8.サクラ散ル頃




 闇に閉ざされていた空が色を変えていく。
 藍色に満ちた空気が徐々に白み始めていくのを、眠れず、樹は見つめていた。
 咲き揃い、開ききった花は散っていくしかない。朝がくれば、朝陽が差し込めば、あの桜達は散り始める。
 涼の時間が終わってしまう。
 東の空が赤く染まり出す。樹には何も出来ない。朝焼けから顔を覗かせた太陽が当たり前のように昇っていく。夕焼けのような赤い光が、透明度を増し明るい陽光に変わりながら樹の病室にも差し込んでくる。
 耐えきれなくなって、樹はベッドを降りた。パジャマ着のまま、病室を飛び出す。
 明るくなったばかりの空は、薄い雲が真珠色に染まって風景画のようだった。冴えた空気が肌にまとわりついて、薄着の身体から体温を奪っていく。
 静かだった。
 病院の前の道路に出ると、桜並木が樹を待っていた。甘い香りが立ち込めた満開の薄紅のトンネルの中を、枝を離れた花びらが音もなく幾筋も舞い落ちていく。
 樹は裸足の足を踏み出した。
 風のそよぎすらもない坂道に、樹の息づかいだけが聞こえる。
 再会したあの時も、同じように静かだった。あの時は夕暮れで、花もまだ蕾だった。今は惜みもせず舞う花びらが、樹の肩や髪に降り落ちる。
 静かな雨のようだ。
 樹は時折息苦しくなる胸を押さえながら、桜のトンネルを上った。
 既視感が過ぎる。あの時のように、彼は同じ場所にいるのではないか、と。
 ゆるいカーブを抜け視界が広がる。
 樹は足を止めた。
 学生服姿の彼が、眩しそうに眼を細めて桜を見上げていた。
「涼……」
 震えそうな声で呼びかける。彼が振り向く。淡い春の光のように、ふわりと笑った。
「樹君」
 樹は駆け出した。彼に手を伸ばし、引き寄せ、抱き締め、その髪に頬を埋める。
「涼……」
 息も出来ない。何も言葉にならない。言おうとしていたことも、言わなければならないことも、喉が詰まってただ彼の名を繰り返すしか出来ない。
「涼……りょう……」
 桜の香り。消毒薬の匂い。冷たい肌。それらが何を指し示すものなのか、分かってしまった今でも、紛れもなく彼は久住涼だった。白い頬も、柔らかな髪も、細い指先も、長いまつげも、黒目がちな眸も、初めて会った時から樹を釘付けにした彼のものだった。
 愛しさと苦しさが同じだけの強さで膨れ上がり、樹を締め付けて気が遠くなりそうになる。
「……時間、足りなかった」
 ぽつり、と彼が言った。腕の力を緩めて間近に向き合う。彼は微笑んでいた。
「ちゃんと描き上げたかったんだけど、やっぱり時間切れだったよ」
 胸を切り裂かれるような痛みが襲う。
「俺……」
 震えそうになる声を抑える為に、樹は無理矢理息を吸い込んだ。
「何でもする。あんたが俺にしてほしいこと。何を言ってくれてもいい。どんなことでもいいから。死ねって言うなら、今すぐ死ぬ……」
「そんなこと、軽々しく言っちゃダメだって、言ったろ?」
 伸ばされた指が頬に触れる。ひんやりと冷たい感触が頬を覆って、感情とは無関係に身体の芯が熱くなる。間近で見つめる黒目がちの眸。吸い込まれそうなそれに伸ばしかけた手を、意志の力で押しとどめる。
「せっかく救った命なんだから。君は負い目なんか感じなくていいんだよ」
「え……?」
 救った……?
 樹は意味が分からず瞠目した。
「君が僕のことを何も憶えていなかったのは、僕と約束したからなんだ。君はそれをずっと守っていてくれた」
 涼が両手を樹の頬に当てる。鼓動が跳ね上がって思わず引きかけた身体を引きとめ、彼はそっと樹と額を重ねた。
「もういいよ。思い出しても。君は僕を傷つけたりしてない。僕が怪我をしたのは、君を庇ってはねられたからなんだ」
 樹は息を飲んだ。脳裏に鮮明な過去の映像がよみがえる。
    絵なんか、大嫌いだ   
 そう胸の内に叫んで、彼に向かって走り出したあの後、樹は絵の具の準備をしていた彼の膝から、スケッチブックをもぎ取った。
    こんなもん、捨ててやる!
 驚く彼の手をすり抜け、道路に飛び出す。道路の中央であっかんぺーをしようとして振り向いた時、目の前に車がきていた。フロントガラス越しに、運転席の中年男の、眼の焦点の合わない赤ら顔が見えた。酔っぱらいだ、と分かった瞬間、エンジン音が鼓膜を突き破るほど頭に響いた。
    樹君!
 声がした。ドンッと何かに突き飛ばされて転がった。衝撃で息が詰まって、だが、痛みはそれほどなかった。
 何も物音がしなくなって、恐る恐る眼を開ける。樹の身体はしっかりと抱き締められていた。
    涼……?
 樹が身じろぐと、あっけなくその腕から力が抜けた。
 身体を起こそうと付いた掌が、ぬるりと生温かいものに触れた。視線を落とす。真っ赤な血だまりに手を突っ込んでいた。血溜まりはぬるぬると増殖を続けて樹に迫ってくる。びっくりして声も出なかった。咄嗟に手を引っ込める。その時気がついた。その流れる血の始まりが彼だということに。
 眼を閉じて横たわる彼の栗色の髪はべったりと濡れていた。その髪先から滴る雫が、蒼白の頬を恐ろしい赤に染めていく。
    りょう……りょう……?
 震えながら呼びかける。彼がうっすらと眼を開けた。苦しげに息を乱しながら、おののく樹を見、大丈夫だよ、と呟いた。
    何も怖くない……君は何も悪くないから…
    だっ…て……血が……
 泣き出しそうな樹を見上げて、その不安を取り払うように、彼はきっと渾身の力で、微笑ってみせた。
    大丈夫だよ……今、起こったことは全部……忘れるんだ……憶えてちゃいけない……いいね……
 微笑みがすぅっと消えていく。
    全部、忘れる…んだよ………
 涼が動かなくなる。
 何も聞こえない。
 樹は座り込んだまま、辺りを見回した。歩道に乗り上げて止まった車。へこんだバンパー。踏みつぶされてはみ出した絵の具。散らばる割れたヘッドライトの破片。頭上には満開の桜。そして、樹と涼の周りに広がっていく、血溜まり。落ちたスケッチブックに染みこんでいく、赤。
 その後の、記憶はない。
 涼の声が現実に引き戻した。
「事故のこと、僕がみんなに説明出来なかったから、あの約束のせいで君はもっと苦しむことになったんだ。ごめん」
「……んで謝んだよ」
 懸命に眉を引き絞る。
「俺のせいじゃねーか! 俺があんなバカなことしたから、あんたに怪我させちまったんじゃねーか。俺みたいなバカなガキ庇って、なんであんたが……っ」
「意味のあること、出来たんだと思う」
 涼は微笑った。
「ずっと思ってた。僕には何にもないって。僕には何の取り柄もなかった。絵を描くことは大好きだったけど、進路志望を訊かれても、美大に行くって決めるだけの自信も勇気もなかった。好きであることと、才能は違う。僕には結局、中途半端なものしかないって、そう思ってた」
「そんなことねーよ!」
 怒鳴っていた。
「あんたの描く絵はすげーよ! 俺、美術なんて全然分かんねーけど、あんたの絵は綺麗だし、歪んだりしてねーし、それにちゃんと伝わってくる、あんたの絵が好きだって気持ち。あんた言ってたじゃねーか、絵は自分の気持ちを表現する手段だって。それ、ちゃんと表現出来てんじゃねーか!」
 驚いたように瞠られていた涼の眸が、少し潤んだようにみえた。
「……そんな風に言ってもらえたら、嬉しい」
 ふ、と涼の顔が近づく。柔らかな髪が頬をかすめて、樹は鼓動を跳ね上がらせた。涼の吐息が首筋にかかる。彼の手がそっと背中に触れた。
「涼……」
 柔らかな彼の感触。目眩を感じながらそっと抱き締め返す。腕の中に身をゆだねながら、彼は言った。
「ずっと心配してたんだ。あの時、僕のせいで君を泣かせてしまったから」
 違う、と言いかけた樹を、抱き締める手を強めて涼は遮る。
「だから、大きくなった君を見た時、嬉しかった。いつの間にか高校生になって、あんなに小さかったのに、背も僕と同じくらいに伸びてて」
 顔を上げてくすりと笑う。
「僕のしたことは報われているんだって、本当に嬉しかった」
「涼……」
 優しく微笑む彼の顔が、こらえきれずにぼやけていく。
「俺……」
 頬をぱたぱたと熱い雫が転がり落ちる。
「あんたが好きだ」
 1秒でも長く見つめていたいのに、彼の顔がぼやけてよく分からない。
「ずっと……初めて見た時から、好きだった。あんたが好きで大好きで、ちょっとでもあんたに俺を見てほしくて、ちょっかい出して、邪魔して……」
 溢れてこぼれていく雫を彼の手が拭って、その先は言わなくていいと首を振る。苦しくて眼を閉じると、また涙がこぼれた。
「あんたのこと忘れてても、あんたが好きだった。ここでもう一度あんたを見かけた時から、俺、あんたをずっと捜して……もう一度会いたくて……会いたくて……」
    もう、会えなくなる
 相原の言葉がよみがえって、どうしようもなく涙が込み上げる。
「樹君」
 涼は潤んだ眼を細め、そっと儚げな笑顔をみせた。
「ありがとう   
 桜の花を透かして、朝陽が差し込んでくる。その光に溶けるように彼の姿が薄れたような気がして、樹ははっとした。
「涼……!?」
「もう……行かなきゃ駄目なのかな」
 気のせいではない。彼の姿は、本当に朝の冷たい大気に溶けていくように、薄れ始めていた。慌てて強く、抱き締めなおす。だが、その触れた感触すらも希薄なものに変わっていく。
 樹は戦慄した。
「や……行くなよ!」
 叫んだ。
「行くな、どこにも行くな!!」
 こうなってしまった元凶の自分に、そんなことを言える権利があるはずもない。言うまいと固く封じ込めたはずの想いが、我がままに泣き叫ぶ子供のように口をつく。
「行くなよ! 涼!!」
「……ごめん」
 困ったように、悲しいように見つめる眸さえ、空気に溶けて薄れていく。
「いやだ!!」
 涼が、ふ、と手を伸ばす。髪と頬にすべらかな掌が触れ、微笑んだ眸に眼を奪われた時、わめき続けた唇が、柔らかな唇にふさがれた。
 ざあっと風が吹き渡る。
 花びらが一斉に舞い上がり、薄青い空を埋め、2人を覆う。
 薄紅の花嵐の中で、2人は抱き合い、口吻け合った。
 花びらが頬に、腕に、肩に、髪に降りかかる。
 風が止み、その感触が途絶えた時、彼の姿は消えていた。
 道路も木々の間も、一面薄紅の花びらで埋め尽くされた坂道で、樹はただ立ち尽くした。
 君が、好き   .
 最後に聞いたその声を、胸に刻み込みながら。






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