7.真実 出会ったのは、夏の終わりだった。 彼はまばらに揺れる木洩れ日の下で、道端の草の上に座り、スケッチブックを広げていた。 彼が振り向く。白い肌に優しげな黒目がちの眸。栗色の髪が木洩れ日を受けてきらきら輝く。 彼は困ったように微笑んだ。 今度は彼が変な顔をした。 彼はにこりとした。 絵なんて全然興味なかったのに、彼の笑顔につられて頷いていた。 それから、坂道に現れて座り込んでいる彼を見つけては、その邪魔をして、絵の描き方をいろいろ教えてもらった。 とても綺麗な人だった。春風みたいに、ふわふわしてあったかい感じがした。楽しげに笑うその横顔を盗み見るたびに、何故か胸がどきどきした。 それが恋だなんて、分かりもせずに。 「本多……おい、本多!」 頬をはたかれてはっと眼を開けると、眉を寄せた相原の顔がすぐ近くにあった。 「あ……」 自分は何歳なのか、どこにいるのか、ここはいつなのか、目の前の友人は誰なのか。混乱して視線をさまよわせる。古びた広い天井。自分の家じゃない。蛍光灯が眩しい。学校? 視界を降ろしていってはっとした。窓際に立てられたイーゼルと、キャンバス。 「おい、大丈夫かよ。お前怪我ひどくなってんじゃないのか?」 樹は跳ね起きようとして胸部の激痛に襲われ、数センチほどしか身体を起こせず床に逆戻りした。 「なっ……何やってんだよ!?」 あまりの痛みに呻き声も満足に出せない。相原が樹の両肩を押さえた。 「お前、転んだんだろ。絶対あばら折れてるぞ。動くな」 「涼……は」 「知るかよ。俺がきた時は、お前がここに転がってるだけだった」 「なん……で……」 樹はキャンバスに眼を向ける。ここからでは描かれているものは見えない。涼は時間がないと言っていたのに。 もう、描く時間がないと。 急激な悪寒が身体を襲う。込み上げてくる吐き気に口許を覆おうとして、樹は気づいた。小刻みに震える掌に、べっとりと濡れていたはずの血の跡はなかった。 「涼……」 涼が消えている。底なしの沼に沈んでいくような、ぞっとする感覚が身体を走る。 「涼は……涼はどこだよ……」 「動くなって言ってんだろ」 樹は相原の腕に手をかける。 「離せよ、涼……捜さないと……」 「いい加減にしろよ!」 相原が怒鳴った。 「病院抜けて、お前何やってんだよ。お前んとこのおばさん、さっき俺に電話かけてきて、お前の居場所に心当たりないかって、泣いてたんだぞ。お前、何やらかしたんだ。何があったんだよ!」 泣いていた……? 樹は絶句した。 母親が泣いているところなど見たことがない。物心ついた時から、樹が問題を起こすたび、母親は学校やケンカ相手の両親や時には警察に平身低頭で謝罪した後、樹の前に仁王立ちになり、それこそ機関銃のように説教をまくし立てた。樹の背が伸びて母親を追い越しても、樹の前に立ちはだかるそれは変わらなかった。 だが一度、夜中に喉が乾いて台所へ降りた時、テーブルの椅子に一人で座る後ろ姿を見たことがある。俯く肩が小さく震えていた。あれは確か、まだ樹が母親よりずっと背の小さかった頃だった。あの事故が起きたその後の夜だった。 「涼が……」 樹は声を詰まらせた。 「俺のせいなんだ……全部……母さんが泣くのも、涼の時間がもうないのも、全部……俺が……俺が……」 声が震える。相原がじっと見つめている。その顔が押し上げてくる熱さと痛みにぼやけていく。 「俺が、涼を殺すんだ……っ」 吐き出すように声を絞り出す。ずっと封印してきた、恐ろしくて、信じたくなくて、そこから逃げたくて、いっそなかったことにしてしまった、事実。だがそれは、決して消えた訳でも、逃れられた訳でもない、ぬぐえない現実だった。 涙が溢れ出す。胸が痛い。頭が痛い。いっそ誰でもいい、無茶苦茶にしてほしい。殺してほしい。彼の母親の言う通りだ。これまでのうのうと生きてきた自分が信じられない。 「……なんでだよ。なんで俺が生きてて、涼が死ぬんだよ……逆だろ、相原。そうだろ?教えてくれよ……なんで俺……俺、どうしたらいいんだよ……!」 相原はしばらく黙って樹の様子を見つめていた。 「……落ち着けよ」 樹の肩から手を離し、なだめるようにぽんぽんと叩いた。 「事情はよく分からねぇけど」 落ち着いたいつもの口調で言う。 「久住はお前を責めるようなこと、言ったのか?」 樹は眼を見開いた。 「言う訳ないだろ。涼はいつだって、俺のこと庇って、悪くないって……けど、それはあいつが優しいから……」 「優しいからって、自分の生き死にに関わることにまで、遠慮して何にも言わねー奴なんかいねーよ。それともそこまでバカかよ、久住って」 「ば……バカって何だよっ」 相原はちょっと笑った。 「俺は、久住がお前のこと悪く思ってるようには思えない。大体、お前のこと殺したいほど憎んでるんだったら、お前が3年にやられてるのを、わざわざ俺に知らせたりしないだろ。……あいつ、最初に会った時から笑ってたじゃねーか。たぶん、お前のこと許してるよ。許して恨んでないから、『お前は悪くない』って、そう言えるんじゃねーのか?」 樹は嗚咽を何度も飲み込む。 「そんな……簡単じゃねーよ。俺は、事故起こして、10年もあいつを苦しめて……そんな……許しなんて、もらえるはず、ないだろ……」 「なら、訊いてみろよ、直接」 樹はかぶりを振る。 「俺に、そんな資格、ねぇよ」 「訊かないと、お前この先一生後悔するぞ。それでもいいのか」 「この先なんか……涼が死んだら、俺に生きてく資格なんか……」 いきなり喉元を掴まれて息が詰まった。滅多に見せない真剣なまなざしが、喉骨を潰しかねない鋭さで、眼鏡の奥から樹を睨み付けていた。 低い声で相原が言う。 「おい。それは逃げじゃないのか。早く楽になりてーからって、自分のしでかしたことから、んな簡単に逃げていいのかよ、本多」 涙声で怒鳴り返していた。 「じゃあ、どうしろってんだよ! どうすればいいんだよ! 死ぬ以上にどんな償いの方法があるんだよ、涼はもう死ぬんだ、俺のせいで! ……何が出来るっていうんだよ、俺に……」 「それを訊いてこい、って言ってんだよ」 手をゆるめ、相原はじっと樹を見つめた。 「それで、死ねって言われるんなら、死ねばいいじゃねーか。ののしられるなら、それ全部受け止めてくりゃいいじゃねーか。悩む前に、お前に選択権なんかねーだろ? 久住がもし、何も言えずに溜まってるもんがあんなら、それをすっきりさせることが出来るのは、お前だけじゃねーか。 もう、会えなくなるんならなおさら、お前はそれをやらなきゃなんないだろ?」 樹は呻いた。込み上げてくる感情の歯止めが利かない。腕でぬぐってもぬぐっても涙が止まらない。食いしばった歯の間から嗚咽が洩れる。 もう、会えなくなる その言葉が、何より樹を打ちのめした。 ひびが入っていたあばら骨の2本がやはり折れていたということと、精神的にもかなり不安定な状態だという診断で、樹の退院は延長されることになった。 病院に戻されるなり鎮静剤と睡眠誘導剤を打たれ、樹は有無を言わさず病室に監禁状態におかれた。 連れ戻された翌日の夕方になってようやく眼を覚ました樹は、思考の働かない頭で、窓の外の夕暮れを眺めていた。 この病院は高校へ上る坂道の入り口にあり、病室からも桜が見える。いつの間にあんなに咲きそろったのだろう、とぼんやり思う。坂道は霞のような薄紅色に覆い尽くされていた。 夕暮れにも染まり切らない、そこだけ異質なほど美しい薄紅の花の群れ。まるで清浄な、この世のものではないような。 かちゃり、とドアが開いた。 「あら、起きてたのね。お母さんは疲れが溜まってらっしゃるようだったから、家に帰って休んでもらってるわ」 昨日、涼の病室を尋ねた看護婦だった。散漫な思考が吹き飛んだ。 「体温、計ってくれる?」 樹は起きあがろうとして出来ず、頭だけを持ち上げた。 「……涼は?」 「興奮しないで」 看護婦が歩み寄って肩を押さえる。 「久住君は、生きてる」 樹はほっと息をついた。樹のこわばりが解けたのを察して、看護婦の手が離れた。 「決していい状態じゃないんだけどね。何故かその状態で安定してるの。先生も不思議がってる。普通ならどんどん悪化していくはずなのにって」 樹が眉を寄せるのを見て、看護婦は窓の外へ視線を向けた。 「桜なのかな、って思うのよ」 「桜……?」 看護婦は頷いた。 「久住君のお母さんがね、久住君は桜が大好きだって。毎年春になると病室に桜を飾りながら言ってたの。だから、満開になるのを待ってるのかな、って。非科学的だけど、よくあるのよ、そういうこと」 出会った時のことを思い出す。まだ濃いピンクの蕾がほころび始めたばかりの頃だった。ちらほら開き始めた桜を、のんびりと嬉しそうに見上げていた彼。 彼は本当に桜が好きだった。スケッチの途中で桜を見上げて止まってしまった昔の横顔が、不意に脳裏に浮かんだ。何をしているのかと訊くとはっとして、あんまり綺麗で見とれていたんだと、照れ笑いしていた。 「満開……いつなんですか」 「見頃は今日から明後日だって、テレビで言ってた」 彼は花が咲きそろうのを待っているのではない。あのキャンバスに絵を描き続けているはずだ。だが、時間は、もうないと言っていた。 桜の花と共に現れた、彼。 呟いていた言葉を思い出す。 「ねえ、本多君」 看護婦の声が現実に引き戻す。 「君のお母さん、月に一度は病院に来てたってこと、知ってた?」 意味が分からなかった。 「どういう、ことすか? ……まさか、どっか悪いんですか、母さん」 「お見舞いに来てたの。久住君の」 知るはずがなかった。樹は呆然とした。 「入院が長引いてくるとね、中には家族だってほとんどお見舞いに来なくなるところもあるくらいなのに、君のお母さん、本当に毎月欠かさず来てたんだよ。それで久住君のお母さんに、入院費の足しにってお金も渡してるんだって。これはその場に居合わせた人から聞いた話なんだけど」 言葉が出なかった。いつもいつも、お金がないと言っては、自分の服装や化粧に全然気を使わなかった母親。それを軽蔑していた自分。 その原因が、自分だったなんて。 「お母さん、君のこと本当に心配してるんだよ。自分が側についていれば、君が久住君のお母さんに鉢合わせたりしなかったのにって。今更昔のことなんか思い出しても、辛いだけでどうしようもないのにって、泣いてたよ」 当たり前のように自分を取り巻いていた環境が、姿を変えていく。何もかも忘れて生きていたのは本当に自分だけだったことに、今更気づく。 当然だ。都合よくなかったことにしてしまえたのは自分だけで、現実はなくならない。 涼やその家族が自分のしたことの為に苦しんでいる、その残酷な事実から何一つ言わずに盾となってくれていたのは、他の誰でもない家族だったのだ。 その家族に、自分は当たり前のように不満をいだいて、ぶちまけて、迷惑をかけてのうのうと生きてきた。 「だからね、本多君」 看護婦は労るように言った。 「お母さんに、もう心配かけさせないであげて」 彼は振り向いてもくれない。桜ばっかり一生懸命に眺めて描いて、もう何時間そうしてるんだ。何がそんなにおもしろいんだ。 樹は立ち上がった。 生返事を返すだけで、やっぱり樹を見もしない。ムカッときた。 乱暴に足を踏みならして坂を下りていく。10歩歩いたところで振り返ってみた。彼の視線はそれでもスケッチブックに釘付けだった。 何だよ。こんなに俺が言ってんのに。 ムカムカが頂点になる。 そんなに絵が好きなのかよ。絵なんか全然楽しくない。嫌いだ。大嫌いだ。 こぶしを握りしめて走り出す。彼に向かって。風が吹いてざわざわと桜が揺れる。花びらが舞う。坂の上からエンジン音が近づいてくる。 はっと眼を開いた。乱れた自分の息づかいが聞こえる。車の音はしない。全身汗まみれだった。息が苦しい。 視界に広がる黄ばんだ病院の天井が、ここが10年後だということを樹に教える。 いくらここから叫んでも、10年前の樹を呼び止めることも、引き留めることも出来ない。 もう、どうすることも出来ない。逃げることさえ。 樹はベッドの中で横向きに身体をすくめた。きつく眼を閉じる。 身体が震えて涙が溢れる。 「神…様……」 今まで一度も信じたこともなければ拝んだこともない。そんな奴の言葉なんか、たとえいたって聞いてくれるはずがない。それでも樹は、震える声で呟いた。 「いるなら、神様……俺を殺してくれ……涼の代わりに俺を………お願いだ、涼を助けてください……」 誰もいない病室に、声はうつろに響いた。 |