7.魔術師の罠


 何日か膠着状態が続いた。陽海と暁は顔を背け合うようにして暮らし、光はその間でうんざりした顔をしていた。
 沈黙が続く日々の間に、暁の胸底には疑問符が積み重なっていく。
    どうして  どうして  どうして    .
 答えを聞くとその疑問の山が雪崩を起こすような気がして、まともに陽海の眼を見ることも出来なかった。
 眠れない夜が続き、当然の結果として授業中は眠って講義を聴くことになる。雑多な雰囲気が安心するのか、授業中が唯一何も考えずにいられる時間だった。休み時間の間は早瀬の視線が絡みついてくる。あれ以来、彼があからさまな行動に出ることはなかったが、それでも言葉や動作の端々にどきりとさせられることは度々だった。
 授業終了のチャイムが頭の上を通り過ぎる。微睡みを邪魔されて、暁は机からのろのろと身を起こした。
「起立、礼」
 早瀬のきびきびした声の後、教室は一度にざわめき出した。そうか、さっきのが最終の授業だったのか。鞄を取り上げるクラスメイトの姿でようやく悟った。
 そのざわめきが、不意に静まった。
「鳴滝」
 教卓から呼ぶ声が聞こえて、暁は再び沈みかけた頭を持ち上げる。神経質そうな細眼とまともに視線がぶつかった。その瞬間、のろのろした思考でも、やばいと思った。
「ちょっとこっちにきなさい」
 他の選択肢はない。仕方なく立ち上がって教卓に向かう。教室中の視線が集まってきているのが判った。   噂が広まって、その生徒は学校を辞めざるを得なくなった    . 一体過去に何があったというのだろう。
 室岡は一段高い教壇の上に、余裕の笑みさえ浮かべて暁を見下ろしていた。
「君はこのところ、授業に集中出来ていないようだね。何か悩みでもあるのか?」
 極力目を合わせないようにして首を振る。
「いえ」
「とにかく、今の状態では君は授業についていけなくなる。生徒指導室へ来なさい。事情を聞こう」
 そう言い置いて、室岡はどこか勝ち誇ったように背筋を伸ばし、教室を出ていった。それを沈黙で見送った教室の空気が再びざわめき出す。
「鳴滝っ」
 まだぼんやりしている暁に、真っ先に駆け寄ってきたのは、やはり早瀬だった。
「行くなよ、絶対」
「……行くなって言ったって、呼ばれたもんを無視できるかよ」
「なにされるか判らないんだぞ」
 早瀬の顔は青ざめてさえいた。それが滑稽に思えてくる。呼ばれたのは早瀬ではなく暁なのだ。
「行ってくるよ。ずっぽかして後でねちねち報復されたんじゃ、たまんねーから」
「鳴滝、判ってないよ、お前」
「なにが」
 腹立ち紛れの視線を真正面から向けると、早瀬はたじろいだ。周囲の目が素知らぬ風を装いながら、ちらちらと自分達に向けられているのがありありと感じられる。メロドラマかよ、これは。暁は苛立ちながら自分の席に戻り机上を片付けると、鞄を机に放り出してさっさと教室を出た。
「鳴滝、待てよ!」
 早瀬がしつこく追いかけてくるのを肩越しに振り返る。
「もし、30分経っても戻らなかったら、光兄貴に伝えといてよ。もし早瀬が心配するようなことになっても、兄貴ならなんとかしてくれるだろうから。それなら文句ないだろ」
「鳴滝……」
 早瀬の声を背中に聞きながら階段を上る。どうせ大したことになんかならないのだろう。そう思っていた。ひょっとしたら早瀬は、このことで暁の気を引こうとしているのかもしれないと、そんなことさえ考えていた。
 苛ついているところに説教なんてついてない。重なる不運にさらに苛々していただけだった。
 楽観が大きく踏みにじられるのも知らずに。



 3階には物理や生物科学室などの特別教室が並んでいる。生活指導室はその一番奥にあった。隣の音楽室から出てくる生徒とすれ違い、廊下の突き当たりで扉を叩いて「失礼し
ます」と開ける。随分重くて分厚い扉だった。しかも鍵穴まである。
 窓を背に置かれたデスクに、室岡は両肘を付いて座っていた。まるで、ドラマで見る警察の取調室のような配置だ。壁際にスチール製のロッカー、デスクの前にはテーブルセットが置かれている。他にはこれといったものもなく、妙に殺風景な印象の部屋だった。
「そこに座ってもらおうか」
 壁際に置かれた黒革張りのソファを指さされ、座る。なにかの書類を手に立ち上がった室岡が、デスクを回り込んで暁の向かい側に腰を下ろす。その眼が爬虫類のようで、目が合った瞬間、背筋に悪寒が走った。
「さて、君の授業態度のことだがね。先生の経験上、君のようなケースの大半は家庭に何らかの事情を抱えている。少し調べさせてもらったよ。もちろん生徒のプライバシーを個人的興味で暴いたつもりはない。いわゆるこれは、生徒指導の義務に値する問題だからね」
 暁は感情を隠す努力はとうに放棄していた。露骨に嫌悪を見せる暁に、室岡は楽しんでいるかのような視線で応え、手にした書類に目を落とした。その眼が蛇のようだ、と薄ら寒くなる。
「君は1ヶ月程前に鳴滝家に三男として養子に入った。だが長男、陽海とは折り合いが悪く、今もぎくしゃくとした関係が続いている」
 そこで一度言葉を切り、室岡は暁を見遣った。
「それはそうだろうね。鳴滝家の財産は億単位のものだ。それを相続するライバルがまた一人増えた訳だから、晴海君が苛立つのももっともな話だよ。君はひょっとしてお兄さん達から追い出されそうになっているのかい?」
 暁の眉間がさらに険しくなる。
「……そんな訳ねぇだろう」
 室岡はますます笑みを深めた。
「まあ、そのことは後にしよう。話は戻るが、君は鳴滝家に入る前の姓は望月と言ったね。望月というのは母親の姓だ。20歳で未婚のまま君を産んで、それから2年後に結婚している。その相手が新堂浩。だが君の母親は新堂と3年前に別れ、今は高田義之という男性と同棲しており、近く結婚する予定、となっている。……なかなか複雑な過去だ。君の母親は随分恋多き人生を歩んでいるようだね。振り回される君も大変だったろう」
 忍耐の限界など、とっくに越えている。暁は拳を握り締め、立ち上がった。
「わざわざ調べたもんを、本人の前でひけらかしてどうしようってんだよ。そんなことをだらだら聞いてられるほど、俺はヒマじゃねぇ」
 怒鳴らないでいられるのが不思議なくらいだ。出て行こうとする暁を、室岡の声が鋭く制した。
「待ちなさい、鳴滝。話はまだ済んじゃいない」
 暁は肩越しに振り返る。
「一体何が言いたいんだよ」
「君の出生の偽りについてだよ」
「出生……?」
「君が鳴滝の血を引いていないことを知っているかい? 鳴滝、いや新堂君」
 室岡は薄い唇の端を持ち上げ、にやりと笑んだ。
「……なに、言ってんだ?」
「君は鳴滝家の現当主、鳴滝一臣の非嫡出子として認知されているが、彼は父親などではない。君の本当の父親は君が初めてパパと呼んだ男、新堂浩なんだよ。そう調べはついている。君がその事実を知っていようといまいと、偽って鳴滝家の息子として居座っている現状は、これはもう犯罪の域だ」
「いい加減にしろよ。俺が犯罪者だっていうのかよ、てめぇ!」
 室岡は笑みを絶やさず、絡みつくように見上げてくる。そしてゆっくりと立ち上がった。激高していたにも関わらず、足が勝手に後ずさる。
「君はむしろ被害者だ。事実を偽ったのは君の母親なんだからね。だが、その母親は別の男と一緒になり、君に帰る場所はない。兄弟に煙たがられていたとしても、君の居場所は鳴滝の家しかない」
 室岡がゆっくりと歩み寄ってくる。暁はまた一歩後ずさった。蛇のような男の双眸から、眼が離せなくなっていた。
 俺は、鳴滝の家の人間ではない   
 疑問がぐるぐると頭を回っている。
 嘘だろう?
 不健康そうな薄い唇から舌が覗く。乾いた唇を湿らせて、室岡は楽しげに言った。
「だが君は鳴滝家にとってはよそ者だ。皆を欺いた裏切り者だ。偽りが発覚すれば、君は身ぐるみはがれて追い出されるだけじゃ済まないだろう。家格の高い家というのは、そういうことに潔癖というからね。君の存在そのものが抹消されかねない」
 光とも陽海と、赤の他人なのか。本当は歯牙にもかけてもらえないほど、遠い世界の人間だったのか?
 嘘だ   .
「鳴滝君。先生の心次第で、君は今の暮らしを続けていけることを知っているかい?」
 室岡の手が暁の肩にかかり、ゆっくりとおとがい から頬を撫で上げていく。茫然としていた暁は、はっとして反射的に払いのけた。
「なっ……なにすんだ!」
 男の細い眼にどす黒い倹の色が広がった。
「随分強情な子だ。まだ判らないのか? 僕の心一つで、君の運命は決まるんだよ」
 身を退こうとして背中をぶつけ、立ち竦む。いつの間にか壁際まで後ずさっていたことに気いていなかった。
 室岡が再び笑みを浮かべる。
「もう、逃げられないぞ」
 戦慄が背筋を滑り降りた。
「鳴滝の家にいたくないのか? あそこにいれば人並み以上の暮らしが出来る。逆に今君の年齢で世間に飛び出したところで、出生も怪しい人間に手を差し伸べてくれる者などいはしない」
「嘘だ………」
「かわいいね、君は」
 生暖かい吐息と共に室岡が頬を寄せてくる。舌が耳朶を舐め、暁がびくりとした刹那に貪りつくように噛んだ。
「や…めろっ!!」
 全力で突き飛ばす。蹌踉めいた室岡が髪の乱れた頭をゆらりと上げる。はっきりと目つきが変わっていた。さっきまでの笑みが引きつる頬に張り付いて残っている。
「仕様のない奴だな。父親も知れない下賤の子供は躾もされていないようだ。僕は本来荒事は嫌いなんだが……」
 言いざま、物凄い力で暁の腕を掴んだ。振りほどこうとする暁を逆に胸元に引っ張り押さえ込んで、掴んだ両腕を背中にねじり上げる。
「止めろっ、離せ!!」
 床へひざまづくような格好で背を膝で押さえつけられ、暁は叫んだ。踏みつけにされた身体が圧力に軋みを上げる。掴まれた手首が砕けそうに痛い。呻くその頭上で、室岡は荒い息をして笑った。
「大きな声を出しても誰も来はしないぞ。ここは元々音楽準備室だったところだからな。防音はしっかりしているんだよ。それに廊下の突き当たりで人も通らない。こっちにとってはうってつけの場所だ」
 片手でネクタイを緩め引き抜くと、室岡はそれで暁の両手首を縛り上げた。続いて胸の内ポケットから銀色のケースを取り出す。中には注射器と小瓶が入っていた。ケースをテーブルに置いて、片手で瓶の首を折り、注射器を差し込んで中の液体を吸い上げる。少し押し戻して中の空気を抜くと、針先から透明な溶液が細く吹き上がった。
 暁はそれを茫然として見ていた。
「すぐに良くなる。嫌なことも何かもを忘れられる、これは魔法の薬だよ」
 荒い息遣いが首筋にかかり、背筋が粟立った。




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