5.ガラスの陽溜まり


「光、いつまで寝ぼけてんだ、遅刻するぞ! 暁、忘れ物はないのか?」
 まだもそもそ食べている光の首根っこを掴んで、陽海が洗面所へ追い立てる。
「ない、ない!」
「よし、暁はOKだな。洗濯物を出したら先行け」
「陽海、あと7分だぞ。予鈴鳴っちまう」
「なにぃっ、俺等今日、英単のテストだっていうのに……おい、なにやってんだ、光、おいてくぞ!」
「また床に寝てんじゃねーの?」
「ったく、世話の焼ける奴だな」
 洗面所を覗いた陽海が、案の定床に座り込んでいる光を揺さぶる。
「起きろ、こら光。起きねぇとマジ遅刻だぞ。起きろって!」
 ひどく暖かな朝だった。それまで兄弟などいなかった暁には、くすぐったいような、朝陽が眩しくて嬉しくなるような光景だった。
 早く、早く、と笑いながら暁は二人を急かせる。早くしないと間に合わないよ。
 起きろ、起きろ………
「起きなさい、鳴滝!」
 がばっと身を起こした。窓から差し込む陽を背にして、グレーのスーツ姿の男が仁王立ちに見下ろしていた。整髪料たっぷりにオールバックにした髪。度のきつそうな眼鏡。現国の室岡だった。
「授業中に、のんびりひなたぼっこか?」
 口許に笑みを浮かべ、ゆっくりした口調で室岡が言う。だが、その細い両眼は笑っていない。
「すいません」
 夢だったのか。
 差し込む陽差しが眩しくて、暁はすぐに眼を伏せた。だが、室岡がまだ立ち去る気配はなかった。
「随分余裕だねぇ。君は転校したばかりで、まだ授業に追いついていないはずじゃなかったのか?」
「自分では追いついたつもりでいますが」
「ほう、それじゃ君は予習復習は完璧で、僕の授業は退屈で仕方がないということか」
「そんなつもりは……」
 しつこいな、と顔を上げた時だった。
「先生」
 クラスの室長、早瀬が素早く立ち上がった。
「授業を再開していただけませんか?」
 室岡は早瀬を見、神経質そうに眉をしかめた後、まだ物足りないという顔をしながら、「とにかく、授業はしっかり聞きなさい」と言い置き、教卓へ戻っていった。
 ほっとして溜息をつく。ちらりと眼を向けると、座りかけた早瀬と眼が合った。彼がにっこりと微笑む。苦笑しながら目礼を返した。またとろい奴だと思われたに違いない。
 教科書を片手に、室岡が参考書そのままの単調な授業を再開する。
 とりあえずシャープペンを持ち、教科書の文面を眼で追いながら、暁の思考はすぐに室岡の声を遠ざけていった。
    悪い……足の手当は自分でしてくれ
 なんでだよ。なんで……
 知らず身体が強ばり、右足がずきりと痛む。暁は眉間を険しくした。
 あんたには、恋人がいるんだろ?
 シャープペンを強く握りしめる。
 昨日の嵐が嘘のように、空は薄青く、穏やかな金色を降り注がせていた。




 15分の休み時間の間にクラスメイト達は次の体育の授業の移動で姿を消していた。ぼんやりとしていた暁が気がついた時には教室には誰もおらず、人のいた温もりだけが抜け殻のように漂っていた。
 そういえば誰かが声を掛けていってくれたような気がする。やっぱ俺とろいのかな。そう思いながら右足を庇って立ち上がった時、チャイムが鳴った。
「鳴滝? まだ教室にいたのか」
 振り返ると、後ろの扉から制服姿の早瀬が入ってくるところだった。
「早瀬、体育見学すんの?」
「いや、さっきまで教務に呼ばれてたんだ。室長の仕事でね」
「じゃあ、急がねーと」
「先生には遅れるって言ってあるから大丈夫。それより、まだ痛むんじゃないのか? 保健室行くならつき合うけど」
 心配そうに眉を寄せながら、机の間をぬって歩み寄る。暁は慌てて笑った。
「平気だって。元々大した怪我でもねーんだし」
「でもさっきの時間、痛そうにしてたろう」
「え?」
 早瀬は真顔だった。
「ずっと心配で見てたんだ。元気もなかったし」
 真剣なまなざしと、迫ってくるような沈黙が暁に向けられる。ちらりと怖さが過ぎり、暁は笑顔でそれを躱わそうとした。
「そりゃ、落ち込みもするって。階段3つ踏み外して捻挫なんかしてりゃ。一番上から落ちたんならまだともかくさ、格好悪すぎて人に言えたもんじゃねーよ」
「上からだったら捻挫どころじゃ済まなかったよ、きっと」
 早瀬の真剣さは揺るがない。それに気づかないふりをして、脳天気に笑いかけた。
「いやー、俺のことだからやっぱり捻挫で済んじまいそーだけど。あ、そういえばさっきはありがとな。あの現国教師、陰険そうだったから助かったぜ」
 早瀬の表情がふっと変わった。
「あの先生に目をつけられると厄介だから気をつけた方がいいよ。授業中になにか持ちかけてくるんなら庇うことができるけど、俺の目の届かないところでも言ってくるかもしれないから」
「へぇ。そんなしつこいのか」
「前にね、一度あったんだよ。教員には知られてないけど、生徒の間じゃ結構有名な話なんだ。噂が広がって、その生徒は学校を辞めざるを得なくなった」
 穏やかでない内容に、暁は眉を寄せる。だが早瀬はすぐに深刻な表情を打ち消し、柔らかく微笑んだ。
「まあ、君は大丈夫だよ。お兄さんが二人も在学してるし、お父さんが理事だから室岡先生だって無茶なことはしないだろう」
 俺も側についてるしね。そう言って、早瀬は暁を見つめる。
 また、目眩がしそうな感じだった。耐えられずに暁は視線を逸らせる。
 向こうからの助け船のように、早瀬が声を掛けた。
「そろそろ体育館に行こうか。二人してサボってたなんて言われたら、君は困るだろう?」




 授業終了のチャイムがのんびりと鳴り始める。1時間なんて、ぼんやり過ごす者にとってはあっという間だ。屋上に張り出した階段の昇降口の脇にもたれて座ったまま、陽海はチャイムを聞き流した。
 校庭の植え込みの陰は昨日の雨でさすがに濡れているだろうと思い、屋上にきたのは正解だった。昨日のことなどまるきり冗談のように、穏やかな陽差しは遮られるものもなく授業をサボった不良少年を包み込む。それでも、眼を閉じて微睡む気にはなれなかった。
 チャイムが鳴った後しばらくして、壁の向こうから階段を上る軽い足音が聞こえてきた。姿を見る前からなんとなく想像がついていた。陽海にとって、彼はそういう存在なのだ。息苦しくなった時に現れて、天使の微笑みをくれる、そういう幼なじみの少年。
「陽海   ? やっぱりここか」
 ふわりと微笑む聡一郎を、陽海は眩しく見上げた。聡一郎の笑顔は1月の陽溜まりに似ている。淡い幻のような暖かさを惜しみなく与えてくれる微笑だ。
「また、光から訊いたか?」
「だいぶ参ってるみたいだね。光も、陽海も」
「光には悪いと思ってるんだけどな」
 頼りない笑いが洩れて、上を向いたまま目頭に手を遣った。
「俺、駄目かもしれない、このままじゃ」
 笑ったまま言った。
「陽海……どうしたんだ?」
 聡一郎の驚いた声が降りてくる。
「ついにおかしくなったのかもな」
「陽海?」
 ようやくかすれた笑いを止めて眼を開けると、心配げに覗き込む聡一郎の顔がすぐ目の前にあった。眼鏡の奥の澄んだまっすぐの眸が、眩しいくらい綺麗だった。
   聡一郎、ちょっと身体貸してくれるか?」
 濃い栗色の眸がきょとんと陽海を見つめ返す。
「どういうこと?」
「こういうこと」
 聡一郎の背に腕を伸ばし、そっと引き寄せる。バランスを崩した彼の身体が胸に柔らかくもたれてきた。小さく驚いた声を上げただけで、聡一郎は抗わなかった。
「……どうしたんだよ、本当に」
 むしろ不思議そうに見つめてくる。陽海は苦笑した。
「そうだよな。ホント、どうしちまったんだろう」
 そのまま抱く手に力を込めて、彼の肩に頬を寄せる。
「お前なら、なんともないのに」
 華奢な身体が胸に心地いい。細くて柔らかくて、人を拒むことも傷つけることも知らない柔らかさだった。艶やかな髪の香りが微かに漂う。
 そうしていると聡一郎の温もりが伝わってきて、急に眠くなった。多分、張りつめていた緊張が解けたのだろう。
「こんなとこ光に見られたら、絶縁状叩きつけられそうだな」
「僕も、なんて弁解したらいいのか判らない」
 一瞬の沈黙の後、二人は同時に声をひそめて笑い出した。
 そんなはずはないのに、もう随分笑っていなかった気がする。
 頬を寄せ合い、ひとしきり笑った後で、笑みを唇に留めたまま、陽海は言った。
「俺、家を出ることにする」




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