6.曇りガラスの向こう


「なんで……!」
 お通夜のような夕食の後、陽海の宣言に真っ先に反応を見せたのは暁だった。
 椅子を蹴り血相を変えて立ち上がった彼を眺めながら、ふと思った。まるで新しい弟がくると言った父の時の再現だ。妙なことで再認識してしまう。やはり血はつながっているのだ、陽海と父は。そして、陽海と暁は。
「なんで出てくんだよ!」
 まるで自分がけなされでもしたように顔を紅潮させる暁の前で、陽海は低く平坦な声で言った。
「俺自身の問題だ。お前等には迷惑はかけない」
「どこ、行くつもりなんだよ」
 光が珍しく真剣な面持ちで陽海を見ていた。
「学校の寮に入ろうと思う。大した金もいらないしな。親父にはまだ話してないけど、世間勉強だって言えば許可してくれるだろう」
「本当はそうじゃないんだろ?」
 間髪入れず、光が痛いところを突いてくる。
「……そういうことにしといてくれ」
 溜息混じりに言ったその言葉を打ち消すように、暁の怒鳴り声が鼓膜を叩いた。
「俺がきたからなんだろう、はっきりそう言ったらどうなんだよ!」
 陽海は反射的に睨み返す。暁の握りしめた拳が微かに震えていた。
「厄介者なんかと一緒に住んでちゃ、鬱陶しくてやってらんねぇって、言えばいいじゃねぇか!!」
「うるさい! 俺の問題だって言ってるだろう!!」
 びくり、と暁が肩を震わせた。陽海を見つめる眸が揺らめき、きつく唇が噛み締められる。見つめ合ったのはほんの一瞬だろう。身を翻し、ドアを叩きつけるようにして暁は部屋を出ていった。
 急にしんと静まり返った空気の中で、光が口を開く。
「言ってやりゃあいいじゃねーか。お前が原因だって」
「光」
 眉根を寄せ、彼を見る。光の明るい色の双眸が、陽海の眸の奥にまで踏み込むように見据えていた。
「はっきりさせなけりゃ、暁は余計傷付くんじゃないのか?」
 どこまで見抜いているんだ? 出かかった言葉を飲み込んで、眼を逸らす。
「あいつがどうこうっていうことじゃない。俺の問題なんだ。嘘じゃない」
「俺にも言えないようなことか? 兄貴」
 はっとして光を見た。彼が10ヶ月違いの同い年を兄と呼ぶのは、何より陽海を信頼しているからだ。
「……プレッシャーかけんなよ」
 陽海は苦笑した。光は微かな笑みを浮かべながら、それでも覗き込むまなざしを外さない。
 諦めた。
「俺は、あいつの兄貴にはなれねーんだよ。どうあがいたって無理だから、離れることにした。そういうことだ」
 光の顔には大した驚きは浮かばなかった。やはりある程度答えを予期していたようだった。
「兄貴じゃなけりゃいけないのか? 俺達、元々そんな厳密な関係期待できるような環境じゃないんだぜ」
「判ってる。けど、そうじゃないんだ」
 もどかしさに、陽海は眉を引き絞った。
「あいつが欲しがってるものを、俺はやれない。弱みにつけ込んで手なずけるのは簡単でも、それは裏切りだろう?」
 光のまなざしがふっと緩んだ。
「そんなに堅く考え込むなよ」
 陽海はすっかり冷めてしまった紅茶を口に運んだ。
「お前とは根本的に状況が違うんだ」
 潤った口からは、諦め切った乾いた声がした。自分でもそれを空々しく感じた。
「俺はあいつの兄貴なんだよ。片方しか血がつながってなくても、いや、つながってるからこそ、か。あいつが父親や母親の愛情を求めるんなら、その身代わりになってやらなきゃならない。それが弟に対する責任だろう。俺にはそういう責任が負えそうにないから降りるんだ」
「……兄貴って本当に責任感の塊みてーな人間だよな。俺みてーないい加減な人間にゃ、頭が下がるよ。けど疲れるぜ、そんなガチガチの生き方ばっかじゃ」
 髪を掻き上げながら苦笑した後、光は口調を改めた。
「本当にそれだけか。それでいいのか?」
「踏み込んでくる眸の力から逃れようとしたのかもしれない。陽海は眉間に痛みを感じ、首を振った。
「知らん。けど、それでいい」
「……重症だな」
 呆れたように光は笑った。
「引っ越しすんのはもう少し先延ばししろよ。そのうち、今より少しは状況が改善するかもしれねーだろ?」




 前後の記憶がなくて、気がついたら紙の質感が頬に触れていた。寝ぼけた頭を持ち上げる。教室だった。電気の消えた放課後。後ろから2番目、窓際の席。グラウンドのクラブ活動の声が遠く聞こえるだけで、教室はひっそりとしていた。
「よく眠ってたね。もう4時過ぎだよ」
 前の座席に座り、柔らかなまなざしをして暁を見守っている人がいた。一瞬脳裏に思い描いた人とは、だが違う顔をしていた。
「早瀬……?」
 暁は寝ぼけた声で言った。
「4時?……なんで……?」
「何度か起こそうとしたんだけど、君全然反応しなくてさ」
「へ……?」
 そういえば、突っ伏した腕の下には開いたままのノートが挟まれている。数学の教科書とペンケースは隅に片づけられていた。多分早瀬がしたのだろう。
 どうやら記憶の途切れた6時間目の途中から、ずっと眠りこけていたらしい。昨日、ほとんど眠れなかったからだ。
「ご、ごめん、もしかして俺待ってたのか?」
 暁は慌てて身を起こした。
「謝ることなんかないよ。俺が勝手にここに座ってただけなんだから」
「クラブとか用事なかったのかよ」
「キャンセルした」
 空はもう陽が大きく傾いて、夕暮れの気配が漂っていた。教室にはそこここに濃い影がまとわりついている。薄暗い教室に、早瀬の声が響いた。
「君を独りに放ってはいけないだろう?」
 思わず息を飲んだ。真摯な声だった。痛いくらいにまっすぐなまなざしが暁を見つめていた。駄目だ   どこかで首を振っている自分がいる。
「好きなんだ、君のことが」
 少しかすれた囁くような声が、動けない暁の心の堤防に柔らかく食い込んだ。
「ずっと、初めて君を見た時から」
 気づいていた。だから、知らないふりをしていたのに。
「鳴滝……」
 早瀬の声が耳許にする。ゆっくりと空気が動いた。
 なにかが、堤防が、決壊してしまう    .
 脳裏で警鐘が鳴っている。どくん、どくんと大きな音を立てて。違う? これは心臓の音?
「早瀬、俺……」
「俺のこと、嫌い?」
 早瀬が机越しに身体を寄せ、そっと頬に触れる。金縛りにあったように動けなかった。
「俺……」
 うわごとのように繰り返すことしかできない。服の擦れる音がする。机の上の暁の右手に、早瀬の手が重なる。間近に聞こえる、彼の吐息。
 目眩に耐えられなくなって眼を閉じた時、柔らかな感触が唇を覆った。
 最初は優しく。二度目は深く。
 退こうとした手を早瀬は握り込んだ。首根に回されたもう一方の手が意外に強く暁の動きを封じ込める。それは陽海の手に似ていた。
 思い出す。背の高さも、骨格のしっかりした感じも、手の大きさも、笑った時のまなざしも、どこか陽海に似ていたのだ。だから気にかかったのだ。だから    .
 暁ははっと眼を開いた。
 首を振って逃れる暁を、早瀬が覗き込む。
「鳴滝?」
「……ごめん」
 絡みつくその視線を振り切るように立ち上がり、踵を返す。刹那にずきりと右足が痛んだ。思わず机に手を付き、しゃがみ込もうとする暁を後ろから早瀬が抱きとめた。耳許に熱い吐息がかかった。
「行かせないよ……ここまで俺を引き込んでおいて、今更逃げるなんて卑怯だ」
「早瀬……!」
 振り向いたところを、今度は正面から抱き締められた。
「君が俺のものになってくれるまで、離さない」
「や……だっ、離せよ!」
 両手首を片手で捕まれて抵抗を封じられる。振りほどくにはあまりに強い力だった。
「やめろ! 早瀬……っ」
 再び唇が封じられる。さっきとは全然違う強引な口吻けだった。唇を割られ、差し入れられる舌が逃れようとする暁の舌に絡みつく。荒い息遣い。腰を引きつける腕の力。総毛立つような感覚。唇の熱さ。涙が滲むほど執拗に口腔を犯されていくうち、次第に身体から力が抜け、抵抗する気力が萎えていった。
 諦めた声が胸底に落ちる。
 どうせ、お前を迎えてくれる奴なんか、いやしねーじゃねーか。
 力の抜けた身体を窓際の柱に押しつけられる。コンクリートの冷たさが首筋をひやりとさせる。口吻けに浮かされた頭に、学生服のボタンが外されていくのがぼんやりと判った。
「おーい、暁。まだ残ってるかぁ?」
 聞き覚えのある声が廊下の向こうからのんびり響いて、暁ははっと我に返った。早瀬も強ばった顔で動きを止めた。
「あきらー、いねーのかー?」
「あ、兄貴   ?」
 かすれた声だったが聞こえたらしい。ガラリと扉が開き、光が半身教室を覗き込むように姿を見せた。
「やーっぱここにいたか。なんか用事残ってんのか?」
 光は早瀬をまったく無視して話しかけてくる。暁は大きく首を振った。
「ならさっさと帰ろうぜ。今日は親父が帰ってくるんだとよ。自分はしょっちゅう遅れてくるくせに、こっちが遅れるとあの人機嫌悪くなるからな」
 光はすたすたと歩み寄ってくると、暁の机の物を鞄に放り込み、暁を引き寄せるように肩を抱いた。
「そんじゃ、暁の同級生さん、お先に」
 肩越しにちらりと振り返った光の眼が、その一瞬無言の迫力を迸らせたことに、暁は全く気づかなかった。




「お前も苦労性だよな」
 帰り道の残照の景色の底、暗ずんだ住宅街の辻を曲がりながら光が言った。
「兄貴もそうだし、お前等よく似てるよ。余計なものまで背負い込んじまって、しなくてもいい苦労してるんだよな。見てっといい加減、歯痒くなるくらい」
 さっきの気持ちを引きずったままで、口を開くのに苦労した。
「陽海は俺よりマシだよ……多分」
 陽海はこんな風に投げ出してしまうことで苦しんだりしない。投げ出せなくて苦しむことはあっても。
「暁、お前なんで兄貴のことだけ、兄貴って呼ばねーの?」
 意外なことを訊かれて、暁はきょとんと顔を上げた。
「兄貴も気にしてるみてーだけど、お前、生まれが4月だろう? 俺は2月生まれだから、お前とは2ヶ月しか違わないんだぜ。名前で呼ぶんなら俺だろう、普通」
「うん……そういうのは父さんから聞いた」
 暁は歩きながら石を蹴る真似をした。
「光兄貴は違うんだ。歳が近くてもちゃんと兄貴なんだ。けど、陽海を兄貴だって……兄弟だって思ったことはないような気はする。なんでだか判んねーけど」
「お袋さんや親父みたいだって思ったりするのか?」
「そんなのねーよ。陽海相手だと、つい怒鳴ったり喚いたりするけど、なんでそうなるのかよく判んねーけど、そんな風にみたことなんて一度もないよ。もっと別なんだ、陽海は。けど……」
 自然に足が止まる。光は行き過ぎもせず、同じ位置に止まってくれた。
「陽海は俺のことなんか邪魔だろ? こんな生意気な弟、いきなり現れたって鬱陶しいだけだろ? ……だから、俺が出てった方がいいのかな、兄貴」
「出てく、って家から?」
 こくり、と小さな子供のように暁は頷く。光は呆れたように暁を見、それから苦笑した。
「ホントにお前等って……どうしてこうも思考回路が似通ってんのかねぇ」
 光は立ち止まったままの暁の背を押し、先を促した。
「ちょっと昔話、していいか?」
 頷く暁を見遣って、彼は話し始めた。
「俺が鳴滝の家に入ったのは5年前なんだけどさ。親父が例のノリで、兄貴に事前に一言の説明もなしにいきなり俺を家に連れてきちまったらしくて、初っ端からすげぇ騒ぎになったんだ。兄貴はほら、あの剣幕で怒鳴りまくるし、親父はそれを笑って流すような人だろう。なんつーひでぇ所にきちまったんだろうって、一人で途方に暮れたよ。兄貴に言わせりゃ、俺はまるっきり他人事みてーな顔してマイペースにやってたように見えてたらしいけど」
 光は楽しげに続ける。
「兄貴にすりゃ、親父が浮気して出来た子が突然やってきて『同い年の弟です、よろしく』なんて言われりゃ、そりゃ怒り狂って文句の一つも言いたくなるだろうよ。俺はいつその怒りの矛先がこっちに向くかって、はらはらしながら暮らしてた。けど、結局兄貴が俺に当たったことはなかった。それどころか、俺が喘息持ちだってことを知って、ずっと前から飼ってたオウムをあっさり人に譲っちまったりしたんだ」
「喘息?」
「そ。俺、繊細だから動物一切ダメなんだよ。別に嫌いって訳じゃないんだけどな」
 暁は眼を見開く。
 だから陽海はあれほど頑なに反対したのだ。事情も知らず仔犬を拾ってきた暁の行為に。なにも暁が憎くて冷淡な態度を取った訳ではなかったのだ。
「兄貴は浮気がどうの、母親への義理立てがどうの、ってことで怒ってた訳じゃなかった。自分とおんなじ私生児を他にも作ってたってのが許せなかったんだ」
「私生児? だって陽海は……」
 驚いて光を見つめる。「お前、驚くと眼がでかくなるんだな」と光が笑った。
「あの親父は、ああ見えて結婚歴ないんだぜ。どういうポリシーなのか知らねーけど。だから、子供はいても妻って呼べる人は過去に一人もいねーの。確かに兄貴は鳴滝家の跡継ぎだけど、戸籍上は養子なんだ。引き取られたのは三つの時って言ってた。小さい時に母親と引き離されて、独りで随分辛い思いもしたらしいぜ。だからさ、ここからが俺の言いたかった本題」
 光は柔らかな視線を暁に向けた。
「兄貴は半端に血のつながった弟だとか、お前が愛情表現の裏返しに怒鳴ったり喚いたりしてくるくらいのことで、愛想尽かして出て行こうとしてるんじゃねーんだ」
「じゃあ……なんで……」
「暁と似たようなもんだよ」
「俺……?」
 話している間に家の前の通りまできていた。思わず足の止まった暁を、数歩追い越して光は振り返る。
「兄貴は、暁の兄にはなれないから、って言ってたぜ」
 暁はただ、眼を見開いた。
「お前は兄貴を兄貴として見てないんだろ? だったら、それで丸く収められるんじゃないのか?」
「……兄になれない?」
 判らずに呟いた。
「判るだろう? お前を嫌ってるんなら言わない台詞だぜ」
 暁は首を振った。
 だって、陽海は……俺を必要としていないじゃないか。




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