3.衝動




 竦むほどの冷気に、甘い匂いが沈んでいる。明けたばかりの朝は、時が止まったかのようにひっそりと静かだ。
 坂道には、まだ人の姿はない。
 もやがかかったような明け初めの空の下で、薄紅の花びらは濡れたように、ひっそりと咲き群れている。
 朝練の為に坂道を上っていた樹は足を止め、4分咲きほどになった桜を見上げた。
 胸の底からむかむかと湧き上がる嫌悪感を邪険にしながら、初めて会った日のことを思い出す。
 彼はこの同じ桜をどんな思いで見上げていたのだろう。
 あんな楽しそうな、嬉しそうな顔をして、彼は何を思っていたのだろう。
 今頃、何をしているのだろう。まだ眠っているのだろうか、病院のベッドで。
 身体は、大丈夫なのだろうか。
 樹は小さく頭を振って膨らんでいく思いを振り払い、歩き出した。
 彼はまた、会いにきてくれるだろうか。



 ここが色気のかけらもない教員室ではなく、吸い込む空気が咳き込みたくなるほど汚れていなければ、いっそ幻想的な光景なのだろう。
 春の陽差しにタバコの煙がたなびいて一層霧がかったように霞む窓際で、樹はあくびをかみ殺しながら辻谷の話を聞いていた。
 休み時間の教員室は、ニコチン中毒者のたまり場だ。こんなヘビースモーカーばかりが集まって、よくも偉そうに生徒の喫煙なんかを取り締まれるものだ、と思う。
「……だからなぁ、お前も一度本気で考えて……おい本多、そんな眠そうな眼してないでちゃんと聞けよ」
 辻谷の眼鏡の片方のレンズがきらりと光る。樹はげんなりと溜息をついた。
「……聞いてますって。もういい加減勘弁してくださいよ。こっちは寝不足で眠いんっすから」
 辻谷は生真面目を絵に描いたよな顔で、ずいっと身を乗り出した。
「本多。俺はなぁ、本っ気でお前に絵の才能があるって思ってるんだ。何度も言ってるだろう。このままお前の才能を埋もれさせるのはもったいないよ。俺がちゃんと教えてやるから、騙されたと思って一度美術部に顔出してみろ」
「とか言って、部員増やしたいだけなんでしょーが。美術部って確か人数足りなくて、廃部寸前なんすよね」
 辻谷は慌てて手を振った。
「それとこれとは話が別だ」
「どうだか」
「大体な、絵を描くのが嫌いだって言うんならなんでお前、美術の授業今年も選択したんだよ。ちょっとはその気があるからじゃないのか?」
「んなの、楽だからに決まってんじゃないっすか。適当にさっさとデッサン描いたら、あと寝れるし」
「……お前なぁ。絵はそんな薄っぺらいもんじゃないんだぞ。絵っていうのはな、描いた人の心が映し出されるものなんだ。ただ描けばいいってもんじゃない」
 樹は2度目の溜息をついて寄りかかっていた窓枠から身を起こし、スラックスのポケットに手を突っ込んだ。
「俺はそんな高尚なもんになんか興味ないっすから。いっくらねばったって可能性ゼロっすからね」
「あ、こら、本多」
「いい加減メシ食わせてくださいよ。これ以上腹減ったら暴れますよ、俺」
 樹に暴れると言われてまで、引き留められる教師もいないだろう。樹は勝手に話を打ち切って、扉へ向かった。
 辻谷は去年から2年連続で樹の担任になった   押しつけられた、という話もあるが  ,
 
今時珍しい教師根性を持つ教師だった。
 のほほんとした憎めない容貌と肩肘の張らない物腰で生徒の間でも人気が高く、樹も例の去年の入学早々の上級生との喧嘩の時、ほとんど初対面だった樹を親身になって面倒をみてくれたお陰で、大した処分も受けずに済んだといういきさつがある。
 だからどんなに機嫌が悪い時でも、辻谷の話にはとりあえず付き合うのだが、相手はよりによって美術の担当で美術部の顧問だから、絵の話題になると最後まで聞いていられなくなってしまう。
 悪い教師ではないのは、判っているのだが。
 何となく申し訳ないようなうんざりしたような気分を引きずって階段を上がり屋上のドアを開けると、相原は柵にもたれて先に焼きそばを食べていた。
 隣に座って買っておいてもらったカレーを受け取ると、相原は少し顔をしかめた。
「教員室の臭いがする」
「げ、マジで?」
 樹は慌てて袖の臭いをかいで、同じように顔をしかめた。
 樹も相原もタバコはやらない。樹は中学の頃吸っていた時期があったのだが、当時付き合っていた女に、染みついた臭いで歩いてくるのが判ると言われて辞めた。
「もう、勘弁してくれよなー」
「辻谷、何だって?」
 焼きそばをむしゃむしゃしながら横目で相原が口を挟む。樹は諦めてスプーンを手に取った。
「いつも通り。美術部に入れってヤツ」
 相原は淡泊にふーんと唸った。
「あいつがそんなに熱心に誘うってことは、お前本当に才能あるんだな」
「やめろって。俺はそんなもん興味ねーよ」
「けどお前、デッサンでも水彩画でも、適当に描いてるわりには上手く仕上げてるじゃねぇか」
「んなもん、誰だって出来るだろ」
「出来ねーよ。お前、誰かに教えてもらったりしてたことがあるんじゃないのか?」
「んな訳ねーだろ。俺は絵が嫌いだって、何回言ったら判るんだよ」
 樹の片眉が上がるのを見て、相原は肩を竦め会話を打ち切った。
 しばらく2人は無言で皿の中身を空にすることに専念していたが、先に沈黙を破ったのは樹の方だった。
「なあ、相原」
「ん?」
 相原は焼きそばを食べ終わって、補助食のパンの包みを破っていた。
「俺、焦ってるか?」
「そう、見えたけどな」
 樹は顔を上げて、屋上の鉄柵越しに平たく広がる、翡翠色がかった青い帯を見遣った。丘の上に建つこの学校の屋上からは、桜の並木道と、その下の海が一望出来る。まるでポストカードにでもなりそうな風景だ。
 カレー皿を脇に置いて、樹は頭を掻き、思い切り伸びをした。
「……なんで、そうなっちまうのかなー」
 あの時、彼を見送った時の身を焦がすような焦燥感。そして、彼に興味を示す斉木に感じた、頭が沸騰するような怒り。今も、彼がもう一度会いにきてくれるだろうかと考え出すと、とめどない不安が突き上げてくる。
 樹は掌を見つめた。あの時握り締めたフェンスの、皮膚が白くなるほど食い込んだ痛みを思い起こす。
「普通じゃねーよな」
 相原がパンをかじりながら、ちらりと樹を見る。
「お前が普通じゃないのは、いつものことだろ」
「あのなー……」
 いつものように、しらっとして相原は言った。
「そういうのは普通、恋愛感情って言うんじゃないのか?」
 げんなりして見返す。
「だーかーら、俺はホモじゃねーって」
 薄青い空の高いところを、とんびが円を描いて回っている。のんびりとしたその鳴き声を聞きながら樹は「なあ」と再び口を開いた。
「お前は今まで誰かにマジになったこと、あるか?」
「ないな」
「即答かよ」
 相原は涼しげな横顔で答える。
「告ってくるのは大抵女からだし、自分から付き合いたいと思うほどのヤツもいなかったし」
「……訊いた俺がバカだった」
「お前はないのか?」
「ねぇから訊いてんじゃねーか」
 相原は樹を振り返り、眼鏡の奥で薄く笑って空になったパンの包みをくしゃっと丸めた。
「ま、そう悩むなよ。そのうち判るだろ」
 こういう仕草やまなざしに、女はいちいちくらくらするんだろう。樹はじろりと相原を見遣った。
「なんかお前、ムカツク」
「なにが」
「大体、焼きそば食っといて、焼きそばパンなんか食うなよ」
「いいだろ、別に」
「普通いねーぞ、そんなヤツ」
「いたら悪いか」
「悪ィーんだよっ」
 足の下の方から、のんびりと予鈴が鳴り始める。
 不毛な八つ当たりを中断して、樹は慌ててカレーの残りを食べ始めた。



 その日も、いつものように散々しごかれた部活がようやく終わり、陽が暮れかけた頃にやっと帰れるという時になって、樹は教室に課題に出されていた問題集を忘れたことに気がついた。
 それなりに進学校であるこの高校では、あまりに素行や成績が悪いと部活の練習試合や大会に参加出来なくさせられてしまう。素行はいうまでもなく、成績も下から数えた方が早い樹には、全くガラではないのだが家で真面目に課題をこなしてくるしかないのだ。
 そんな高校になぜわざわざ進学したかといえば、単に家から徒歩8分の距離にあったという、それだけの理由だったりするのだが。
 誰もいない校舎は、普段にぎやかなだけに薄気味悪い。グラウンドで相原らと別れ、課題を出した数学教師にぶちぶち文句を言いながら一人教室に取りに戻った樹は、生徒玄関まで戻ったところで、下駄箱の陰に煙が上がっているのに出くわした。
 煙といっても何かが燃えているのではない。煙に混じるヤニの臭いと、だれた感じの話し声に、樹はしらけた視線を投げた。
 こんなところでこんな時間にタバコを吸って何が楽しいのだろう。関わり合いにならないうちに、さっさと靴を履き替えて外に出る。そこに声がかかった。
「おい、お前2−Dの本多だろう」
 下駄箱にもたれて吸っていたいた一人が立ち上がり、残りの2人も腰を上げる。振り向いた樹は舌打ちした。相手は体格のいい上級生3人で、その目つきはどれも全く友好的なものではない。
「なんか用かよ」
 こっちは部活で疲れてんだ、勘弁してくれよと思いながら言葉を返すと、一番背の高い男がくわえたタバコを吐き捨てて、1歩前に出た。
「お前、この間斉木美加にインネンつけて泣かせたんだってな」
「は?」
 あの女、あの後泣いたのか? いやそんな細い神経の持ち主のはずがない。また大袈裟な噂が広がっているのだ。
「あの女に手ェ出すとどうなるか知らねぇのか、ああ?」
 ムカツキを顔中で表現している彼らを前にして、理性は関わるなと訴えているのに、つい鬱陶しくなって樹は言ってしまった。
「……なに。オタクら、斉木の親衛隊かなんか? ダッセぇー、バカじゃねーの?」
 彼らの顔が一斉に、一層凶暴に歪んだ。
「んだと、コラ」
「ふざけんな」
「殺されたいのか、てめェ」
 ケンカ決定だ。理性が頭の隅で溜息をつく。仕方がない、今は苛つく時期なのだ。樹は身構えた。
「女のケツこそこそ追い回すようなブタ共と関わりたくねぇんだから、やるならさっさとしてもらおうか」
 男達が拳を振り上げる。
「調子こいてんじゃねぇ!」
 突進してくる最初の男をかわそうと足を引きかけた時、その肩越しに、道端に立つ人の姿が目に入った。
 樹は思わず動きを止めた。
 ガンっと衝撃が右頬にきた。一瞬真っ暗になった目の前に火花が飛んだ。吹っ飛ばされそうになるのを、反射的に踏みとどまり体勢を立て直す。
 頬に痛みを感じるより先に、頭が火の点いたように沸騰した。
 渾身の力で殴り返す。一発で倒れた男を飛び越えて、2人目の男を殴り飛ばし、後ろから羽交い締めにしようとしていた3人目を回し蹴りにする。
 野太い悲鳴を上げて倒れた3人目の腹になおも蹴りを食らわそうとした時、澄んだ声が飛んだ。
「駄目だよ、樹君!」
 視界が歪むような怒りの熱が、すぅっと掻き消える。樹は慌てて振り返った。そこに彼がいた。
「涼……」
 我ながら情けないと思いながらも、口許に笑みが広がっていくのを止められない。まるで子供みたいだ。樹は駆け寄った。涼はだが厳しい表情で樹を見つめていた。
「涼、来てくれたんだな」
「人を傷つけては駄目だよ」
 樹の言葉を遮って彼は言った。
「その痛みは必ず君自身に返ってくるんだよ」
  彼が手を上げる。樹は息を飲んだ。指がゆっくりと伸ばされて、樹の殴られた右頬に触れた。
 初めて触れたその指先は、ひんやりと滑らかだった。
 触れられる距離に彼がいる。じんじんと疼いていた頬の熱が、一気に倍増した気がした。多分顔が赤くなっているんだろう。慌ててごまかし笑いをする。
「これはちょっと油断したからからで……」
「樹君」
「……んな睨むなよ。判りました。もうケンカはしません」
「約束だよ」
 黒目がちの眸が、心配そうにじっと見上げてくる。
 なんて顔をするんだろう。
 俺、なに素直になってんだ。頭の隅でそう呆れながら、樹は自分の中で一番真面目な顔をしてみせた。
「本多樹は、もう二度とケンカをしないことをここに誓います。……これでいいか?」
 彼はようやくふわりと笑った。
「うん、よろしい」
 胸の底からなにか熱いものが後から後から湧き上がって胸をいっぱいにしている。小さな子供ならこういう時、歓声を上げながら駆け回って表現するんだろう。さすがに子供の真似は出来ない樹は、その代わりに彼の手を捕まえた。細くてしなやかでひんやりした手が、樹の掌に収まる。
「ほら、だいぶ暗くなってるけど、校内案内してやるよ。行こうぜ」
 路上に伸びていた上級生達は、涼に気を取られている間に逃げ出したらしい。樹は涼の手を引いて、生徒玄関のガラスの扉をくぐった。



 教室に問題集を取りに戻らなかったら、こんなシチュエーションはなかったかもしれない。
 課題を出した数学教師に心の底から感謝しながら、樹は誰もいない薄暗い校内を涼に見せて回った。
 整然と机が並ぶ教室や、廊下から見える日暮の景色を、涼は眼を細めて物珍しいというよりは懐かしそうに見回していた。その隣で、樹は改めて彼の端正な顔立ちに見惚れていた。
 繊細な作りなのは勿論だが、それ以上に、その表情が樹を惹き付ける。少し力の抜けたような笑顔。眼を伏せた時のかげり。遠くを見つめる時の透き通った表情。ふいと眼を逸らす時の、一瞬の憂いのような表情。困った時のはにかむような顔。
 その表情の一つ一つ、仕草の一つ一つを、今は樹が独占している。
 くすぐったいような満ち足りた気分に浸りながら、これがまだ生徒が残っている時間だったらと考える。あの斉木が目をつけたほどなのだ。きっと大騒ぎになって後で女共に質問攻めにあっていたに違いない。
「どうしたの?」
 身震いした樹を怪訝そうに涼が見上げる。なんでもないと慌てて首を振って、樹は逆に彼の顔を覗き込んだ。
「あんたこそ大丈夫か? ちょっと休憩するか?」
 涼は小首を傾げながら曖昧に笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ」
 ちょうど通りかかった教室へ入って手近な机に座ると、涼はその隣の椅子を引いて座りながら、ぐるりと教室を見回した。
「そんなに教室が珍しいか?」
 尋ねると涼はふわりと笑った。
「そうじゃないけど、僕がいた頃と変わってないなと思って」
 ふと疑問に思ったことを口にしてみた。
「そういや、あんた歳幾つ?」
 涼は困ったように微笑んだ。
「樹君より少し上だよ」
「じゃあ、俺より2、3年上ってことか?」
「そんなところ、だね」
「ふーん、やっぱりな。相原は年下って言ってたけど、やっぱ年上だったな」
「そう、見える?」
「そうだろ? どう見たって俺より上じゃんか」
 涼は、ふっと眼を細めた。
「そっか。……樹君にはやっぱりそう見えるんだね」
「どういう意味だ?」
 涼は微笑んで首を振った。不意の大人びた表情が元のふわふわした顔に戻る。
「なんでもないよ。それより他にも行きたいところがあるんだけど、いいかな?」
「いいけど、教員室以外ならな」
「どうして?」
「オヤジ臭充満してるし、あそこに入ると髪の毛がタバコ臭くなる」
 涼はくすくす笑って、言った。
「美術室、行きたいんだ。入院する前、美術部入ってたから」
 心臓が、どくん、と鳴った。いきなり頭の中が真っ白になった。
「……樹君?」
 涼の声がする。樹は机を降りた。勢いで机がガタンと揺れた。
 目の前に驚いた顔の涼がいる。その腕を掴んだ。びくりと細い身体が震えた。
「……んで……なんでそんなこと言うんだよ……!」
「樹…君……?」
「絵のことなんか言うなよ! あんたがそんなこと言うんじゃねぇよ!」
 視界が歪んでいた。身体中が熱くて熱くて、震えがきそうだった。腕を掴み上げたまま、肩を掴む。涼はそれでもじっと樹の眼を見ていた。心の奥を見通すような、今はそのまなざしを塞ぎたかった。
 身を屈め、ぶつけるようにしてその唇に口吻ける。
 柔らかな唇はひんやりと冷たかった。その冷たさを奪いたくて、樹はさらに深く唇を重ね合わせた。
 涼の喉から小さな声が洩れる。
 触れ合う髪から消毒薬の匂いがした。






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