4.迷路




 台所で洗い物をしていた母親は、帰ってきた樹を見るなり、甲高い声を上げた。
「あんた、なにその顔!?」
 母親のこの声は嫌いだ。耳の奥でキンキン鳴り響いて正気が吹っ飛びそうになる。
「るせーな、何でもねぇよ」
 母親の顔を見ずに、テーブルに残った自分の分の食事に箸をつける。樹の家の夕飯は早い時間だから、いつも部活で遅い樹が帰るころには終わっている。
 母親は洗い物の手を止めて、腰に手を当て、まくし立てた。
「今度は誰とケンカしたの。同じ高校の子? 同級生? 相手の子はどうしたの。また怪我させたんじゃないでしょうね。まったく、高校生にもなってあんたは自制ってものがないの?なんだってですぐ暴力を振るうの。頭を下げて回る方の身にもなってよ。怪我させたら、お見舞いのお金だって馬鹿にならないのよ」
 機関銃のように浴びせられる言葉に、口に入れたご飯の味が分からなくなる。樹は箸を放り出して椅子を立った。
「うるせぇって言ってんだろ!!」
 言い捨てて、ダイニングを出、階段を上がる。
「樹! ご飯の途中でどこ行くの!」
 母親の高い声が追いかけてくる。樹は自室のドアを力任せに閉めると、ベッドに倒れ込んだ。
 母親はケチだ。何かと言えば金の心配ばかりを口にする。ロクに化粧もしないで、ケチって地味で安い服ばっかり着て、すぐに眼を吊り上げて甲高い声で喚き散らして。身内じゃなければあんな女、とっくにぶん殴っている。
 大体、殴られて帰ってきた息子の顔を見たら、息子の怪我を心配するもんじゃないか、普通。
 部活の疲れや殴られた頬の痛みや頭の中の疲労が一気に押し寄せてきて、樹はきつく眼を閉じた。



 結局あの後、自分のした行為をどう取り繕おうかと焦る樹に、彼は「もう帰ろうか」と曖昧に笑っただけだった。
 いつもとそう変わらないふわふわした顔をしていたが、実は驚いてとっさにそんな言葉しか出てこなかったのかもしれない。
 普通そうだろう。2回ちらっと会っただけの奴にいきなりキスされたら、誰だって驚いて退くに違いない。
 本当に何を考えていたんだろう。あまりの迂闊さと馬鹿さ加減に、自分の頭をボコボコにしたくなる。いくらなんでも流され過ぎだ。もっと何度も会って時間をかけて、親密度を深めていってから、相手の反応を見てするべきもののはずなのに、一体何を焦っていたんだろう。
 これで終わってしまったら……。もう彼は学校に来てくれないかもしれない。もう会ってくれないかもしれない。どうしたらいいのだろう。このままでは嫌われてしまう……このままではフラれてしまう………
「……ってマジかよ、オイ!!」
 思わず自分に突っ込んだ途端、しん、と辺りが静まり返った。
 はっと我に返ると、教室中の視線が樹に向けられていた。そういえばさっき予鈴が遠くで鳴っていたような気がする。
 さすがに頬が引きつって固まってしまったところを、ぽんと背を叩かれた。振り返ると、絶妙なタイミングで相原が立っていた。
「朝練来ないと思ったら、なに一人で叫んでるんだ、お前は」
「あ、相原ナイスツッコミ」
 樹は引きつった顔で笑った。



  本鈴のチャイムが鳴るのを頭の上の方で聞き流しながら、樹と相原は学食前の自販機でジュースを買い、体育館の裏手へ回った。
 ここなら、授業中は生徒も来ないし、教師に見つかることもない。
 体育館から外へ降りる階段にどっかりと腰かけて、樹はジュースを一気に煽った。
「何、お前もしかして朝メシ食ってねーの?」
「つーかさ、昨日の晩から食ってねーんだよな。昨日帰ったらババァにぎゃーぎゃー言われて、ムカついてそのまま寝たら朝まで爆睡しちまってて」
「ま、その顔見て、何も言わない親はいないだろ」
 樹はまだ違和感のある右頬に手を遣る。
「ったく、まだ腫れてんのかよ」
「珍しいな、お前がまともに喰らうってのは」
  「……ちょっと、ドジってなー」
 1講時目から体育というかったるい時間割のクラスが、体育館でボールをついたりランニングしている音を聞きながら、樹は大あくびした。
「まだ起きて15分経ってねーしよ。かったるいわ」
「で、朝練忘れるほど、何をそんなに悩んでるんだ?」
「……は?」
 あくびが途中で止まって、口を開けたまま振り返る。相原は見透かした笑みで樹を見ていた。
「何かあったんだろ、その殴られた時」
「……お前のその顔って、かなりムカツクー」
 一応虚勢を張ってみるのだが、何かあると相原には必ず見透かされてしまう。付き合いが長いとそうなるものなのだろうか。樹が敵わないと思うところだ。
 俯いて、ひとつ、溜息をついた。
「……あいつ、さ。もう来ないかもしれない」
「お前が捜し回ってた、あいつか?」
「俺さー、あいつ傷つけることして、嫌われたかもしれねー」
 いきなり裏返りそうになった自分の声が情けなくなって、膝に突っ伏した。「おいおい」と言う相原の声も呆れている。
「一人で想像して落ち込むなよ。何があったんだ」
「……言いたくねー」
「傷つけることって、手ェ上げたりケンカ吹っかけたりじゃないんだろ?」
「じゃねぇけど、たぶん傷つけたっていうか、退かれたと思うし……」
「じゃあ、まだ何も分かんねーんじゃねぇか」
「けどよー……」
「ったく、なに少女マンガみてーなこと言ってごねてんだよ」
 相原が溜息をつく。
「そんなに気になるなら、自分から行って訊いてみろよ。下の病院に入院してんだろ? ここから5分で行けるじゃねーか」
 樹はがばっと顔を上げた。
「なに言ってんだよっ。どんなツラして会いに行けっつーんだよ。だいたい、そんなことして嫌いとか言われたら終わりじゃねーか」
「……お前、本当に本多樹か?」
「何だよ」
「顔真っ赤だぞ」
「放っとけよ」
 顔を背ける。「重症だな」と相原が笑みを含んだ声で言った。
「何やらかしたんだか知らねぇけど、会うなら早い内がいいんじゃないのか? このまま終わらせたくないんだろ?」
「……んな簡単に出来れば、こんなにうじうじ悩んでねーよ」
「自覚はあるのか」
「るせーよ」
 相原がくすりと笑った。
「初めてだな」
「何が」
「お前が他人にそんなに興味示すの」
 そうだったろうか?
「悪いかよ」
「いや、いいんじゃねーの? 健全な高校生してて」
「なんだよ、それ」
 思わず笑ってしまった。
 ずんとのしかかっていた重いものが、それで少しだけ軽くなった気がした。



 教師が黒板に英語の構文を書き込むチョークの音と、それをノートに写す勤勉な物音の群れ。
 静かな授業光景に一人だけ参加せず、樹は窓を眺めていた。
 窓の外は相変わらず平べったい水色だ。雲も見えない。
 毎朝坂の途中にある家を出て、学校とは反対の坂の下り側に足を向けかけながら、数歩で躊躇して止まってしまう。そんなどうしようもないことを繰り返して数日が過ぎた。
 このまま終わらせてしまうつもりなどないのに、足が勝手に竦んでしまう。
 全くらしくなかった。考えまいとするのだが、 あのふわふわした笑顔が凍りつく光景を想像しては身震いしてしまう。マゾじゃあるまいし。自分自身に腹を立てても、否定すればするほど、悪い想像はまるで悪意でもあるように広がっていく。
 こうなると家でも学校でも部活でも些細なことが我慢出来なくなる。辺り構わず殺気をまき散らし荒れる樹は、今や教師達でさえ腫れ物扱いだった。
 黒板への書き込みが終わって、教師は参考書の問題を端の列から順番に当て始めた。指された生徒が立ち上がって回答する。
「じゃあ、次……」
 教師の声が樹の前で止まった。視線に気づいて振り返る。30過ぎの気弱そうな英語教師は、目を合わせたら襲われるとでもいわんばかりに、慌てて後ろの生徒へ視線を向けた。
「松岡、次の問題」
 俺は猿山のボス猿扱いかよ。
 樹は席を立った。静まった教室にがたんと大きく椅子が鳴って、一斉に視線が集まる。英語教師はびくっとして後退った。
「な、なんだ、本多」
「気分悪いんで、保健室行ってきます」
 離れた席の相原がちらっと視線を送ってきたが、樹はそのまま教室を出た。
  成績がそれほど芳しくない上に授業を抜けるのは本来なら避けたいところだが、教師の方も樹がいない方が授業もしやすいだろうから、文句は言わないだろう。
 ポケットに手を突っ込んで、樹は屋上に向かった。
 樹に向けられる遠巻きの脅えた視線の束は、針のように皮膚をつつく。これまではそれが不快なだけだったが、今はなかなか耐えられない。
 このままじゃ、潰れるな。
 そう思いながら、階段を上がり屋上の扉を開いた。
 差し込む眩しい陽の光に腕をかざす。一瞬白く飛んだ景色に馴れ、すがめていた眼を開けて……息を飲んだ。
 屋上の手すりに両手を乗せて、気持ちよさそうに眼を細めた学生服姿の少年が、緩い風に髪を揺らして海を眺めていた。
「涼……」
 半ば茫然と呼んだ声に彼は振り向き、そしてふわりと微笑った。
「勝手に入り込んで怒られるかな?」
「……んなこと……ねーよ」
 ゆっくりと歩み寄る。駆け寄ったら、驚いた鳥のように飛び立って消えてしまいそうで、伸ばす手が小さく震えた。
「樹君?」
 花束を抱くように、そっと涼の背に腕を回し、肩に顔を埋める。
 伝わる温もり。細い身体。消毒薬の匂い。微かに混じる、これは桜の香りだろうか。
 頬に触れる柔らかな髪を感じながら、樹は震えそうな唇を開いた。
「あんたが気持ち悪いって思うんなら、こっから飛び降りて詫びるから……だから頼むよ、もう勝手言うのはこれっきりにするから、本当に最後にするから、どこにも行くなよ……行かないでくれよ……」
 みっともなく声がかすれる。鳴り叫ぶ鼓動をこらえる為にきつく眼を瞑った。
「樹君……」
 涼が首を傾け、髪の中に吐息が触れた。
「そんなこと、言っちゃいけない。そんな簡単に命を捨てるようなこと……」
「簡単じゃねーよ。マジなんだ。信じてもらえないかもしれないけど、マジで俺……」
「分かってる」
 樹は顔を上げた。彼は樹の右頬に手を伸ばし、そっと触れた。
「君を追いつめたのは僕だね。……ごめん」
「謝んなよ!」
 黒目がちな眸が真摯に見つめてくる。たまらなくなって樹は乱暴に顔を寄せた。
「樹く……」
 言いかけた唇に口吻ける。
 息を継ぎ、角度を変えて、何度も、何度も。
 涼は抗わなかった。そっと樹に身を委ね、背中に手を回した。
 身体中が痺れて目眩がしそうだった。ささくれだった胸の乾きが満たされていくのが分かる。頭を押さえつけていた重いものが、どこかへ溶けて消えていく。
 涼が樹を拒まなかった。そのことが、狂おしいほど甘い陶酔と痛みで樹をいっぱいにする。
 このまま溢れて張り裂けてもいいと思った。今この刹那に彼以外の何もかもをなくして、何もかもが終わっても構わない。そう思った。
 長い口吻けの後、ようやく樹が顔を上げると、うっすらと眼を開けた涼が呟いた。
「君は何も悪くないよ」
「涼……」
 急にきりきりと胸が痛んで眉を寄せる。何故だろう、違う違うと誰かが樹の中で首を振っている。
「俺は……」
「桜……」
 唐突に涼が口を開いた。視線を追って振り仰ぐと、海からの冷たい風にさらわれて、薄紅の花びらが1枚、ひらひらと青空を横切っていくのが見えた。
「桜が咲いて……散っていくね……」
 夢見るように、涼が呟いた。






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