2. 春風




 翌日の始業式を兼ねた入学式と、その後の美術館見学の間中、樹は新入生達の顔を判別することに全勢力を傾けていた。
 お陰で樹にとっては何の意味もない行事をサボることもなく、絵画見学中にキレることもなく、担任も周りの生徒も平穏な時間を無事に過ごせたのではあったが   一部新入生は樹に睨まれたと誤解して脅えていたらしいが   当の樹本人は結局、何の成果も得られないまま、一日が終わってしまった。
 あの、桜の下に佇んでいた少年は、新入生の中にはいなかったのだ。
 もちろん人混みに紛れて見つけられなかった可能性もない訳ではないが、新入生を脅えさせるほど、あれだけ眼を皿のようにして捜し回ったのだから、それは考えにくい。
 相原はさも他人事のように(実際、他人事なのだが)、「今日たまたま休みだったかもしれないだろう」と素っ気なく言ってくれたが、その楽観的予測も新学期3日目ともなると、いい加減捜索を続ける根気も続かなくなって、樹はすっかり少年を目撃する前の不機嫌さに戻ってしまっていた。
「……お前なぁ」
 昼休みの喧噪のさなか、樹は廊下の窓枠に肘をついて、グラウンド向こうの道を挟んだ林の緑と、その上に広がる空を眺めていた。
 春の晴れた空というのは、いつもこんな薄っぺらい水色だ。
 相原は隣で壁にもたれ、呆れたように言った。
「背中で殺気をまき散らすのはやめろよ」
「俺は何にもしてねーよ」
 笑いながら後ろを通りかかった女子の二人組が、樹の存在に気づいて慌てて黙り込み、教室側の壁に張り付くようにして小走りに通り過ぎて行く。
「ほら見ろ。あんなに脅えてるぞ」
「勝手に噂広めてビビってるだけだろ。知るかよ」
 確かに、教室の中はにぎやかだが、廊下には樹と相原の周囲5メートルほどに人影はない。
「まあ、去年の喧嘩の話は事実だからな」
 樹はじろりと振り返った。
「お前が広めてんのかよ」
「本当かって訊かれたら、嘘をついてないだけだ」
 冷徹な相原の表情は変わらない。樹は睨むのを諦め、肘の上に顎を載せて大袈裟に溜息をついた。
「……友達甲斐のない奴」
 樹が春先になると凶暴化するというのは、もう有名な噂だった。去年の入学式当日に樹が上級生3人を殴り飛ばしたことがきっかけで、それに同じ中学だった連中があることないこと尾ひれをつけて、中学の時は5対1でボコボコにしたとか、女でも殴られて鼻の骨を折られた奴がいるとか、まったくはた迷惑な噂で狂犬的な樹のイメージが定着してしまったのだ。
 実際、桜の季節になるとちょっとしたことでも苛々して、毎年何かしらの問題を起こしているのは事実なのだが、なにもそこまで見境がなくなる訳ではない。
 それなのに、どこにいても遠巻きに眺められたり、姿を見ただけで逃げ出されてしまうと、ますます癇に障ってしまうのだ。誰彼構わず殴りかかっていく訳にもいかないから、睨み付けるだけで我慢するのだが、それがさらなるイメージの低下と不機嫌さの上昇という悪循環を招いてしまう。たまったものではない。
 そんな訳で、今は普段ふざけ合っている同じサッカー部の連中さえ、直接ではなく相原経由で話しかけてくるくらい、樹は相当危険なオーラを発していた。
「だいたい、お前が嘘つきなのが悪ィんだよ」
 ふてくされながら樹は言った。
「いなかったじゃねーか、あいつ」
 今1年生の間では、樹が喧嘩を売ってきた相手をシメる為に捜し回っているという噂が広まっているらしい。
「まだ言ってんのか、お前」
 相原は珍しいものを見るような顔をした。
「一目惚れか?」
「あぁ?」
 樹はぬっと身を起こす。
「誰が男に惚れるかよ」
 相原は黙って樹を見ている。樹は脱力してもう一度腕の上に顎を落とした。
「そんなんじゃなくて、なんて言うか……このままじゃ納得できねーじゃねぇか、なんであんなに気になったのか。もう一回会ってみてーんだよ」
「……でも、おかしいな。あいつが着てたのは確かにうちの制服だったし、停学くらったとか、入院でもしてない限り、学校に来てないってのはあり得ないんだけどな。……それともいきなり登校拒否してんのか……」
 相原の声を聞き流しながらぼんやりと外の景色を眺めていた樹の眼に、その時グラウンドの向こうの道に立つ人影が映った。遠くて顔は判らないが、黒の   たぶん学生服を着ている。
「あ……ああっ!」
 樹は思わず身を乗り出した。
「何だよ、いきなりでかい声出して……おいっ」
 樹は駆け出していた。
「ちょっと行ってくるっ」
 振り返りもせず言い置いて、廊下を走り、階段を2段飛ばしで駆け下りた。途中追い越したりすれ違った奴らが驚いて何か騒いでいたが、もちろん無視して体育館からグラウンドへ上履きのまま飛び降りる。
 体育館の裏手から続く、背の高い植え込みが途切れたフェンスの向こうに、彼はいた。
「……い、いた………」
 息切れと安堵でがっくりと身体が折れる。両膝に手をついてぜいぜい喘ぐ樹を、彼は驚いて眺めていたが、樹の前まで歩み寄って「大丈夫?」と声をかけてきた。
 初めて聞くその柔らかな声は、染み込むように樹に届いた。
「やっぱ……あんた、だったな……」
 ようやく呼吸を整えて、身体を起こし額の汗を拭う。線の細い身体と、色素の薄い肌と髪と、優しげな眸。向き合うフェンス越しに、幻でも何でもなく、彼は確かに存在していた。
「なんで、そんなとこにいるんだよ。外にいるとこ見つかったらヤバいぜ」
 休み時間に学校の外に出るのは禁止されているのだ。だが彼は微笑んで首を振った。
「平気だよ。僕は……今学校には行ってないから」
「え? なんで?」
 彼は困ったように笑った。
「入院……してるんだ」
「入院、ってこの下の病院か?」
 彼は頷く。
「って、おい、大丈夫なのかよ。こんなとこ出歩いてて」
 だからそんなに身体の線が細くて、透けるみたいに白い肌なのか。彼は他人事のように笑って首を振った。
「全然平気だよ。ただ、入院が長くて学校に行けないだけ」
「本当かよ。そんな生っ白い顔して」
 樹は1歩フェンスに歩み寄る。
「どこ悪いんだ? 外に出ても大丈夫な病気なのか?」
 綺麗な黒目がちの眸は、ただ曖昧に笑って、ふっと逸らされた。
「じゃあ、ね」
 そのまま小さく手を振って行き過ぎようとする。
「ま…待てよ!」
 思わずフェンスを掴んだ。ガシャンと金網が鳴って、彼が振り向く。
「名前!」
 きつくフェンスを握り締める。こいつさえなければ、手を伸ばせるのに。あの細い腕を捕まえられるのに。
「教えてくれよ。俺は本多樹。あんたは?」
 彼はしばらく、どこか不思議なものを見るような、哀しいようなそんな表情をして、それからにこりとした。
「僕は久住涼くずみりょう
「じゃあ、涼。今度はこんなとこから眺めてないで、学校来いよな。俺がちゃんと案内してやっから」
 涼は滲むように、辺りの空気を揺らめかすように、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、またね、樹君」
 歩き出す彼の姿が、植え込みの陰に見えなくなっていく。
「絶対こいよ!」
 返事は帰ってこなかった。
 樹はそのまま彼が消えたフェンスの向こうを見つめていた。彼が歩いて行った道の先にあの桜並木の坂道があり、その下にこの辺りでは唯一の市立病院がある。彼はそこにいたのか。
 なにか物哀しい気持ちが胸に過ぎる。深く息をついて指に食い込んでいた金網を離し、樹はフェンスに背中を預けた。
 薄っぺらい眩しい空に、小鳥が飛んでいる。
    またね、樹君。
 柔らかなその声が、春風のように耳に残った。



 結局樹が戻ったのは、次の授業が終わってからだった。
 ちょうど次は体育でグラウンドでの授業だったのだが、とても跳んだり跳ねたりする気になれなかったのだ。
 体育館の更衣室から帰ってくるクラスメイトよりもさらに一足遅く教室へ戻った樹は、その入り口で斉木美加とその取り巻きに呼び止められた。どのクラスにも2、3人はいる仕切り屋で、自分は無敵だと思っているらしい女だ。
 普段は取っつきやすいし雑談もよくする相手だが、さすがに今は呼び止められても返事をする気になれず、じろりと振り返る。それでも斉木は臆せず、あくまでマイペースにまくし立てた。
「本多ー、さっきあんたグラウンドんとこで話してた人いたでしょ。あの人誰? 知り合いでしょ? ちょっと紹介してよー」
 体育館かグラウンドから見られていたのだ。瞬間、頭に血が上った。
「……ざけんな。あいつに手ェ出したら、ぶっ殺すぞ!」
 クラス中の会話がぴたりと止まった。頭の隅でしまったと思ったが、もう遅い。
 目の前の斉木は真っ青な顔で「なにムキになってんのよ」ともごもご言い、恐れをなした取り巻きと一緒に逃るように行ってしまった。
 棒立ちになった樹の肩に誰かがぽんと手を置く。
「なに焦ってんだ、本多」
 みんなの視線から逃すように廊下に連れ出しながら、低く相原が言った。



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