2.第三の弟
 
 
 冬の穏やかな陽差しが黒い学生服の上に降り積もる。
 枯れた芝生と土の匂いを乾いた空気に感じながら、陽海はとろとろと微睡みの淵に落ちかけていた。
 風もない冬の陽だまりは、昼寝には絶好の温もりを与えてくれる。授業中の鬱憤を晴らすかのような休み時間の喧噪も、遠い潮騒のように途切れ途切れに届くだけだ。
 その微睡みを邪魔するように、枯れ葉を踏む音が近づいてきた。微かな軽い足音。そのまま無視しようとしたもくろみは、あっさりと破られた。
「陽海」
 よく知った声が名を呼び、仕方なく眼を開ける。眼鏡をかけた見るからに温厚そうな少年が、分厚い本を片手に腰を屈め、陽海を覗き込んでいた。
「……なんだよ、よくここが分かったな」
 聡一郎は、ふわりと周りの空気が揺らぐような微笑みを浮かべて、あくびをする陽海の隣に腰を下ろした。
「陽海がいなくなった後に、背中に枯れ草が引っかかってたことがあったからね。でもここを覗いていなかったら捜すのは諦めるつもりだった」
 膝の上に置いた本は半分くらいのところに栞がはさまっている。確か、昨日図書館で借りていた本のはずだ。陽海は呆れて溜息をついた。
「相変わらず本の虫ってやつか。昨日また夜更かししたんだろう。いい加減にしとけよ」
「気をつけようとは思ってるんだけど、こればっかりはね。読み始めると見境なくなるんだよな」
 ばつの悪そうに笑うその顔には今は何の兆候も現れてはいないが、この男は何の前触れもなく倒れるのだ。陽海は過去何度もその介護にあたったことがある。
「で、何の用なんだ?」
「光に頼まれたんだよ」
 それを聞いた途端に、陽海の顔は仏頂面に変化した。
「……暁のことか」
「あの険悪なムードの中にいると、こっちまで不機嫌になって仕方ないから、カウンセリングでもしてなんとか宥めてくれ、って」
 聡一郎は濡れたような濃い栗色の髪をしている。薄い陽差しを浴びて、それが艶やかな光を留めていた。昔はこんな顔をしたかな。ぽつんと思った。どこか眩しいような、幸せなことを話すような。
「あいつでも、周りの雰囲気に流されるなんてことがあるのか」
 そう言うと、聡一郎はくすくすと笑った。
「陽海が四六時中怒ってばっかりいるんじゃ、誰だって情緒不安定にもなるよ。それに、光はあれで意外と繊細なとこがあるからね」
 陽海が短気で怒りの剣幕が人より激しいことは確かに認める。だが、原因はこちら側だけにあるのではない。
「しっかりしたかわいい子だと思ったけど、何がそんなに気になるんだ?」
 陽海は聡一郎を睨んだ。
「そりゃ、お前の前じゃロクに喋りもしなかったからな。あの、いちいち突っかかってくる口調を聞いてみろよ。小学生のガキよりタチ悪ぃぜ。しかも俺だけなんだぜ。親父の前じゃ猫かぶってるし、光とも普通に話すくせに、なんでか俺だけに八つ当たりしてきやがるんだ、あいつ」
「八つ当たり?」
「母親が再婚するんだよ。俺等の親父と別れた後、暁の母親は別の奴と所帯持ったんだけどな、その男とも別れて1年ほどになるって言ってたか。再婚の相手は初婚で、コブ付きじゃ都合が悪いってことで、あいつの他には兄弟もいないし、そこそこの年齢だからってこっちに引き取る話がきたんだ」
 聡一郎はこういった話を他に漏らす男ではない。だが、暁の内情を話したことが、微かに胸の奥をちくりと刺した。
 まったく、血を引いていながら、どうして親と子ではこうも良心に量の差があるのだろうか。
 聡一郎は柔らかいまなざしで陽海を見遣った。
「そう気づいているんなら、もう少しだけおおらかに見守ってやったら? 暁君はきっと陽海に甘えてるんだよ」
「甘える?」
 意外な言葉を聞かされて、思わず眼を瞠る。聡一郎は頷いた。
「本当は両親に甘えたいんだろうけどね。陽海のお父さんはほとんど家にいない人だし。それに優しい分だけ、逆に距離を感じてしまっているんじゃないのかな」
 陽海は唸った。
「……そんなに甘い奴か?」
「なに? お父さん、それとも暁君のこと?」
「両方」
 聡一郎はふわりと微笑んだ。天使のような、と形容するのが一番相応しいのだろうか。見ている人まで微笑みたくなってしまう、魔法の笑顔だ。
「それは、僕より陽海の方が知ってるだろう?」
 陽海は首の後ろで腕を組み、水彩画のような空を見上げた。薄く水色を いた天球が、体育館の屋根と木立の間に広がっている。
「さあな」
 生返事のような声を返して吸い込んだ息を吐き出すと、予鈴のチャイムが鳴り始めた。




    いい加減にしろっ。幼稚園児みてぇにいちいち突っかかってくんな!
 そもそも、どうしてこんな暴言を浴びせられるようになったのか。
 午後の授業に間に合うように着替える為体育館へ急ぎながら、暁は昨夜の兄とのやり取りを思い返し、気の強そうな眉をひそめて考え込んでいた。
    この家じゃ、歩くのもなんか喋るのにもあんたの許可がいるのかよ。
    誰がそんなことを言った。
    あんた、俺の監視役? それともあんたがこの家仕切ってんの? すっげぇウザいんだけど。
    いい加減にしろ!!
 初対面の時は、特に問題もなく顔を合わせたはずなのに。
 見上げるほどの長身。無駄なところのない、がっしりとした体躯。短気そうな眉。切れ長の、心の動きが掴めない双眸。
    陽海だ。こっちが光。俺達はお前とは学年が一年上になる。よろしくな。
 いや。
 暁は思わず足を止めた。
 初めて会ったあの時から陽海は高圧的だった。低い不機嫌そうな声で、20センチは上から暁を見下ろしていた。
 そう思った途端、腹の底からむらむらと怒りが込み上げてきた。止めていた足を怒りにまかせて踏み出す。
 どうせ厄介者がきたとでも思っているのだろう。そうだろう。半分しか血のつながっていない弟なんて、全くつながっていないよりよほど厄介な存在のはずだ。だからといって抑圧される覚えはない。被害者なのはこっちも同じなのだ。好きで居候している訳じゃない、と暁は眉を跳ね上げる。
 きっとだから反発してしまうのだ。わざわざ文句を言うようなことではないと分かってはいても。こっちが悪い訳じゃない。悪いのは、あのデリカシーのない図体のでかい奴だ。
   たき  鳴滝っ!」
 不意に肩を掴まれた。勢いにまかせて前進していた身体ががくんと揺れ、驚いて我に返った。
「なっ……!?」
 振り返ると、見覚えのある顔が笑いかけた。
「何回呼んでも聞こえないみたいだったからさ。なに徒競走みたいに必死で歩いてんの?」
「いや……別に………」
「鳴滝って、意外とぼんやりしたところがあるんだな」
 クラスの室長、早瀬弘彰はにっこりと微笑んだ。身長は180センチ近くあるだろうか。身長に少なからずコンプレックスを抱いている暁とは対照的に、すらりと長身の男だった。転校してまだ日も浅い暁に、何かと世話を焼いてくれる。マニュアル通りの模範的な室長だ。
「わ、悪かったな。抜けてて」
 並んでいると、見上げる格好になる。最近、よくある構図だな、とふと思った。
「鳴滝って球技は好きな方?」
 どちらともなく歩き出しながら、早瀬が話しかけてくる。
「まあまあ、いける方じゃないかと思うけど」
「サッカーはどうかな? 俺、サッカー部の副部長なんだ」
「俺みたいなのが、あんたみたいなのとボール取り合ったって、潰されるだろ」
「そうかな。素質あると思うけど」
「冗談……あれ?」
 体育館から外へ出る鉄扉が開いていて、そこから見える緑の植え込みの中に、ちらりと見知った姿がかすめた気がした。立ち止まった暁を怪訝そうに振り返った早瀬は、その視線を追って「ああ」と頷いた。
「鳴滝のお兄さんと須賀先輩か。相変わらず仲がいいみたいだね」
 隣に立った早瀬を振り返った。
「陽海のこと、知ってんの?」
 早瀬は当然のことのように頷いた。
「そりゃあ、二人とも有名人だからね。鳴滝先輩はお父さんが学園理事でもあるし。なんて言っても、美形同士の組み合わせだから」
「は………?」
 言っていることの意味が飲み込めず、暁はきょとんとした。早瀬が少し驚いた表情になる。
「知らないのか? 鳴滝先輩と須賀先輩って、小等部の頃からの公認の仲なんだよ」
「公認の仲……って。え? それって……だって、男同士だろ………!?」
 しどろもどろになりながら、早瀬と外庭へ交互に眼を遣った。
「ここ男子校だからね。そんなに珍しいことでもないんだよ」
「そ、そんなもんか? 俺、ずっと共学だったからよく分からねぇけど……」
 もう一度外庭を振り返ってみる。植え込みに半分隠れた陽海の広い背中と、もう一つの背中が並んでいた。一度紹介された隣の住人、須賀聡一郎。陽海の幼なじみだと言って握手の手を差し出したその時の顔は、ふわふわした天使のような微笑みだった。
「別に不自然なことじゃないと思うよ、俺は」
 早瀬の声は背に当たり、そのまま耳を通り過ぎていった。二人の姿から眼を逸らせないまま、暁は考えていた。どこか茫然としていた。
 恋人かぁ。
 ショックで頭がくらくらしていた。
 予鈴が頭の上で鳴り始めていた。




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