6.悪夢




 視界が白かった。真っ白ではなく、くすんで黄ばんだ白。
「まったく、あんたも今度のことで懲りたでしょ。あんたがどんだけ強いか知らないけど、そういつもいつも相手を負かせられるるもんじゃないんだからね」
 病院というのは、天井も壁もこうどうして白くするんだろう。ここで初めて眼が覚めた時、一瞬死後の世界にいるのかと思った。
 枕元で聞き飽きた声がする。
「だいたい、そうやって周りに敵ばっかり作るから、こんな目に遭うんだよ。自業自得だよ、自業自得。相原君達が助けに入ってくれなかったら、あんた今頃どうなってたか分からないだから。こんだけやられたんだから、あんたも人に殴られる痛みってもんが分かったでしょ。死んでから後悔したって遅いんだからね。もう2度とケンカなんかするんじゃないよ」
 勝ち誇ったような、それ見たことかと言わんばかりの、聞いていると相変わらずイライラさせられる母親の声。だが、その声音の中にも、安堵の響きを感じる。頭を動かして黄ばみがかった天井から視線を移すと、母親は相変わらず化粧気のない顔に、ほっとした笑みを浮かべていた。
「なあに、樹。人の顔じろじろ見て」
「……老けたなーと思って」
 母親はムッと眉をつり上げて、腰に両手を当てた。
「なに言ってんの、この子は。誰のせいでこんなに苦労して白髪増やしたと思ってんのよ。そう思うんなら、もう少し親をいたわって心配かけないでちょうだい」
「……めんどくせー」
 心配、したのかよ。という言葉は飲み込んだ。
「なに、その言いぐさ。あんたちょっとは親に感謝する心を持ちなさい。だいたいねぇ……」
 また延々母親の説教が続くかと思ったが、幸いドアをノックする音で遮られた。
「あら、相原君」
 母親の声がよそいきのトーンになる。樹がドアの方を見遣ると、くどくどと頭を下げて謝礼を繰り返す母親の向こうに、相原と松岡の顔が見えた。
「わざわざお見舞いありがとうね。怪我なんてホント大したことなかったんだけどね。あら、何もないわ。ごめんなさいね、ちょっと飲み物買ってくるわね」
 母親が一人でまくし立てて病室を出て行く。「お構いなく」と言いつつ、ちゃっかりコーラをオーダーした松岡が、改めてベッドの上の樹をしげしげと眺めた。
「しっかしお前も、あんだけやられて、よくそんなけろっとしてるよな。3年の奴らに囲まれて伸びてるの見た時、俺てっきり死んでると思ったのによ」
「勝手に殺すな」
 母親の話によれば、フクロにされていた樹を救ってくれたのは、相原達サッカー部の連中だったのだという。あの時、気を失う間際に聞いたのは、相原の声だったのだろう。
「で、怪我はどうだったんだ?」
「骨は……折れてないってさ」
 相原の問いに答えながら肘をついて起きあがる。あばらがぎしぎし軋んだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
 顔をしかめると、2人が慌てて手をさしのべてきた。
「ああ、あばら2本、ヒビ入ってるだけだからな。あと全身打撲。入院も念の為、今日一日だけだと」
 松岡が呆れた顔をした。
「よくまあ、そんだけで済んだなぁ、お前。ひょっとしたら、あいつらより軽傷かもよ」
「あいつらって?」
「お前を蹴り倒してた、3年の奴らだよ。相原にボッコボコにされて、今3人とも入院してんだぜ。しかも悪質事件起こしたってことで、退学処分になるらしい。ケンカ売るなら、もうちょっと相手選んでやりゃあいいのに」
 へぇ、と相原を見遣る。
「相原は、キレたら俺より数段すげぇからな」
「大袈裟だって」
「いやー、それ俺も思った。殴ってる時の相原って、マジ人間違ってたもんな。近寄りがたいっつーか、近づいたら俺まで殴られそうだったし」
「大袈裟だって」
 相原が困ったように訂正を繰り返す。樹はくすりと笑った。
「ま、とにかくありがとうな。お前らが来てくれなかったら、俺マジ殺られてたかもしんねーし」
「全快したら、おごれよー。俺、ファミレスで妥協しとくから」
「分かった。松岡はドリンクサービスな。好きなだけコーラ飲ませてやる」
「ちょ、待て、それキツくない?」
 ぎゃあぎゃあ騒ぎ出す松岡の隣で、相原が少し複雑な表情をする。
 それに樹が気づくと、タイミングよく松岡が「あ。俺ちょっとトイレ」と席を立つ。パタンとドアが締まり、二人きりになったところで、相原が口を開いた。
「……お前がずっと気にしてた、久住って奴」
「ん?」
「ずっと休学して、入院してんだったよな」
「ああ」
「なんで制服着てるんだろうな」
 樹はきょとんとした。
「は? 何いきなり」
「いや、なんとなく」
 自分でも思考の整理が出来ていないような口振りの相原は珍しい。
「そりゃ……ずっと学校行きたいって思ってるからじゃねーの? 校内入るのも、私服じゃ目立つし。それが、どうかしたのか?」
「お前がやられてたのを俺に教えたのが、久住だったんだ。気がついたらグランドの端っこに立って、体育館の裏手の方、指さしてた」
 それ以上黙り込んでしまう相原を、怪訝に見遣る。
「相原?」
「いや、なんでもない。俺の考え過ぎだな」
 話を打ち切るように顔を上げる。
「お前も元気そうだし、もう帰るわ。今日は課題死ぬほど出たしな」
「あ? うん……」
 そう言って、相原はトイレから帰ってきたところの松岡を捕まえ、さっさと帰ってしまった。
 一旦静かになった病室に、がちゃりとドアが開いて騒々しさが戻ってくる。
「あら、あの子達は?」
 樹はベッドにそろそろと寝転がりながら答える。
「帰った」
「え? コーラ売り切れてたから、わざわざ外の自販機まで行って買ってきたのに。まったくもう」
 一人で喋り続ける母親の声を聞き流しながら、樹は天井を見遣りぼんやりしていた。
 相原の言葉が、どこか引っかかる。
 忘れていた何かを思い出させるような。何だったか。誰かが何かを言っていたような。
 じわり、と胸底から嫌な感覚が這い出してくる。
 両手を握り締めた。鬱陶しい。この感覚はなんだ?
 不安、なのだろうか。
 死にかけたことに今頃動揺しているのだろうか? そうかもしれない。あの時、死んだらもう会えなくなると、樹は本気で死を恐れた。
 女々しい感情だ。でも、会いたい、彼に。
 涼の姿を思い浮かべる。
 会えばきっとこの苛立たしい感覚は収まるはずだ。彼はいつでも、樹を安堵させてくれる。
 唐突に彼がこの病院に入院していることを思い出した。
 なんだ、こんなに近くにいたんじゃないか。
「……じゃあ、母さんも晩ご飯作らなきゃいけないから。もう帰るからね。聞いてるの?樹」
「……ああ」
「うろうろ出歩かないのよ。お医者さんや看護婦さんに迷惑かけないようにね」
 パタンとドアが閉まり、騒々しさが消える。
 彼が側にいると分かって、ほっとしたらしい。急に眠気が襲ってきて、樹は眼を閉じた。
 
 
 
 うとうとしているうちに時間が過ぎ、病室を出たのは夜になってからだった。ナースステーションを探してうろうろしていると、ちょうどそれらしい部屋から看護婦が出てきて樹と鉢合わせた。
「あのー」
「はい?」
「友達の病室探してるんすけど、久住涼って、何号室ですか?」
「久住くん……?」
 看護婦の表情が変わった。
「……君、高校生くらいだよね?」
 戸惑いの表情を浮かべながら、樹を観察するように見つめる。
「あ、はい。高2ですけど……」
「友達、なの? 久住君と?」
「そうですけど、なんすか」
 片眉を上げて返すと、看護婦は訝しげな表情のまま、言った。
「久住君には会えないよ。もうずっと、面会謝絶だから」
「……は?」
 頭が真っ白になった。
「……い、いつから?」
「もう、一週間になるかな。ずっと寝たきりだったから段々心臓が弱ってきててね……今、危篤状態なの」
 真っ白な頭が、必死に動こうともがく。脳に酸素を送ろうと、樹は喘いだ。
「そ、それ、人違いだろ。同姓同名の奴、他にいるんだろ?」
 看護婦は首を振った。
「いないわよ。あの人、10年もずっと植物状態で入院してるから、ここの人はみんな知ってるのよ。おんなじ名前の人が入ってきたら、すぐ気づくもの」
「……嘘だろ」
 樹は呟いた。呟きながら踵を返し、走り出した。どっかにいるはずだ。俺の知ってる涼が、どっかに入院しているはずだ。危篤状態だって? 10年も植物状態だって? 誰だよ、それ。関係ねぇよ。そんな奴のことなんか知らねぇよ。
 階段を駆け上がり、病室の並ぶ廊下をふらふら走り回る。
 どこだよ、涼。どこにいんだよ。息が上がって胸が苦しい。痛い。胸を押さえて立ち止まる。廊下の突き当たり、一番奥の部屋。そのドアの脇に『久住涼』と名前があった。
「涼……」
 這い寄る不安を振り払い、気力を絞ってドアに歩み寄る。その時、内側からドアが開いた。
 やつれた中年の女が目頭を押さえながら廊下に出る。パタンとドアが閉まった。人がいるとは思わなかったのだろう。驚いて樹を見る。その見知らぬ女と眼があった瞬間、樹は硬直した。身体を底から締め上げられるような、全身の血が一気に引いていくような恐怖が、樹を支配した。
「あなた……」
 化粧のない頬はこけ、眼の下には濃いくまがべったりと張り付いている。後ろで束ねただけの髪も、ほつれて頬に暗い影を落としている。
 女は、かすれた声で繰り返した。
「あなた……誰?」
 確かに聞き覚えのない声。なのに、身体を凍らせる、この声。打たれたように答える樹の声もかすれた。
「本多樹……です」
 疲れ果てた女の顔が驚きに歪んでいく。眼を見開き、ひっと息を飲んだ口許を両手で覆う。
「ほんだ……たつき、ですって……!?」
 歪んでいく、鬼のような顔。
「……なによ、あんた……い、今更何しに来たの……謝りにでも来たっていうの? 何も知らないって、自分は関係ないって、あんなに強情に言い張ってたくせに……」
 震えるヒステリックな声。
「都合よく思い出したって訳? あの子が……あの子がこんな風になったからって……両親に焚きつけられて、仕方なく来たとでもいうの!!?」
 大声に驚いて、病室から白髪交じりの男が飛び出してくる。
「どうしたんだ、圭子」
「なんなのよ! どうしてあんたが、そんなに大きくなってのうのうと生きてるのよ! 涼は、涼はずっとベッドの上でなんにも出来ずに苦しんできたっていうのに、なのにあんたは……! 謝りなさいよ! 謝って、涼の代わりにあんたが死になさいよぉ!!」
「圭子、落ち着け! 今更そんなことを言って何になる」
 男に羽交い締めにされながら、女は泣き叫ぶ。あちこちから看護婦が駆け寄ってくる。
 声が刺さる。耳鳴りがする。目眩がする。
「この人殺し! あんたが涼を突き飛ばしたのよ! 人殺しぃ!!」
 嘘だ、嘘だ、嘘だ。
 樹はその場を逃げ出した。
 
 
 
 ざわざわと風に揉まれて桜が騒ぐ。
 頭上から責め立てる白い花の群れを振り払うように頭を振り、樹は走った。
 坂道は、走っても走っても前に進まない。悪夢のようだ。桜並木は永遠に続く。
「涼……」
    本当はあなたが涼を突き飛ばしたんじゃないの!?
 涙混じりのヒステリックな声。何度も何度も樹を打つ、声。
    だったらどうしてこの子は何も憶えていないなんて言うの。この子は無傷だったじゃないの、涼があんなひどい目に遭ったっていうのに! 記憶喪失なんてデタラメよ! この子は嘘をついてるのよ!!
 睨み付ける、憎悪の眼。
    子供だからって許されるっていうの!? どうしてよ、私は許さない、絶対に許さない!!
 いつまでも反響する声。突き刺さる糾弾のまなざし。
    オレじゃない、オレじゃない、オレは何も知らない、
 嘘だ。
「涼……っ」
 声が出ない。
    涼なんてヤツは知らない、どうしてこんなに叱られなきゃなんないんだ、オレはなんにもしてないのに、
 嘘だ。
    オレはなんにも憶えてないのに、どうしてみんなオレを悪者扱いするんだ、オレは悪くない、オレは、
 嘘だ。
「涼……!」
 渾身で叫んでも、息切れした肺はかすれた声しか絞り出せない。
「どこだよ、涼!」
 ざわざわと容赦なく桜が責め立てる。白い花びらが闇に揺れる。足がもつれ、不様に胸から倒れ込む。頬にアスファルトが食い込み、食いしばった歯が砂を噛む。
「オレは……ただ……」
 ただ、何だというのだ。それですべてが許されるとでもいうのか。
 胸が痛い。息が苦しい。苦しくて痛くて闇の世界が滅茶苦茶に歪む。
「涼……助けてくれよ……涼……」
 顔を上げると、桜の枝の向こうに、黒い闇にさらに黒く、校舎のシルエットが見えた。樹は必死に立ち上がり玄関へ走った。鍵はかかっておらず、扉が半分開いていた。
 涼がいる場所。心当たりは一つしかない。樹は廊下の窓から月明かりが差し込む校舎に入り、階段を駆け上がった。
 美術室の鍵も、やはり開いていた。
 ガラリと扉を開けると、眩しいくらいの月明かりを浴びて、彼がイーゼルにかけたキャンパスに向かい合っていた。
「涼……」
 息苦しさに力が抜けて、戸口に膝をつく。肩で息をする樹をゆっくりと振り返り、彼はふわりと微笑んだ。
「樹君が校内に入れてくれたから、ここにも自由に入れるようになったんだ。ありがとう」
「涼……涼、俺……」
 涼は絵筆を手に、キャンパスに向き直る。
「このキャンバス、コンクールに出すつもりで作ってあったんだ。やっと描き始められて嬉しいよ」
「それって……」
 涼は歌うように言った。
「そう、あの桜の坂道の絵だよ。君とスケッチしてた、あの風景」
 スケッチ……
 全身を激痛が襲う。樹は息を飲んで胸を押さえた。滅茶苦茶な色彩が脳裏を埋める。青、白、黄、緑。黒。タイヤに踏みつけられ、チューブからはみ出す色とりどりの絵の具。割れた車のヘッドライト。壊れたバンパー。そして路上一面に広がっていく、生々しい赤。
 真っ赤に濡れたスケッチブック。赤に塗りつぶされた、桜のスケッチ。
 身体ががたがたと震え出した。
 楽しげにキャンパスに向かう涼の横顔に、血まみれの姿が重なる。
「……どうしたの、樹君?」
 涼が振り返る。頭から血を流し、顔半分を真っ赤に濡らして、彼は微笑む。
「君はなにも悪くないよ」
 口を開く。だが声が出ない。苦しい。息が出来ない。
 床にくずおれながら喘ぐ樹を見下ろして、涼は笑みを浮かべ続ける。
「だけど、ごめん。今はこの絵を描きたいんだ。僕にはもう、時間がないから」
 真っ赤な血は彼の手足を伝い床に広がり、うずくまる樹の身体をぬらぬらと飲み込んでいく。
 生々しい臭い。錆びた鉄のような味。ぬらぬらとした生温かな感触。涼の、涼の血。流させたのは   俺だ    .
 酸欠で視界が暗くなる。かすむ視界に映る彼に、樹は血まみれの手を伸ばそうとし、力尽きた。






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