時間旅行


                       1.サクラ咲ク頃




  陽が暮れかけた坂道は、車が通ることもなく、妙にしんとしていた。
 他の部活の連中も、春休み最後ということもあって今日は早めに終わったのだろう。たつき達が片づけをしている間に、他のサッカー部の1年生もさっさと帰ってしまって、校門を出る時には人影はなくなっていた。
 口を閉じると、静かな坂道に足音だけが響く。
 春は嫌いだ。
 特にこの坂道は最悪だ。
 春の香りがぷんぷん漂う坂道を下りながら、樹は眉をしかめた。
「俺、やっぱ向こうの道から帰ろうかな」
 オレンジの斜光が頭上の枝の隙間から眼に差し込んでくる。ますます渋面になる樹を見て、隣を歩く相原が眉一つ動かさずに返した。
「あっちからだったら家と正反対だろ。そんな回り道する体力がお前に残ってんのか」
「いや、ない」
 部活で散々しごかれた後だから、本当なら喋りたくないくらいだ。
「……けどよー。うざくないか? この匂い」
 樹は坂道の両側から覆い被さるように伸びる、頭上の枝を指さした。
 樹の通う高校はさほど大きくもない港町を見下ろす丘   というか小さな山の上にある。高校と下の街を結ぶ道は二つあり、今樹達がてくてく下っている正門側の坂道には、初代の校長が植樹したという桜並木があった。
 樹齢何十年も経っている立派な並木は、春になるとピンク色のトンネルになる。坂の上の方から眺めるとトンネルの出口から海まで見えるから、見頃になると花見目当ての車が渋滞するほどだ。
 今はまだ、濃いピンクの蕾からちらほら花びらがほころび始めたばかりで花見客どころか人の姿もないが。
 相原は怪訝そうに頭上を見上げ、樹を見た。
「何か臭うか?」
「だから桜だよ。もうぷんぷんしてるだろ、花の匂いが」
「まだ咲いてもないのに匂う訳ないだろ」
 樹は鼻にしわを寄せて相原を見返した。
「お前、鼻悪いんじゃねーの? こんなに充満してんじゃねーか、花屋みたいな匂いが」
 相原が眼鏡の奥から冷めた視線を返してくる。
「そういやお前、前から桜が嫌いだって言ってたな」
「嫌いだと悪いか」
「別に」
「ったく、日本人は桜が好きじゃねーとダメだっていう法律でもあんのか? 匂いは臭ぇし。花びらは飛ぶし、大体ピンクだぜ? 女じゃあるまいし、ピンクなんて俺は嫌いなんだよ!」
 吠える樹を呆れた顔をして見遣った相原は、「そういや、昼間も同じようなことを吠えてたな」と言った。
「昼間?」
「明日、始業式の後、美術館に見学に行くって話してただろ」
「ああ、あれか」
 ランニングの最中に、誰かが話題にしたのだ。初日にいきなり美術鑑賞ってのも、変な高校だよな、と。それを聞いた樹が「マジかよ!」とわめき、見咎めた顧問によって全員グランド10周が追加されたのだ。
「俺はこの世で絵と桜ほど嫌いなものはねーんだ」
 大体たかが絵ごときを、大袈裟に芸術なんて称する自体が気に入らない。特に現代美術とかいう、何を描いているんだか判らないような、絵の具を塗りたくっただけのものを眼にすると虫酸が走る。あんな幼児でも描けそうなもののどこが「芸術」なんだか、400字以内で説明してほしいくらいだ。
「なんであんなものを、新学期早々わざわざ見に行かなきゃならねーんだ? 世の中にはもっとすべきことがあんだろ? ここの教師全員、頭おかしいんじゃねーか? 何考えて……あ」
 唐突に足が止まった。
「なに、どうした?」
 相原が驚いて振り返った。ゆるくカーブを描く道の向かい側の歩道に、少年が立っていた。
 少年といっても、歳は樹達と同じくらい   いや、年上に見える   で、同じ黒の学生服を着ている。
 少年はのんびりとほころびかけた桜の梢を見上げていた。色の薄い肌に、少し長めの栗色の髪が、夕暮れの光に暗く輝いている。線の細い、強い風が吹けば飛ばされそうな華奢な身体だった。
「おい、本多」
 呼ばれてはっとする。相原が訝しげに見ていた。
「知り合いか?」
 いや、知らない顔だ。見たこともない。
「え? あ、いや」
 何故立ち止まったのだろう。
 その時、少年が樹達に気づいて、ふ、と振り向いた。黒目がちな、優しげなまなざしが樹を見る。
「あ……」
 思わず声が出た。だがその先が続かない。口をぱくぱくさせる樹に、少年はにっこりと微笑んだ。
 胸の鼓動が、一段高いトーンで鳴った。
 なんだ、これは。
 樹は慌てた。
「本多?」
「あ、ああ」
 訳が判らないまま不器用に目礼だけして、眼を逸らし、少年の前を通り過ぎる。それでも意識が後ろへ後ろへと引っ張られていく。気になって仕方ない。
「どうしたんだよ、お前」
「……いや、別に」
「耳赤いぞ」
「へ?」
 触ってみると押さえると、確かにびっくりするほど熱くなっていた。
 全く、何がどうなってしまったのか、どうしたんだと訊きたいのは樹の方だった。今までこんな感覚は体験したこともない。まだ耳の奥がどくどく鳴っている。落ち着かない。なんだか地に足が着いていないというか、いきなりゼリーの中に足を突っ込んでしまったような感じだ。
 妙な静けさも夕陽も風景も部活の疲れも、全部が吹っ飛んでしまった。桜のことなど、もう全く気にならない。
「さっきの、新入生だろ。通学路の下見にきたってところじゃないか」
 明らかに動揺している樹を察して、相原が言った。
「え? あれ、年下じゃねぇよ。俺らよりぜってー上だって」
「んな訳ないだろ。2年……てもう3年か……そいつらの中に、あんな奴はいないぜ。俺らの学年にもいない。てことは新入生だろ。転校してくる奴がいるって話は聞かないしな」
「……うん……ああ、そう、か」
 言われてみれば確かにそうだ。だが、どうも腑に落ちない。
 どうしても気になって、耳を押さえた「聞か猿」のような格好のままもう一度振り返ってみる。
 ゆるくカーブした桜並木の下に、もう少年の姿はなかった。    





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