5.暗転 病院に帰るという彼を生徒玄関まで送って、戻る途中で終業のチャイムが鳴り始めた。 待ちかねていたように、それぞれの教室から生徒達が一斉にドアを開けて溢れ出す。 急に騒々しくなった廊下を、人混みを避けながら自分の教室の前まで来ると、勢いよく飛び出してきた学生服に肩をぶつけられた。 「お、悪ぃっ……って、本多!?」 同じサッカー部の松岡だ。樹と目が合うなり、彼はぎょっとした顔で数歩分飛び退いた。 「わ、悪ぃっ、本多、わざとじゃねぇ。わざとじゃねぇからっ!」 何も拝むことはないだろう、と思いながら、樹は淡泊に言った。 「別に気にしてねーよ」 「へ?」 松岡の眼が点になる。それに構わず教室に入ると、松岡はこそこそと樹の後について教室に入り直し、近くにいた相原を呼び止めた。 「なあ、おい、相原。本多のヤツ、なんか悪いもん食ったのか?」 「昼メシは学食の牛丼だったぜ」 「え? 俺と同じじゃん。俺もヤベぇかな」 「ていうか、別に食中毒とかじゃねーと思うけど」 「けどさ、本多の背中から、あの凶悪なオーラが消えてる気がするんですけど」 「さあ。なんかいいことでもあったんじゃねぇ?」 「え? あいつさっき保健室行ってたんだろ? 保健室で何……まさか……」 「たぶん屋上でも行ってたんじゃねぇ? 独りで」 「そ、そうか? うん、ああ見えて、あいつ結構奥手だしな」 「おい、お前ら」 自分の机で帰り支度を終えた樹は、カバンをつかんで振り返った。 「本人に聞こえるように、何の話をしてんだよ」 相原が樹の顔を見て、内面の変化に気づいたのか笑みを浮かべる。その隣で松岡が慌てて言った。 「まあまあ。校内暴力撲滅で、めでたしめでたしってことで」 「何言ってんだ、お前」 しらけた視線をかわして、松岡は教室の時計に眼を遣った。 「おっと。2−Bの奴らが帰らねぇうちに、目撃情報確かめてこねぇと」 相原が口を挟む。 「目撃情報?」 「2−Bの女子が昨日、美術室の前で幽霊見たんだってさ。黒っぽい人影がこう、すぅっと美術室に吸い込まれて消えたって」 『すぅっと』のところを強調して、松岡は嬉しげに言った。 「単に戸が開いてただけじゃねーの?」 「つーか、ねーよ。幽霊自体」 「んなロマンのないこと言うなって。とにかく、見た本人に直接聞いてくるわ」 言い置いて、松岡は勢いよく走り出ていった。2人は顔を見合わせる。 「松岡の奴、オカルト趣味なのか?」 「そういや去年の夏合宿の時も、嬉しそうに怪談話してたな。今年の合宿のネタにするのかもよ」 「けど、普通幽霊っつたら、音楽室とか便所とかじゃねぇ? なんで美術室なんか………あ」 「なに」 相原が怪訝な顔を向ける。 「俺、ちょっと美術室行ってくるわ」 「は? なに、お前も幽霊見物か?」 「そうじゃねーって。辻谷に用事。部活、先行っといてくれ」 訝しげな相原を残して、樹は美術室へ向かった。 涼は入院する前、美術部に入っていたと言っていた。顧問の辻谷なら、涼を知っているはずだ。 彼をもっと知りたかった。 指先に触れ、その頬に触れ、その唇に唇を重ねても、もっと知りたいと思う。あの笑顔や仕草や、柔らかな声音や何かを見つめる放心したようなまなざしの、その奥を。 樹は涼のことを何も知らない。知らないから、些細なことで不安になり、苛立つのだろう。 彼が樹を受け入れてくれた今でも、まだ彼がこの手をすり抜けていく、そんな危うい幻影を完全に拭い切ることができない。 このままではまた不安に駆られて、強引な言動で彼を傷つけてしまうかもしれない。そんなことはもうごめんだった。 どうしてこんなに弱いのだろう。どうして自分をコントロール出来ないのだろう。もう少しくらい、マシな奴だと思っていたのに。 溜息をつく。ふと、ありがちな結論にたどり着いた。 思わず笑った。 初めは相原に指摘されても、そんなことなど考えつきもしなかった。彼は同性で、恋愛感情を向けるはずもない、たった一度道をすれ違っただけの相手だった。今だって、たった数度、まだ数時間ほどしか会ったことのない人だというのに。 「……まさか、自分がホモなんてなー」 好きになった相手がたまたま同性だっただけだ。認めてしまえば、それさえくすぐったい。 樹は苦笑して溜息をついた。 教員室かとも思ったのだが、辻谷はやはり美術室にいた。前の時間が美術だったらしく、生徒のスケッチブックを熱心に批評している。数人の生徒がまだ残っていて、樹を見ると一斉に驚きと脅えの入り混じった視線を向けてきた。 「お、本多」 唯一のほほんとした辻谷がスケッチブックから顔を上げ、嬉しそうに眼を輝かせた。 「お前、やっと美術部に入る気になったか?」 「違うって。そんな気はないって、この前も言ったっしょ」 慌てて手を振って否定する。この手の人間は何度でもちゃんと言っておかないと、どんどん勝手に誤解して話を進めていくから、気をつけなければいけない。 樹に言いがかりをつけられないうちにと、残っていた生徒達がそそくさと出て行く。 「そんなこと言わないで、せっかく来たんだからこれから部の様子でも見ていけよ」 「いや、俺もこれから部活あるんで」 「つれないなぁ」 「それより先生、久住涼って知ってんだろ? ちょっとその人のこと、教えてほしいんだけど」 本題にはいると、辻谷はきょとんとした。 「久住? ここの生徒か?」 「なにボケたこと言ってんだよ。2、3年前に美術部にいた奴で、今、病気で休学してる奴。先生まさか忘れてんの?」 「休学している奴なんて、いないぞ? お前、誰か他の生徒と勘違いしてないか?」 「はぁ? 何言ってんだよ。しっかりしてくれよ。自分の部の部員のことだろ」 苛つき始める樹を、辻谷は訝しげに見返した。 「いや。本当だって。俺はここに赴任して今年で5年になるけど、その間に休学した生徒は美術部だけじゃなくて、この学校自体にいなかったと思うぞ」 今度は樹がぽかんとした。 「……先生、本気でボケた? 病院行った方がいいんじゃねぇ?」 「俺には4歳の息子と、あと家のローンが31年残っているんだ。まだのんびりボケられる歳じゃないよ。……いや、でも、ちょっと待てよ……久住……うーん……」 顎に手を遣って首をひねった辻谷は、ぶつぶつ言いながら奥の美術準備室に入っていった。樹が覗くと、しばらく棚の中身を引っ張り出したり引っ込めたりした後、茶色い表紙の何かを見つけてほこりを払い、メガネをかけ直して覗き込んで、「これだ」と樹を振り返った。 大判のスケッチブックだった。 「なんか聞き覚えのある名前だと思ったら、これだよ。ほら、書いてあるだろ」 差し出された埃っぽいスケッチブックを受け取ると、確かに「2−D 久住涼」と書かれてあった。綺麗な柔らかな字だ。 「それな、前に準備室を整理していた時に見つけたんだけど、すごくうまいんだよな、その子のデッサン」 促されて開いてみる。花。石膏。動物。風景。鉛筆の線だけのものや、水彩で色のつけられたものもある。どれも狂いのない、正確で綺麗なデッサンだった。美術の知識のない樹にも、凡庸な絵でないことは一目で分かる。 「この犬なんか、いい表情捕らえてるだろ。動物なんかは動き回るから、なかなか描くのは難しいんだけどな。この子、才能あるよ、うん」 描くことが好きでたまらない、そんな想いが伝わってくるような、涼の絵。1枚ずつめくっていく。数枚、子供のデッサンが続いていた。野球帽をかぶった半ズボンの子供が、少し黄ばんだ紙の中ではしゃいで走り回っている。 「でもなぁ、この子が在籍していたのは俺がこの学校に来る前だと思うよ。この子を受け持った記憶はないし。こんないい絵を描く子のことを、忘れるはずがない」 満面に笑う子供を見ているうちに、頭がふらふらしてきた。辻谷の声が聞こえているのに、うまく読み取れないでいる。船酔いでもしたみたいだ。 「……判りました。じゃあ、もう俺行きます」 スケッチブックを抱えたまま、「大丈夫か?」という辻谷の声を聞いて樹は美術室を後にした。 頭がふらふらする。鼓動がどくどく言っている。どうしてなのか、よく判らない。 「おい」 肩を掴まれて我に返る。その瞬間、バチバチッと身体の中を火花が走って、視界が飛んだ。息が止まった。 「ちょーっとつきあってもらおうか」 最近聞いたことのある声。身体に力が入らない。前屈みになったところを両脇からぐいっと掴み上げられ、無理矢理歩かされた。両脇とも樹より体格も背丈もある。恨みを買う相手は掃いて捨てるほどいるが、上級生らしいからこの間斉木のことで絡んできた3年かもしれない。 たぶんスタンガンを食らったのだろう。ヤバイ状況かもしれない。言うことを聞かない身体を引きずられながら、散漫な思考で他人事のように考えていると、いきなりどさりと放り出された。俯せた頬に草と土の感触がする。体育館の裏辺りにでもつれてこられたのか。 「この間は随分やってくれたよな」 頭の上から嫌な声がする。 「そのお礼を今日はたっぷりしてやるよ!」 ドカッと脇腹に衝撃がきた。後は数人かがりの連打だった。腹部を蹴られるたびに身体が別物のように跳ね、声が漏れる。だが身体が痺れているせいか、あまり痛みを感じない。 このままじゃ死ぬかもしれないな。蹴られ続けながら樹はぼんやり思った。痛みが少ないから実感はあまりないが、身体中の骨が軋む嫌な音が聞こえる。 人を傷つけたら、その痛みは自分に返ってくる せっかく、もうケンカはしないと誓ったのに。あれじゃ遅すぎたんだな。 涼の顔が浮かぶ。情けない。こんな惨めな格好で死ぬのか、俺は。 樹は精一杯手足を縮めてうずくまった。 今まで怖いものなどなかった。どんなに体格差のある相手と向き合った時でも、たとえ相手が刃物をちらつかせても、死への恐怖はなかった。別に自分の命など大したものだと思わなかった。逆に、屈して許しを請う奴らが滑稽だった。ご立派な人生でもないくせに、何をそんなに惜しもうとするのか、分からなかった。 それなのに今、樹は死にたくないと思っている。みっともなく、生にしがみつこうとしている。 執拗に蹴り上げ、踏みつけながら、奴らが狂犬のように叫んでいる。 死にたくない。 離れたくない。 もう、失いたくない。 「涼………」 振り下ろされた靴先が後頭部にめり込んで、衝撃と共に意識ががくんと落ちていく。 すべてが途切れる寸前に、かすかに聞き慣れた声を聞いた気がした。 |