3.くもり 時々 天気雨 「いい加減にしろ!」 もう何度、この台詞を投げつけられただろうか。日に一度、というより数時間に一度は怒鳴られているような気がする。 一瞬肩を竦めた後、暁はすぐに眉をつり上げ反撃に移った。 「こんな小さい仔犬、1月の寒空に捨ててこいって言うのかよ。鬼かあんたは!」 「勘違いするな! 鬼はそいつを捨てた奴で、馬鹿はそいつを無責任に連れ帰ったお前だ」 「どこが無責任なんだよ。俺はここにしばらく置いてほしいって、さっきから頼んでるじゃねぇか」 「それが人に物を頼む態度か」 「まともに取り合いもしないあんたが悪いんだよっ」 「とにかく、この家には生き物は入れられない。何度言ったら分かるんだ」 「じゃあ、あんたは生き物と違うのか。死体かよ」 陽海のこめかみがひくりと動いた。端正な作りの顔が強ばり、野性味を帯びた切れ長の眸が本物の怒気をはらむ。 「馬鹿なことをほざいている暇があったら、さっさとその犬をなんとかしろ!! 家の中に犬の毛一本持ち込んだら張り倒すからな」 陽海が踵を返して数秒後、乱暴に扉を閉める音がして玄関から洩れていた室内の明かりが途絶えた。夜の闇を照らすのは外の寒々しいものだけに変わる。 「ばっかやろうっ!!」 ぎゅっと眼を閉じ、閉ざされた扉に叩きつけるようにして怒鳴った。腕に抱いた仔犬びくりと耳を伏せる。焦げ茶の毛並みを持つ、まだ眼が開いたばかりの仔犬だった。慌てて入りすぎていた腕の力を抜き、「ごめんな」と囁きかけた。 「心配すんな。お前を見捨てたりしないからな」 仔犬が甘えて鼻を鳴らす。その頭を撫でてやって、暁は家の壁にもたれ扉の脇に座り込んだ。 「誰がそんな非道なこと、できるかよ」 今夜は意地でもここで一晩を過ごすつもりだった。風邪を引くくらいのことは覚悟の上だ。 ブルゾンのジッパーを上げ、仔犬を中へ入れる。仔犬はしばらくもそもそと居心地を確かめた後、丸くなって無邪気に寝息を立て始めた。 明日の朝までここにうずくまっていたら、陽海は少しは暁のことを認める気になるだろうか。少しは許してくれるだろうか。それとも、ただ馬鹿な奴だと呆れられるだけだろうか。 息が白くて、ほんの少し弱気になる。 庭が広くて、通りの明かりが見通せないからだろうか。闇が怖いくらいに濃いものに見える。どれだけ眼を瞠っても何も見出せない。飲まれそうになっていることに気づき、慌てて眼を逸らし首を振った。 夜気が足許から、首筋から這い寄ってくる。身体の芯まで染み込むような寒さだった。懐の仔犬の体温が唯一の温もりだった。生きた命の灯火の温かさを、その危うさと強さが、静まり返った夜の底でひしひしと伝わってきた。 「畜生……静かすぎるってんだ」 口の中で毒づいた。寒さと暗闇が、しんしんと身体に降り積もってくる。1月の夜だ。風邪で済むなら儲けものかもしれない。 ふと、静寂を破る微かな足音が家の中から近づいてきて、扉の前に止まった。カチャリとドアが開いて、レンガ畳の上に落ちた細い筋の明かりが広がる。びくりと肩を揺らし、暁は壁から身を起こした。 振り向いたそこには、帰る身支度をした家政婦の姿があった。優しげではあったけれど、期待した人の姿ではなかった。 「まあ暁さん、そんなところにいたんじゃ風邪を引きますよ。物置を使ってください。昨日掃除したばかりで綺麗だし、ストーブを入れれば暖かいですよ」 随分若作りの家政婦は、母親のような顔をして暁を催促する。暁は寒さに強ばった身体でのろのろと立ち上がった。 凍えるほどの冷気の中、白い息を吐きながら庭を横切り物置の扉を開けると、ふんわりと柔らかな暖かさが流れ出してきた。家政婦が用意していってくれたストーブの赤い灯りと、小さな電灯がぼんやりと室内を照らしている。 陽海は懐中電灯を消して足を踏み入れた。 暁は壁際の棚にもたれて毛布にくるまり、立てた膝を抱くようにして眠っていた。投げ出したもう片方の膝の上で、ぴくりと耳を立て首を上げた仔犬が、何の警戒も見せずに尻尾を振って陽海の足許に駆け寄ってくる。陽海は屈み込んでその小さな頭を撫でてやった。 「お前、そんなに愛想がいいんじゃ、番犬になれないぞ」 じゃれつく仔犬を片手で抱き上げると、暁の側へ歩み寄る。しっかりした造りの物置らしく、隙間風もないようだ。このくらいの暖かさなら風邪を引くこともないだろう。 肩からずり落ちていた毛布を掛け直そうと手を伸ばす。その時、何かの合図のように、暁の身体がかしいでもたれ掛かってきた。 「お、おい………」 慌てて肩を掴み止め、押し戻す。だが、一度くにゃりと力の抜けた身体は元に戻ろうとしない。 中途半端に抱き留めたまま、陽海は立ち往生してしまった。 そうしている間に、腕からずり落ちた仔犬が片膝の上に乗ってきて、あくびをする。 「こら、寝るなっ」 小声の叱咤にもちらりと片眼を開いただけで、仔犬は顎を突き出すようにして身を伏せ、眼を閉じてしまった。 どうにも動けず、眉をしかめて陽海は途方に暮れる。その耳に小さく呟きが聞こえた。 「かあさん………」 はっと暁を見つめる。ぼんやりとした暗がりの中で眼を閉じた暁は、一層幼く見えた。あからさまなほど無防備で、肩の厚みもなく、細く壊れそうなほど華奢な手足に力はない。 子供だ。子供なんだ 陽海は溜息をつくと、諦めて座り直し、暁の頭を膝にもたせかけた。陽海が動いたお陰でまた膝から転げ落ちた仔犬が、寝ぼけた顔で寝場所を占領した暁との隙間に上がり込んで丸くなる。 暁の肩に毛布を掛けてやって、陽海は棚に頭を預けた。 膝の上で眠る暁の寝息を、ほのかに感じながら。 眼が覚めると、なんだか温かい場所にいた。 暁はまだ微睡んでいたいようなふらふらした頭で、ぼんやりと上を見上げた。 何故、陽海がいるのだろう、と思った。 陽海の寝顔が目の前にある。それに続いて綺麗な首筋、広い肩、腕と胸……… 「え………!?」 順々に視線を降ろしていった暁は、自分が彼の膝の上で眠っていたことに気づいてぎょっとした。 「え……ちょっ……なん、で………!?」 眠気の霧が一度に頭から吹っ飛ぶ。おろおろしながら起きあがった暁は、眠る陽海の頬をぴたぴたと叩いた。 「陽海、陽海、なあ、陽海ってば」 「ん……」 睫が細かく震えて、切れ長の眸がゆっくりと開かれる。綺麗な宝石を間近に見るような気がして、何故だかどきどきした。彼はおぼろげなまなざしを暁に向け、すぐに焦点を合わせた。 「暁……起きたか」 「なあ、なんで陽海がいんの? ここどこ? 俺、なんかした?」 「落ち着けよ」 陽海は気怠げに腕を持ち上げ、暁の頭をくしゃくしゃと撫でた。すぐ側で見る陽海の眸は、薙いだ湖水のように深く穏やかな色をしていた。どぎまぎしながらそれを見ているうちに、不意に思い出した。 「そうだ、犬……」 「あっちでうろうろしてる。ネズミでもいるんじゃないのか」 振り返ると、小さな尻尾を振り立てて前屈みになった仔犬が、棚の後ろを狙っていた。 「あいつの貰い先、決まったぞ」 「え?」 驚いて振り返った。陽海は眼を合わさず、仔犬を見遣りながら淡々と言った。 「友達んとこの祖父さんが独り暮らしなんだそうだ。話し相手にちょうどいいから飼いたいとさ。人のいい爺さんだって話だから、かわいがってもらえるだろう」 「陽海……」 陽海は急に不機嫌そうな表情になり、ぶっきらぼうに言った。 「いい加減離れろよ。お前と一晩過ごしたら疲れた」 反射的に口が開いた。 「な、なんだよ。人がせっかく礼の一つも言おうかって気になったのに」 「俺はいつまでもその犬がいられたんじゃ困るから、貰い手を探しただけだ。礼を言われるようなことはしてねーよ」 胸に冷たいものが落ちた。 「じゃあなんで……」 「……なんだよ」 暁は眼を伏せた。 「なんでもない」 沈黙が訪れた。 ネズミが遊んでくれなくなったのか、仔犬が次の遊び相手を求めて軽やかに駆けてくる。それを潮に暁は立ち上がった。 離れていく温もりが、少し寂しかった。 |