4.魔法が解けた夜 冬には珍しい嵐が1月の空を掻き回していた。 吹き千切れる雲が秒単位で目まぐるしく形を変え、空を渡っていく。 発達した低気圧の影響、と気象予報士は解説していた。『ひまわり』の衛星写真では、台風並みに渦を巻いた白い塊が日本列島の地図を覆い隠している。『筋状の雲』というのが太平洋の方まで伸びていた。 吹き抜ける風の唸りは一日中止まず、日が暮れてからは一層激しさを増して家を軋ませた。 みぞれ混じりの雨が、時折激しく窓を叩く。 陽海と光は、一階の居間で何をするでもなくテレビを見ていた。天候のこともあって家政婦には早めに帰ってもらい、父親は例によって不在だった。暁は夕食の後、二階に上がっていた。前の学校との授業の進み具合が違っているらしく、予習復習で追いつこうとしているのだろう。ああ見えて、暁は影で努力するタイプの人間だ。 天気予報が終わって、光が「変えていいか?」と断ってリモコンのボタンを押した。ドラマが始まる時間だということに、陽海はぼんやりと気がついた。 「なあ、ここんとこ、兄貴おかしくないか?」 「ん………?」 ソファにもたれてくたりとなっていた陽海は、視線だけを光に向けた。陽海と違って華やかな顔立ちを持つ光はその実繊細で、たとえば陽海が少し頭が重いかな、と思っているような時でも、風邪だということを本人より先に見抜いたりする。暁が家にきてからというもの、荒れっぱなしの陽海にあまり寄りつかなかった光だが、今はその明るい色の眸を心配げに翳らせて陽海を見つめていた。 「なんかあったのか? 暁のこととかで」 一瞬ぎくりとした。だが何故ぎくりとしたのか自分でも分からずに、陽海は曖昧に言葉を濁して目頭に手を遣った。 「疲れているだけだ、多分」 何か、大型トラックが通る時の地響きのような音が遠くに響いた。一瞬二人で動きを止め、窓の外に耳を澄ます。 「雷、かな。さっきからゴロゴロ言ってたみたいだけど」 「近づいてきてるのかもしれない。停電にでもなったら厄介だな」 「え。ドラマ見れなくなるじゃねーか。先週、いいとこで終わってんのに」 光がそう言った刹那、すっと明かりが消えた。直後にカーテンを透かして窓の外が金色に閃き、轟音が家ごと身体を揺るがした。 陽海は思わず首を竦めた。光も飛び上がっただろう。それほどの落雷だった。野外にいれば凄い光景を目にしたに違いない。 「……雷、直撃した訳じゃないよな」 突如暗転した闇の中、眼が馴れず自分の指先も見えないことに半ば感心しながら、陽海はのんびりした声を漏らした。ふと、二階が気にかかった。暁はどうしているだろう。 「俺、聡ん家見てくる」 光が勢いよく立ち上がるのが気配で分かった。 「馬鹿、止めとけ。すぐに電気はつく」 「聡んとこ、誰もいないだろう。独りっきりで真っ暗闇にいたら寂しいじゃねーか」 隣家の聡一郎の父親は、2年前から夫人同伴でロンドンに海外赴任している。両親の誘いを断って、一人息子の聡一郎が家の留守を預かっていた。 陽海は呆れて言った。 「そんな、小学生じゃあるまいし……」 「俺が心配なんだよ。行ってくるぜ」 言うが早いか、もうドアを開ける音がする。恐ろしく夜目が利く奴だと思いながら、「懐中電灯持って行けよ」と言った時には気配は遠ざかっていた。 光と違ってまだ目が馴れない陽海はそろそろと立ち上がり、懐中電灯がしまってあるはずのサイドボードの方向に歩き出した。何とか辿り着き、懐中電灯を探り当てたところで、廊下の方からどすんと何かが落ちるような音と、声が聞こえた。 「暁!?」 ライトの前に開けた僅かな視界を頼りに、陽海は廊下へ飛び出た。 「暁、どうした!?」 丸い光の円をあちらこちらへ彷徨わす。激しく降る雨の音で家の中は飽和していた。窓の外にまた雷が疾って、白閃が眸に焼き付く。一瞬、闇から色彩が浮かび上がった。 「いてて……」 雷鳴の地響きの余韻に混じって声が聞こえた。 「どこにいる、暁」 「こっち……階段の下、だと思う」 向けた光の輪の中に、ライトの明かりに眼を細めた暁が座り込んでいた。半円を描いた階段の一番下だ。踏み外して転げ落ちたらしい。 陽海は側に屈み込んだ。見たところ外傷はなかった。手早く確認する陽海に、暁は首を振った。 「大丈夫。そんなに上から滑った訳じゃないから」 「馬鹿っ、なにが大丈夫だ!」 暁がびくんと飛び上がった。 「なっ……」 「停電している時に何だって階段なんか降りようとするんだ。俺が行くまで部屋でおとなしくしてられないのか、お前は!!」 「いいじゃねーかっ、暗いとこ嫌いなんだよ!!」 ほとんど条件反射のように、暁は怒鳴り返してきた。 「下に行けば陽海がいると思ったから、だから………!」 叫んだ声が、涙混じりにかすれて消える。何を言っているんだ、こいつは。息を飲んだ。暁は微かに震えているようだった。どうして、そんな弱みを俺に見せるんだ。 暁に手を伸ばしかけ、はっと我に返る。溜息をついて陽海は口を開いた。 「……とにかく、頭打ったりとかはしてないんだな?」 「……うん」 頷いて身じろいだ暁が小さく呻いた。 「どうした?」 床に転がるライトの明かりで、右の足首を押さえているのが分かった。 「なんでもない」 陽海は語気を強めた。 「どうした、って聞いてるんだよ」 暁は渋々といったように口を開いた。 「足……ひねったかもしれない。でも大したことないよ。そんな、痛くないし」 押さえる手をどけて右の足首に触れると、暁の身体がぴくりと震えた。かなり痛むらしい。 「痛くない訳がないだろう。腫れてるぞ」 「けど、平気だって」 心配させまいとしているのは分かっていたが、それでも陽海はついむっとして怒鳴った。 「黙ってろ!」 暁が閉口する。彼に懐中電灯を持たせると、陽海はその小柄な身体を抱き上げた。暁はぽかんと陽海を見つめて固まっている。ますます苛々して、不機嫌に言った。 「ライトを前に向けろ。見えんだろうが」 居間のソファに運ばれても、停電はまだ復旧する気配がなかった。 捻挫の様子をもう一度確認しながら、陽海がまいったな、と呟いた。まるで責められているような気がして暁は眉をしかめた。早く明かりがつけばいいのに。きっと陽海もそう思っているに違いない。気まずくて、息をするのも厄介になる。 「お前、しばらく明かりなしでも大丈夫か?」 不意に訊かれて思わず「え?」と聞き返した。 「救急箱取ってこないとだめだろう。その間独りになるけど、大丈夫か?」 「う、うん」 慌てて頷く。そのせいでまた足が痛んだが、なんとか平静を装った。 「あ……そういえば、光兄貴は? 下じゃなかったっけ?」 陽海はなにか言いかけたようだったが、一呼吸の後で言い直した。 「光は聡一郎のところだ」 「……そっか」 一瞬意外な気がしたが、すぐに陽海が様子を見に行かせたんだろうと思った。早瀬の言葉を思い出す。 知らないほど無邪気でいるのも、格好悪い。 すぐ戻ると言い置いて、陽海とライトの明かりは遠ざかりドアの向こうに消えた。 辺りは雨音だけが満ちる暗闇になった。雷雲の方はもう通り過ぎていったのか、ごろごろと唸る音がどんどん遠ざかっていく。 暁はソファにもたれたまま眼を見開いた。随分闇に馴れてたはずなのに、何も見えなかった。闇がどろりとした液体になって、重く覆い被さってくるような気がした。息苦しい。大きく何度も息を吸い込み、吐き出す。それでも心臓の音が徐々に大きくなっていく。苦しい。止まらない。まるで真っ暗な泥の中に飲み込まれていくように、もがいてももがいても逃れられない 恐怖に耐え切れなくなって、身を縮めた。右足首が悲鳴を上げた。思わず声が洩れる。 「どうした?」 ドアの開く音と共に陽海の声が聞こえた。暁は思わず立ち上がった。駆け寄ろうとして激痛にへたり込んだ。 「暁!? なにやってるんだ!」 差し伸べられたに縋り付いた。身体が震えているのが自分でも分かった。胸の鼓動が狂いそうに鳴り響いていた。 「ごめん……ごめん陽海……でも……もうしようも、なくて………」 頭の中がぐちゃぐちゃのまま、暁は謝りの言葉を繰り返した。 「なにかあったのか?」 首を振る。抱き留めてくれた腕の中で、彼のセーターをきつく握り締めた。 陽海の大きな手が背をぽんぽんと叩いた。 「大丈夫だ。闇はなにもしやしない。怖くない」 「怖いよ」 暁は陽海の胸に顔を押し当て、首を振った。その髪に、陽海の手が触れた。 「大丈夫だ。側にいてやるから。俺がずっといてやるから」 抱き締める腕に力がこもる。 暁は喉を詰まらせた。 胸の奥で暴れていたものが喉を食い破って溢れ出す。暁は眼を閉じた。それでも、溢れ出す涙と嗚咽は止められなかった。 以前、闇の中で怖い思いをしたのだろう。 暁は母親に縋り付く子供のように身を震わせて泣いていた。 その肩を抱きながら、陽海は自分が眉根を寄せていることに気づいた。胸の奥が疼いている。痛みのようなこの疼きは、何なのだろう。 判らない。 戸惑い、視線を逸らす。腕の中の暁がガラスのように脆くみえた。抱く手に力を込めれば砕けてしまいそうに。 どうしてこんなに無防備なのだろう。陽海は唇を噛みしめた。いつもそうだ。すぐ反抗的に突っかかってくるくせに、不意に寂しげな眸を見せて、まるで試すように無防備な姿をさらすのだ。 そう、まるで陽海を試しているかのように。 陽海は突然暁を突き放したい思いに駆られ、懸命にそれをこらえた。 暁は陽海の腕の中で相容れない別の生き物であるかのように身じろいだ。そのたび陽海は現実から遠ざけられていった。がんじがらめにかけられていた魔法が少しづつ解けていくように、何かが陽海の中で崩れようとしていた。 「……ごめん、俺……」 幾分落ち着いたのか、暁が顔を上げる。まだ涙の残るその顔が、陽海の眼を釘付けにした。 暁の頬に触れる。頬から顎、そして唇へ指をなぞらせる。 「はる…み………?」 暁の吐息が指先に触れる。ぼんやりと闇を透かして見える暁は、眼を見開いていた。それにももう構わずに、頬を傾けた。 「はるみ? はる………」 唇と唇が触れ合ったその瞬間、光が迸った。 サーチライトに照らされた逃亡犯のように、全身が凍り付いた。はっとして身を離す。 大音響で誰かがわめいていた。 停電が復旧して電気とテレビが点いたのだ。そのことに気づくまで、僅かな時差が必要だった。 目の前で、暁が茫然と陽海を凝視していた。目眩のような疲労感が襲い掛かり、陽海は額に手を遣り眼を閉じた。 「悪い……」 猛烈な後悔と、疲労と、痛みと、罪の意識。自分自身へのどうしようもない不信。 「足の手当は、自分でしてくれ」 立ち上がり、踵を返す。暁には頑なに視線を合わせなかった。 廊下に出て、ドアを閉める。居間の明かりがドアの隙間から途切れてようやく、陽海は深く溜息をついた。 |