9.未来 すっかり桜が散り、初七日が過ぎた頃、彼の両親が突然樹を訪ねてきた。 しきりと恐縮し、頭を下げ続ける樹の母親に、彼の母親は「今日は謝りにきたんです」と疲れた笑顔で首を振った。 「私は、涼が絵を描くことに反対していました。あの子の絵に対する熱中ぶりは、ただの趣味の領域じゃなかった。不安でした。将来画家になりたいだなんて、言い出したらどうしようと思って。 私は親として、やっぱりちゃんとした会社に就職して、安定した生活をしてほしかったんです。絵なんか描いて、まともに生きていける訳がない。あの子が本当は美大へ行きたがっていたのも薄々知っていました。何が何でも止めるつもりでいたんですが、そういう私の考えを悟って、あの子は何も言い出せなかったようで…… あの事故があってからは、本当に絵が全ての元凶のような気がして、家にあった画材は全て捨ててしまいました。あの子が描いたスケッチも全部……それなのに、先日葬儀が終わってあの子の部屋へ行ってみたら、これが机の上にあったんです」 テーブルの上に出されたものに、見覚えがあった。茶色い、大判のスケッチブック。綺麗な字で彼の名前が書かれている。確か、辻谷から預かった直後に3年の連中に襲われて、その時手放したのではなかっただろうか。すっかり忘れてしまっていた。 「何故、それだけが残っていて、机の上にあったのか不思議なんですが、何かあの子に諭された気がして中を開いてみたんです。そうしたら、樹君を描いたスケッチがあって、それが本当に可愛くて、生き生きしていて……涼は、この子が好きなんだなっていうのが伝わってきて……」 彼の母親はハンカチで瞼を押さえた。 「涼がそんなに好きで心を許した子が、涼を傷つけるようなことをするはずがないって、そう思えたんです、やっと……」 樹はスケッチブックを手に取り、開いた。少し黄ばんだ紙の中ではしゃいで駆け回っている、生意気そうな、手に負えなさそうな子供。描いている人と向かいあうのに照れて、視線を逸らしてばかりの顔。 不意に涙が込み上げた。 「あの時車を運転していた人が泥酔状態で、他に誰も目撃した人がいなかったから、本当のことが何も分からなくて、私はあなたをずっと犯人扱いして責めてきた。涼を傷つけられて、失ってしまうかもしれないっていう気持ちの矛先を、あなたに向けることで自分を保とうとしたのよ。あなたは、まだこんなに小さかったのに……今更、何を言っても仕様がないけれど、ごめんなさいね……」 彼の母親の肩を夫がそっと抱く。誰かに憎しみを向けることをやめた母親に、彼もきっとほっとしているに違いない。 自分もやめなければ。そう思った。 大切な人を傷つけてしまった、その痛みや自分への嫌悪を、別のものに向けて紛らわそうとするのを。 涙を拭って、彼の母親は顔を上げた。 「樹君、もしよかったらこのスケッチブック、もらってもらえないかしら。涼はきっとあなたに持っていてほしいんじゃないかって、そんな気がするの。あなたの重荷にならなければ、だけど……」 樹は頷いた。 「一生、大切にします」 終業のチャイムが鳴って、退屈な授業から解放された教室が息を吹き返したように活気づく。 急に元気にさえずり出すクラスメイト達の合間を縫って、教室を出ようとした背中に声がかかった。 「おーい、本多ぁ。今日は部活来るんだろ?」 立ち話をしている女子の間を強引に割って通って追いついた松岡が、目一杯ブーイングを浴びながら樹の肩を叩いた。 「一緒に行こうぜ」 「悪ぃ、俺今日もパス」 「なんだよ、あばらまだくっつかねーのか?」 「まあ、それもあっけど」 「え? じゃあ何? まさかデートっすか!?」 「そんなにあれこれ他人の詮索するもんじゃないよ、松岡君」 後ろから伸びてきた手が、松岡の首根をぐいっと抱き込んだ。 「おわっ!? 相原? お前もグルか!??」 「なんのグルだよ」 相原が笑いながら樹を見た。 「行って来いよ。こっちはなんも心配いらねーから」 「ていうか、レギュラー取られっぞ、お前」 樹はにやりと笑って返した。 「そん時は実力で取り返したるから、心配すんな」 後ろ手に手を振って歩き出す。 喧噪の中、開いた廊下の窓から、海から坂道を上ってきた風がひやりと髪を撫でていく。 彼がいた場所。彼がいた季節。全てが過ぎ去り想い出に変わっても、消えないものがある。 階段を上がり、美術室の扉を開ける。 窓際に置かれた、イーゼルとキャンパス。 明るい日差しを浴びて白く反射するその描きかけのキャンパスに、色をつけていくのは樹の役目だから。 「お、来たか、本多」 準備室から出てきた辻谷が、眼鏡の奥の眸を柔和に細めて樹を迎える。 「よろしくお願いします」 樹は笑顔で頭を下げた。 Fin. |