9.カボチャに戻った馬車 しばらく様子を窺ってみたが、相変わらず報知器の耳障りなけたたましさは収まる気配をみせない。 室岡はドアの鍵を開け、そろりとノブを回した。その次の瞬間、物凄い力がドアにかかった。ノブを握った室岡もろともドアは開かれ、前方につんのめる。 何が起こったのか判断するまもなく、今度は前のめりになった腹部に強烈な衝撃を受け、後方に吹っ飛ばされる。 腹部と腰を強打して、床に転がった室岡は呼吸困難と痛みにもがいた。一体自分に何の厄災が降りかかったのか。外れかけた眼鏡と涙に霞む視界を開くと、目の前に何者かの靴先があった。 「暁はどこだ!!」 頭上から雷鳴のような怒鳴り声が鳴り響いた。室岡は激しく咳き込みながら、空気を吸い込むことに必死になった。その横腹を、再び衝撃と激痛が襲う。 蹴りを食らわせれて、海老のように身体が折れる。室岡は咳き込みながら呻いた。とにかくこの場から逃れたいのに、無様にもがくことしか出来ない。 「どこだと訊いてんだ、この下衆野郎!」 「兄貴、こっちだ。鍵がかかってる」 別の男の声が聞こえたと思った途端、頭皮がむしられそうな勢いで髪をわしづかみにされ、室岡は無理矢理顔を上げさせられた。 自分を睨み付けていたのは、どこかで見覚えのある生徒だった。鋭く細められた切れ長の双眸は凶暴な光を湛え、その均整のとれた全身から怒気が溢れていた。 ぼやけた視界がそれを捕らえた瞬間に、震えがきた。 「鍵はどこだ」 本能的に悟った。こいつは普通じゃない。殺しさえやりかねない。 全身を硬直させながら、室岡は逆らう気がないことを示す為に何度も頷いた。がたがたと震える手で胸元を探り、小さな鍵をようやく取り出す。 生徒はそれをもぎ取ると、もう室岡の存在など失念したかのようにロッカーに駆け寄った。 鍵のかかったロッカーに駆け寄った陽海は、見守る光の前でもどかしく鍵を差し込み、扉ごと引きちぎる勢いで開け放った。 「暁!!」 血の気をなくした顔でぐったりした暁が、手足と口を縛られロッカーの壁に崩れていた。 「暁っ、暁!」 「暁!」 服が乱され、袖がまくられている。陽海は飛びつくようにして抱き起こし、猿ぐつわを外して頬を叩いた。 「暁、しっかりしろ、暁っ」 睫がぴくり、と揺れた。薄く開いた唇に、徐々に赤みが戻っていく。 「暁!」 呼びかけに唇が震える。瞼がゆっくりと開く。 「……あ………」 「暁、俺だ。判るか?」 「はる…陽、海……?」 茫然としていた暁の顔がくしゃりと歪んだ。 「陽海……陽海……っ!」 子供のように震え出す華奢な身体を、きつく抱き締めた。震えも脅えも奪うほど、きつく。 「もう、大丈夫だ」 暁の髪の匂いがした。安堵に目眩すら感じて、陽海は眼を閉じ、吐息した。 「どこへ行くんですか、室岡センセイ」 痛みを訴えてばかりで動こうとしない身体を胸のうちでののしりながら、何とかドアの外へ這い出ようとしていた室岡は、冷ややかな声を背筋に聞いて、全身を凍り付かせた。油の切れた機械のようにぎこちなく振り返る。華やかな容姿の少年がスラックスのポケットに両手を突っ込み、斜に見下ろしていた。細身でひ弱にも見える外見だったが、その眼は寒気を覚えるような凶暴さを宿している。 少年は凶悪なまなざしのままで、唇にあでやかな笑みを浮かべた。 「生徒一人を監禁しておいて、まさかこの場を逃げればしらを切れるとでも思っているんですか?」 「き、君は……」 室岡はじりじりと後ずさった。 「幼児並みの思考能力だな」 言葉と同時に長い足が飛んできた。見事に腹で受け止めることになり、室岡は「げぇっ」と奇妙な呻き声を上げる。 「や、やめろっ。き、君、教師にこんなことをして……」 「『タダで済むと思っているのかい?』それはこっちの科白だ、変態倒錯野郎が」 再び振り上げられた足が二折れになった腰を踏みつける。骨が軋むほど力を込められて悲鳴を上げようとしたが、ひいひいと喉に引っかかるような喘ぎしか出てこない。 少年はポケットに手を突っ込んだままの格好で、踏みつけにした室岡を覗き込んだ。 「鳴滝の家のモンに手ェ出して、残りの人生無事に暮らせると思ってたのか? 度胸があるねぇ、室岡センセイ。それとも単なる能なし? ただの変態スケベオヤジ? まさか暁に惚れただとか、抜かすんじゃねぇだろうな」 声も出せずに、室岡は必死に首を振り続けた。その様子を汚い物でも見るように眉をしかめた少年は、身を起こし、室岡の身体を軽く蹴った。室岡は丸太のようにごろりと転がる。 「兄貴ぃ、こいつどうする? やっぱ殺しとく?」 その言葉で、室岡はようやくここにいる二人の少年が鳴滝暁の兄、鳴滝陽海と鳴滝光だと分かった。鳴滝理事の息子達だ。そこまで考え至って、今自身が進退の危機にあることをようやく悟った。 いや、そんなことよりもっと以前に、今自分は生命の危機にさらされているのだ。 冷たい汗が噴き出るのを感じながら顔を上げると、体格のいい方の生徒 「俺が殺してやる」 室内の気温が10度は下がった気がした。鳴滝陽海の目つきは完全に変わっていた。室岡はひぃっと悲鳴を上げた。 「や、やっ、やめてくれっ。頼むから勘弁してくれっ。僕が悪かった。この通り謝る。何でもする。だから、なっ、こ、殺すのだけはやめてくれ、お願いだっ!」 「なら、そこに転がってるものの中身、てめぇで注射してみな」 脇で眺めていた弟の鳴滝光が口を挟んだ。光の意図が掴めず、室岡は注射器と光の顔を見比べた。忙しく移動する視線の先で、光は意地悪げに笑みを浮かべた。 「その瓶は病院で使われてるもんだろ? 麻酔用のマリファナだ。コカインに比べて中毒率は低いって訊いたぜ。どっから横流ししてるかは知らねーが、あんた自身がラリるにしても、かわいい教え子トリップさせて好きにするにも、いいおもちゃって訳だ」 室岡は絶句した。それに構わず光は続ける。 「それ射ってあんたがいい気分になったところで、そこの窓から突き落としてやるよ。ここに証拠の注射器と瓶が転がってりゃ、どっから見たって麻薬でラリった不良教師の不慮の事故だ。俺達は関わっちゃいない。わざわざもみ消す必要もないし、あんたの方は生徒を監禁して卑猥な行為にふけろうとした事実が世間におおっぴらにされることはない。一石二鳥だろ」 室岡は愕然としながら首を振った。 「い、いやだ……」 「なんでだよ。ただの薬中で死ねるんだぜ。事の真相を知ったらあんたの親戚一同、あんたの英断を泣いて喜ぶと思うけどな」 恥も外聞もなかった。 「い、いやだ……死ぬのは嫌だ……」 室岡はただ幼児のように首を振って要求を拒否することしか出来なかった。恐怖と屈辱で涙が滲んでくる。がくがくと震える全身は、なんとか後ずさろうとする意志を全く受け付けない。 室岡の様子にうんざりとした表情をして光が陽海を振り返る。 「……だとよ。どうする?」 陽海が暁から離れ、ゆっくりと立ち上がった。無言のまま室岡に歩み寄ってくる。一歩ごとに恐怖が近づいてくる。 室岡は口を開けた。叫びを上げようとした口の中はからからに乾いていて、吐く息が洩れるだけだった。 心臓の鼓動が爆発する。 駄目だ、殺される 室岡は2、3度大きく身体を震わせ、白目をむいた。 髪も服装も乱し、仰向けにひっくり返ったその姿を呆れたように見遣った陽海は、しばらくして溜息をついた。 「……お前に任すわ」 そう光に言って、陽海は興味をなくしたように踵を返した。 光はほっと肩の力を抜いた。本当に殺してしまうのではないかと、内心ひやひやして見ていたのだ。室岡のような奴は別に死のうがどうなろうが全く構わないが、陽海が殺人者になるのを傍観している訳にはいかない。鳴滝の家の力で事件をもみ消すことは出来るだろうが、それでも光は陽海に手を汚してほしくはなかった。 光は明るい声で言った。 「仕方ねぇ。警察にでも引き渡しておくか。どうせ、学校に言ったって内部でなかったことにするんだろうし」 「そうだな」 光は再度室岡に蹴りを入れ、意識を戻したところを襟首を掴んで引きずり上げた。 「じゃ、暁の面倒は兄貴に任せたぜ」 「ああ、頼む」 ひいひい言う室岡を引っ張って部屋を出、思い木製のドアを閉める。カチャリと閉じる音を聞いて、大きく吐息した。 「災い転じて福となる……かな」 悪戯だということに教員が気づいたのだろう。警報機のベルはいつの間にか止まっていた。 |