10.Be Free 「……昔、小学校の1年の時、悪戯した罰で先生に物置に閉じ込められたことがあったんだ」 1月の早い日暮れが道端に濃く影を落としている。暁は眼を伏せ、俯き加減に歩いていた。立ち止まってしまいそうなほど遅い歩調なのに、陽海はずっと暁の隣にいた。 「先生がそのこと忘れてて、夕方になっても俺が家に帰らないから大騒ぎになって、やっと見つかった時、俺、物置の中で気絶してたんだって。……なんにも憶えてないんだ。ものすごく怖かったことしか」 暁は身震いをこらえて眼を閉じた。 「それから俺、暗いとこ駄目なんだ。パニックになって息が出来なくなる」 「今は、もう大丈夫か?」 聞いたことのないような陽海の、優しい声。頷いて、暁は思い切って顔を上げた。足を止めた暁を訝しげに陽海が振り返る。 「俺、鳴滝の家にいられないよな」 平静に口を開いたつもりだったのに、声は震えていた。 「何故だ?」 「俺は新堂の父さんの子供なんだって……鳴滝の父さんの血は引いてないんだ。だから俺、陽海と兄弟なんかじゃないんだ。全然違う世界の、赤の他人なんだ」 「お前何言って……暁……?」 訳が分からない顔の陽海の掌が肩に触れた時、喉の奥でつかえていたものが一度に溢れ出した。みっともなく泣きたくなどないのに、大粒の涙がぽろぽろと頬を転がり落ちる。 「……暁、どうしたってんだ、一体。泣き止めよ」 陽海の珍しく動揺した声が聞こえる。それでも涙は止まらず、暁は小さくしゃくり上げながら言った。 「陽海と、別れるの、なんて……嫌だ……嫌なのに………」 「泣くな!」 いきなり怒鳴られて、暁はびくりとして顔を上げた。すぐ側に陽海が見つめていた。その視線が怒ったように、ふい、と逸れる。 「ほら、拭け」 また怒らせてしまったらしい。ポケットから引っ張り出されたハンカチを受け取って、暁は呟いた。 「……ごめん」 「俺の判らんことで勝手に泣くな。さっきから何言ってんだ、お前は」 声が苛々と尖っている。 「だから……俺は鳴滝の家の子供じゃないって……室岡が調べて、それで……」 「室岡?」 声が一層険を帯びた。 「あの男に何か言われたのか」 また涙が勝手に滲んでくる。ぼやける視界を拳で拭いながら、声が震えないようこらえる。 「鳴滝の家にいたかったら、言うことを聞けって……俺、騙してたんじゃねぇよ。知らなかった。母さんだって、きっと、悪気が会った訳じゃな……」 「何言ってんだ、この馬鹿!!」 ものすごい怒鳴り声に、暁は飛び上がった。 「そんな作り話信じて、あんな男の言いなりになったのか、お前は!!」 大きな手が乱暴に暁の両肩を掴む。 「あの親父が調べもせずにお前を鳴滝の籍に入れる訳がないだろうが。お前は正真正銘鳴滝一臣の息子だ。疑うならDNA鑑定の結果でも何でも見せてやる!」 「え………」 一瞬、言われたことの意味が飲み込めずに、ぽかんと陽海を見上げた。見入ってしまいそうなほど綺麗な切れ長の眸に、怒りのような激しい感情が映っていた。それはひどく真剣なまなざしだった。 「くだらないことで心配させやがって……」 肩に置かれていた手が頬へと移る。大きな掌が暁の両頬を包み込む。暁は動けなくなった。綺麗な双眸がゆっくりと近づく。まっすぐに見つめるその眸に映る、暁の姿が見えるくらいに。 「なんでいつも、お前に振り回されるんだ。なんでこんなに……」 低く呟く吐息が、唇に触れる。 どくんどくんと早鳴っていく胸の鼓動が痛くて怖くて、暁は身を竦めた。 「陽海……?」 陽海が夢から覚めたようにはっとする。触れあいそうなほど近くにあった顔を引き離し、暁を置いて踵を返す。 「陽海?」 「ついてくるな!」 暁は立ち竦んだ。振り向いた陽海は、苦い物でも口にしたかのように眉を寄せた。 「俺の前でそんな眼するな。俺はお前の兄貴にはなれない。お袋さんや親父の代わりもだ。俺は室岡の変態野郎と同じだ。弱みを見せれば何されるか判らんぞ。泣かされたくなかったら、二度と俺に近づくな」 投げつけるように言い捨てて、足早に歩き出すその背を、暁は茫然と見つめた。暁を拒絶する冷たい後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。あの角を曲がれば見えなくなる。 「……なんだよ、それ」 暁はぽつんと呟いた。 「なに、勝手なこと、言ってんだよ……」 呪文にかけられたように、足がアスファルトにへばりついて動かない。 あの時もそうだった。まっすぐに伸ばした背筋に長い髪を柔らかくまとめた後ろ姿。淡い色のスーツを着て、ハイヒールを履いて、柔らかな花束のような後ろ姿だった。 本当は置いて行かないでほしかった。だけどどうしても追いかけられなかった。母さんには幸せになってほしかったから。 喉が焼けるように痛む。強烈に、飢えるように、想いが迸る。 陽海を失くすのは嫌だ。絶対に嫌だ。 早く。 暁はもがくように重い足を持ち上げる。 早くしないと間に合わないよ 呪縛を振りほどき、倒れるように一歩を踏み出す。右足がずきりと痛んだが、構わず駆け出した。 夕暮れの重い空気をかきわける。まるで悪い夢を見ているように、全てがスローモーションで思うように前に進めない。早く行かなければ、陽海はあの角を曲がって行ってしまう。 暁は声を振り絞った。 「陽海 路地を曲がりかけた陽海が驚いて振り返る。その胸に飛び込んだ。 「暁……!?」 広い背中に腕を回して抱き締める。もう二度と離さないよう、強く。 「離れろ、暁!」 「嫌だ!」 胸に顔を押し当てて、暁は叫んだ。 「陽海にだったら何されてもいい! 陽海は他の奴と違うから、陽海だったら嫌じゃないから、だから、だからどこにも行くなよ!」 痛いほど肩を掴まれ、強引に引きはがされる。思わず涙が溢れそうになった時、熱い温もりが唇に降ってきた。 ふたつの温もりが溶け合って、喉の痛みや目頭の熱さがすぅっと引いていく。唇が離れると同時に抱き締められた。 すっぽりと包まれた温もりの中でかすれた声が耳許に囁いた。 「馬鹿だ……お前は本当に」 暁は温もりに頬を埋め、眼を閉じる。 「馬鹿でいいよ」 1月の澄んだ大気はいつの間にか紅に染まり、密やかに夜を迎えようとしていた。 「お疲れさま」 屋上に室岡を縛り付けておいて警察に匿名の通報を入れ、一仕事終えて溜息をついた光が顔を上げると、その先の玄関に聡一郎が待っていた。鞄を4つも抱えている。 「さっすが聡は気が利くなぁ。暁の鞄も持ってきてくれたのか」 抱えた物の一つを光に渡して聡一郎が問いかける。 「暁君は大丈夫だった?」 「ああ。かなりヤバいタイミングだったみたいだけどな」 残りの鞄も聡一郎から取り上げて、光は上履きを履き替え外に出る。雲一つない夕焼け空を首が痛くなるくらいに見上げた。 「……ちゃんとやってんのかねぇ、あの二人」 「大丈夫だよ、きっと」 隣に立った聡一郎が、同じように空を見上げる。「綺麗だね」と言ったその横顔がひどく綺麗に思えて、光は空いている方の腕で、その肩を抱き寄せた。 「光?」 聡一郎がすくうようにまなざしを上げる。 「ったく。今度だけだぞ、こういうの」 「何が?」 光は思い切り拗ねた顔をしてみせた。 「聡は5年前から俺のもんなんだからな。判ってる? 聡」 きょとんとした聡一郎は、眼を細め腕の中でくすくすと笑った。 「光は心配性だな」 「当たり前だろ。仲良すぎるんだよ、兄貴と聡は。だから小等部からの公認の付き合いだとか、今でも噂されるんじゃねーか」 「陽海は大事な幼馴染みだけど、それと光とはやっぱり違うよ」 ささやかな睨み合いに負けたのは光の方だった。柔らかな笑みを浮かべる聡一郎の前で、光は拗ねた表情を崩し、降参して笑い出した。 「しょうがねぇなぁ。聡には勝てねぇや。けど、俺と兄貴以外は……あ、暁もか。それ以外の奴には優しくする必要なんてないんだからな。これ以上、嫉妬の対象増やすなよ」 「はいはい」 聡一郎は苦笑している。 「あんたは俺の、特別なんだから」 光のまなざしを受けて、彼はどこか眩しげに眼を細めた。 「知ってるよ……」 光が彼を信じていることも、彼の心の在処を光が確かに知っていることも。聡一郎は全てを受け入れて、包み込む。だから光は安心出来るのだ。 柔らかく唇が重なる。 目眩にも似た柔らかな感覚に身をゆだねながら、光は聡一郎を抱き締めた。 |