12月の魔法


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 「どこかでお会いしたこと、ありませんか?」
  どこまでも途切れることのない雑踏の中から選び出したように、そう言って彼は僕の足を止めさせた。
 黒縁の眼鏡の奥から緊張したような二重瞼の双眸が僕を見つめていた。黒のコートに手編みのセーター姿を見て、何の関係もないのにどうしてだか『サンタさん』を思い出した。  僕より10cmは背が高い。
 一呼吸の観察の間をおいて、僕は答えた。
「宗教の勧誘なら、もう少しましな声のかけ方考えた方がいいよ。どっちにしても僕は間に合ってるから」
 そう言い置いて、僕は再び流れの中に足を踏み出した。まだ背後から呼び止める声が聞こえていたが、振り返らなかった。
  神だか救世主だか知らないけど、とりあえず誰かの慈悲に縋ってまで生きようとは思っていない。そのくらいのプライドはまだあると思う。言い切ることまではまだ出来ないのが、少し悔しいけど。
  クリスマスキャロルが途切れる事なく人々の頭上を流れ、街が緑と赤でラッピングされる季節は、何もかもがどこかそわそわと落ち着かない。ざわめきも足音も行き交う車のテールランプも、イルミネーションも。
 僕だけが、一人浮き上がっている。




  クリスマスキャロルは好きじゃない。
 12月の街を歩くたびについ難しい顔をしてこう思ってしまうのは、僕の誕生日が12月25日だからだ。
 物心ついた頃から、僕の誕生日は24日のクリスマスイヴに併合されていた。誕生日ケーキがクリスマスケーキだった。同じ兄弟でも8月生まれの姉はちゃんと誕生日を祝ってもらえる。幼い頃は本気で親の愛情を疑ったものだ。その名残りが、20歳を迎える今年も条件反射のように顔をしかめさせている。
 不機嫌になる要素は他にもあった。街頭の6度の気温表示。まっすぐに歩けないほどの人混み。ビルとビルの隙間に顔を覗かせる灰色の空の、今にも降り出しそうな色。行き着くたびに赤になる信号。宗教の勧誘。悪寒を訴える背筋と重い頭。昨日から体調が良くないのだ。そして、彼。
「あゆみー! おせーぞ、凍死すっかと思ったぜー」
 大きな角張った手を振って、森里もりさとが座り込んだガードレールから腰を上げるのが見えた。道路を挟んだ向こう側だ。点滅の始まった横断歩道を慌てて走り、息を切らせて側へ駆けつける。あのがさつな大声で名前を連呼されるなんて冗談じゃない。
「いちいち大声出すなよ、恥ずかしい」
「別に放送禁止用語叫んだ訳じゃないぜ、恥ずかしがるこたぁ、ねぇだろう」
 夏城森里なつきもりさと   どっちが名字なんだか名前なんだか分からないような名前の彼は、そう言ってニヤニヤ笑った。彼は僕が自分の名前を気にしているのを知っていて、わざと名前の方を呼んでいる。女のような名前だと言って隠そうとする方が女々しいと笑い飛ばす、そういう男だ。
 森里が一浪して大学に入ったのを知ったのは、知り合ってずいぶん経ってからだった。彼が年上だという実感は普段はあまり感じない。特に今のような時は、ただのガキだ。
「まったく。彼女とデートする時もこんな調子なのかよ」
 森里は僕の12cm上で眉を上げた。
「まさか。苦労してゲットした獲物をみすみす逃がしてどうする」
「自覚はあるんだ」
「お前とあいつじゃ、態度違って当然だろ?」
 少し、声のトーンを保つのに苦労する科白だった。
「なら、彼女と買い物しろよ。人がテスト疲れで寝込んでるとこ叩き起こさないでさ」
 冬休み前の試験が終わったのは、ちょうど昨日の今頃だった。実はそれから1時間前に森里の電話が入るまで、僕は一度も起きていなかった。
 少し困った顔の森里の左手が額へと伸びて、落ちかかった黒髪を掻き上げた。硬めの癖のない髪が、大きな掌から零れ落ちていく。腰のない癖っ毛気味の髪の持ち主である僕は、彼のその仕草を見るたび、羨ましいのだ、とずっとそう思っていた。
 まだ、視線が動かなくなることがある。気がつくと彼の手を追っている。逸らすのに意志の力が要った。
あゆみ、センスいいだろ? だいたい女に服選んでもらうのって、なんか嫌じゃねぇか」
「普通は彼女に選ばせるもんじゃねぇの?」
「その服着て会うんだぜ。俺、すげぇ嫌だ」
「なんでだよぉ」
 俯いて笑ったら咳が出た。止まらなくなった。
「おい、大丈夫か? 歩?」
 森里の声が耳元でする。低く、少し掠れたようないつもの声。心配げに語尾が上がる。「平気平気」と手を振って、何とか顔を上げた。
「なんか顔色悪いぞ。風邪ひいてんのか?」
「何でもないって。寝不足なだけ……」
 言葉が宙に浮いたまま途切れる。不意に伸びてきた森里の左手が僕の前髪を掻き上げ、額に触れた。反射的にびくりと身体が震えた。幸いにも彼はそれに気づかなかったらしい。
  「……うん、熱はないみたいだな」
 凍死するだのと言っていたくせに、掌は僕よりずっと温かかった。触れられた額に温もりの痕が残るほどに。『手の温かい人は心が冷たい』ふと、そんな迷信を思い出す。
「ほんとに何でもないんだって。さっさと行こう。いつまでもこんなとこにいたら、それこそ風邪ひくよ」
 彼は眼を細め、ふいに眩しくなるほどの笑顔を見せた。
「そうだな。それでクリスマスに寝込んだら、悲惨だしな」
 彼は郷里へは帰らず、この街で彼女と年を越す。
 僕は予定では今頃帰省の電車に乗っているはずだった。このままずるずると帰るきっかけをなくしていけば、この街ではじめて新年を迎えることになるかもしれない。
 どこまでも途切れのないざわめきに混じって、華やかなクリスマスキャロルが街にあふれている。
 強張った笑みも浮かべず会話が出来る。何事もなく、何の隠し事もないふりをして。屈託なく笑っている自分を他人事のように遠く感じながら、僕は不思議だった。僕は健気なのだろうか、それとも単に全て忘れてしまっただけの薄っぺらな人間なのだろうか、と。




  なんだか暗いな   と、気がついて辺りを見回せば、陽はもう山際に姿を消していた。  枯れた腕を広げる街路樹の隙間から見上げる空は、街中よりも広く、ほんの少し空に近づいて見える。
  分厚い雲の切れ間から覗く天の色が吸い込まれそうな鮮やかな青で、僕は天を仰いだまましばらくぼんやりと立ち尽くした。
 まるで夢遊病者だ。流れていく雲を眺めながら自嘲する。森里と別れたあと、どうやら僕はまっすぐに自分のアパートへは帰っていなかったようで、知らぬ間に緩やかな坂道を上がっていた。市街から少し離れた丘の上。もう、そこへ行くことが習慣になってしまっている。ほとんど記憶が定かではなかった1年ほどの間、僕は毎日のようにこの道を通っていた。全てが曖昧な記憶の断片でしかなかった日々の繰り返しの中で、何故かこの道筋とこの先に広がる風景だけは憶えている。ただ、眺めていただけのはずなのに、不思議なくらいに鮮明に。
 小さく溜め息を付こうとして咳が出た。背中から二の腕に鳥肌が立っていることにようやく気づく。このままでは本当に寝込んでしまうことになる。帰ろうか。そう思って来た道を振り返った。そこに『彼』がいた。
 見覚えのあるその人物が誰なのか、思い出すまで瞬きの間の時間がかかった。分かると同時にあの後街からずっと尾けられていたことを悟って、むかむかしたものが喉元に競りあがってきた。
 先に話しかけてきたのは向こうの方だった。
「あの……大丈夫ですか? なんか顔色悪いみたいだけど……」
「なんなんだよ」
 坂道の上から見る彼は、中学生のようにも見えた。眼鏡のフレームも顔のつくりもずっと幼く見えた。不快な要因が重なって、僕はかなり険しい眼をしていたと思う。発した声も、いつもよりずっと低かった。
「僕は尾行されるようなことをした憶えはないけどな」
「……すいません」
 ちらりと怖じ気づいた表情をみせる彼の様子が、苛立ちを加速させた。
「謝るくらいなら、初めからしないでほしいね」
 僕は坂道を下り始めた。足をアスファルトにつけるたび、視界が揺れて目眩を起こしているように感じる。
 すれ違う瞬間、半ば叫ぶようにして彼が言った。
「俺はあんたに会いにきたんだ!」
「へぇ、最近の勧誘はしつこいんだな」
 僕は鋭く視線を差し向ける。真摯な眸がまともにぶつかってきた。それでも僕は足を止めなかった。苛立っていたし、それにひどく疲れていた。
「俺は宗教の勧誘なんかじゃない!」
「じゃあなんだよ」
 足を止め、怒りを込めて振り返る。北風に吹かれた落ち葉が、かさかさと道路を横切っていく。彼の前髪が冷たい風に揺れていた。
「宗教じゃなかったら、他人の周りをこそこそ尾けまわしていいっていうのか。お前、お巡りか? ウザいんだよ。二度とその顔見せるな」
 僕はそれきり振り返らなかったし、彼も声をかけてくることはなかった。
 暗く夜に呑まれていく丘から、幾万もの灯があふれ輝き始める街の中へ、坂道を下っていくにつれて僕は身体ごと沈んでいく。
 早く帰って眠ってしまいたかった。ただ、背中に痛いほど感じる真摯であろうまなざしと、罵声を浴びせた瞬間の傷ついた表情が、消せない落書きのようにいつまでも心の端に引っかかって、僕の足取りを重くさせていた。




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