8.魔術師の罠2 「あの……鳴滝先輩はまだいらっしゃいますか?」 その声が教室の入り口から聞こえた時、長引いた授業が終わったばかりでざわつく教室の最後列で、光と聡一郎は陽海を囲んでいた。 強硬に家を出ると言い張る陽海を二人で宥めていた最中だった。陽海は強情者らしく、二人の言うことにも眉一つ動かさずに黙々と机の上の物を鞄に詰めていて、隣のクラスから乗り込んでいた光は、半ば呆れ顔でそれを眺めていた。聡一郎の方は、いつものように根気強く話しかけている。 「おーい、陽海。客だぞ」 出入り口に近い席の生徒が呼んで、3人は同時に振り返った。そこに立っていた人物に反応を見せたのは、光一人だった。 「お前、この前の……」 光がいることに気づいて、相手は少したじろいだ。 「光、知り合いか?」 陽海の声に「いいや」と首を振って、光は早瀬に歩み寄った。 「兄貴に何の用だ、下級生」 上背は早瀬の方が勝っている。だが、威圧に負けて虚勢を張っているのは早瀬の方だった。僅かに躊躇を見せた後、早瀬は開き直ったように光を見つめ返し、口を開いた。 「本当は、貴方に言付けがあったんです」 光はぴくりと眉を動かした。 「なに?」 「鳴滝……暁君が貴方に、と言ったので」 「勿体付けずにさっさと言えよ。それとも、この間邪魔した抗議にでもきたのか?」 早瀬の頬がさっと赤くなる。眼鏡の奥の柔和な双眸を険しくして、早瀬は声を震わせた。 「違います。僕は浮ついた気持ちで彼に近づいたことはない。あのことについては、後で幾らでも弁明させていただきます。だけど今は鳴滝のことの方が先だ。鳴滝が室岡先生に呼び出しを受けたんです。30分経っても戻ってこなかったら貴方に伝えてくれ、と……」 光は表情を変えた。 「呼ばれたのはいつだ?」 「もう、10分ほど前になります」 「やべぇじゃねーか……なんでそれを先に言わねぇんだ!」 光は勢いよく振り向いた。 「兄貴、暁が危ねぇぞ」 どこか無気力だった陽海の顔が、ふっと引き締まる。立ち上がり、大きな歩調で歩み寄った。 「暁がどうしたって?」 「室岡に呼び出されたってさ。ヤバいぜ」 「生徒指導の? それがどうした」 光は一瞬唖然として、それから声を荒げた。 「知らねーのかよ。前にあの変態教師に生徒指導室に連れ込まれた奴が、ヤク射たれて強姦されたっていう有名な噂!」 言葉を最後まで聞かず、陽海が廊下に飛び出していく。後を追おうとした光の背中に早瀬が声をかけた。 「僕も行きます!」 光は素早く振り返った。 「あの血相変えた顔、見たろ? 暁を助けるのは兄貴一人で充分なんだよ。俺は兄貴を止める役目なの。あのまま突進したんじゃ、相手殺しちまうからな」 踏み込むように早瀬を見据える。 「憶えとけ。暁に手ぇ出すってことは、あの兄貴を相手にしなけりゃならないってことだ。自分が鳴滝陽海に勝てる人間かどうか、そこんとこしっかり考えて行動しろよ、下級生」 言い終わると同時に、光は身軽に廊下へ走り出ていった。 強引に袖をまくられ、右腕に注射針が近づけられていく沈黙の間、暁は凍り付いたように虚空を見つめていた。 頭では逃げなければと焦っているのに、身体が麻痺してしまったように動かない。いくら大声を上げようとしても、乾いた唇からは僅かな喘ぎが洩れるだけだった。まるで悪夢を見ているようだ。そうだ、これは夢なのかもしれない。でなければ、室岡に縛り上げられ、こんな寒気がするような荒い息遣いを間近に聞かなければならない状況になるはずがない。 そうだ、これは夢だ、悪い夢だ。朝になったら、きっといつものように怒鳴り声で目が覚めるのだ。 暁、なにのんびり寝てんだ。起きろ、遅刻だぞ 陽海 突然、分厚い扉の向こうでけたたましい火災報知器のベルが鳴り響いた。思わず、暁も室岡も飛び上がった。 「なんだ……どうせまた故障だろう」 室岡が額に浮いた汗をぬぐう。以前にも何度か誤報や悪戯で鳴った前歴のある報知器だが、 火事だ 騒ぐ声が聞こえてきて、再び注射器を持ち上げかけた室岡は神経質そうに視線をさまよわせた。しばらく迷った後、忌々しげに舌打ちする。 「立つんだ」 後ろ手に縛られた手首と髪を掴まれ、暁は喉をのけ反らせながら立ち上がった。両足に力が入らず、膝が砕けそうになる。 「さっさとしろ!」 腕が折れるかと思うくらいにねじ上げられる。暁は呻きながら両開きのロッカーの前まで追い立てられ、中へ突き飛ばされた。室岡はデスクからタオルを持ち出し、ほとんど抵抗も出来ない暁の足を縛り、猿ぐつわを噛ませた。 「そこで大人しくしていろ。すぐに戻ってくる。……後でたっぷりかわいがってやるからな」 髪を乱した室岡のシルエットが、扉を閉ざされ視界から消える。 身動きも出来ず、暁はただ眼を見開く。狭い空間に充満する闇が暁を押し包む。濃縮した闇。黒一色の視界が暁を飲み込む。 息が出来なくなった。 |