 「やっぱ、熱あるみたいだ」 「お前の手、冷たい」 「あ、ごめん」 「気持ちいいよ」 熱が、裕也の掌に溶けていくようだった。 「手の冷たい人がいい……心のあったかい奴の方がいい……」 頬を滑り降りた裕也の手が僕の顎から首筋にかかった。 「歩さん………」 裕也の声が、すぐ耳元にした。 「俺、あんたを抱きたい」 僕は瞼を開いた。裕也の眸が間近にあった。眼鏡の奥の深い色の眸が。 僕の目頭は、うっすらと熱くなっていた。 裕也と視線を合わせ、そして逸らした。 「……まだ好きなんだ、きっと」 しっかりしていられると思ったのに、声は震えた。 「きっと、こんなにすぐ、泣ける、くらい……」 眉根を振り絞っても堪えきれず、閉じた眸からぽろぽろと涙が転がっては落ちる。 1年も前に終わったことなのに。どうして今更涙が溢れるのだろう。一方的に恋をして、一方的に失恋したのに。もう恋を失っているのに。 1年前。同じように僕は泣いていた。 裕也の指が、不器用に僕の目許を拭う。 「ごめん……ごめん歩さん……悪かった、ごめん………」 裕也は僕が泣き止むまで、何度も何度も謝り続けた。僕は、違う、と心の中で否定し続けた。謝ってほしい人なんかいない。誰も悪くない、僕も森里も。 そうでも思わなければ、こんな女々しい生き方をしている僕には、辛すぎる。 |