一日一東方
二〇一〇年 八月三日
(儚月抄・レイセン)
『脱兎』
走る。走る。
兎がふたり、刀に追われて竹林を駆ける。
一度捕まれば斬って捨てられる恐怖を背に、振り向くこともせずただただひた走り抜ける。根っこや石ころに躓いたのも一度や二度ではない、だが減速すれば待っているのは容赦のない折檻だ。本人は説教と表現しているが、兎にすれば抗いようのない教育的指導というほかない。
そういう方なのだ。綿月依姫というひとは。
「ちくしょー! てゐはどこ行ったー!」
「も、もうだめえ……」
「おいこら、倒れたら死ぬぞ! いやもう逃げたところで死ぬけど。捕まるけど。ていうか永遠亭に滞在してる以上はどう足掻いてもそこで鉢合わせるわけで……てゐはどこ行ったあぁー!」
わりと余裕のある方が長髪ブレザー兎の鈴仙であり、全く余裕のない方がブレザー兎のレイセンである。鈴仙はレイセンの腕を引っ掴み、強引に足を前に進ませる。こうでもしなければ共倒れだ、一体何のために一緒に逃げてきたのか。
別に地上でまで依姫様の訓練を受けることもないんじゃないかなあと思ったからじゃないのか。
でも逃げると依姫様に百倍返しされるから素直に従っておこうかなあと一度は思い、でもやっぱり基礎体力作りのマラソンに乗じてちょっと竹林から抜け出て休むくらいは許されるんじゃないかなあ、とふたりが持ち前の現実逃避スキルをいかんなく発揮しかけたところで。
てゐに告発された。
獅子身中の虫とはよくいったものである。
「わ、わたしのことはいいから……せめて、あなただけでも……」
「バカ! 私だけ逃げおおせても意味ないのよ! ちゃんと、あなたと一緒じゃなきゃ、依姫様から逃げる意味ないんだから!」
具体的には、被るべき罪が分散されるから。
逃げ切る前に受ける罰のことを考慮してしまうのは、ただ単に彼女が小心者であるからかもしれない。
ともあれ、鈴仙の言葉を受けて、レイセンもひときわ強く地面を踏み締めた。
「そう、ですね。私たちが一緒じゃないと、意味がないもの……!」
「よし! じゃあ行くよ!」
「はい!」
一時の束縛から逃れるため、脱兎に相応しき小さな逃走を。
依姫にすれば、浅ましい願望を抱えたふたりの兎を見付けだすことなど容易であったが、彼女たちの後ろから圧力を与えつつ追跡するだけで、一向に捕まえようとはしなかった。
理由はいくつかあり、その中で最も大きなものは、依姫のお腹が空いたためである。お腹を擦って、腹の音が鳴らないよう懸命に堪える。
「さて……あの子たち、ごはんまでに帰ってくるかしら」
付いてもいない露を払い、刀を鞘に収め、パチンと小気味よい音を確かめてから踵を返す。
竹林には風になびいた葉と枝の擦り合う音だけが響き、依姫の軽い足音も、瞬く間に竹林の静寂に溶けていった。
竹林の壁を抜けてしまうと、地面がいやに平たく見えた。
駆け抜けた勢いのまま十歩くらい進んで、周りに緑の柱がないのを理解した彼女たちがいちばん最初に行ったことは、地面にへたりこんで思い切り酸素を取り込むことだった。
「つ……」
「つかれた……」
迷いの竹林だけあって、延々と走らされ続けていた気がする。一生分とは言わないが、向こう半年分は走った実感がある。心臓の鼓動は身体の内側から兎の肉体を叩き続け、突拍子もなく動き疲れて急停止しそうなほど。酸素を求める喉は酷く乾き、水を飲まなければ近いうちに罅割れて使いものにならなくなるのは明白だった。
けれど、もし身体のどこかを動かせば、きっと攣る。絶対攣る。太ももや背中が攣った日には目も当てられない。兎には苦悶の後に死が待っている。
だから、ひとまず頭と身体が問題なく動く状態に戻るまで、土に手を付いたまま地獄の苦しみに耐えなければならなかった。
「……はッ、ぁ……ん」
「ぜぇ、んぎゅ……ぅ」
辛い。苦しい。
精神よりも肉体が悲鳴を上げている。
こんなことなら、命じられるままマラソンを続けていた方がマシだったとさえ思う。少なくとも、追われる恐怖に身を投じることもなかったし、すぐ水を飲むこともできた。下手に休めば説教が飛んでくるけれど、それが即死の一撃というわけでもない。明確な終着点も存在し、永遠亭に戻ればおいしいごはんが待っている。てゐがやらかしてなければ。
いつもこうだ。
おっかなびっくり、大きな行動をしてみては後悔するだけの小心者であるくせに、似たようなことばかり繰り返す。
成長がない。
依姫にそう断じられるのも、無理はなかった。
「はあ……」
ようやく、腕を投げ出す程度には回復した鈴仙は、まず最初に溜息を吐いた。
同じように息を吐き出しかけたレイセンは、少し拍子抜けしたような顔で鈴仙を見た。けれど、特に何かを言うことはなかった。
「……何か、言いたかったんじゃないの」
「あ、いえ、別に」
「やっぱり逃げなきゃよかったんじゃないかなあ、とか」
「ぎくっ」
図星であった。とてもわかりやすい。
同じ名前を冠するだけあって、思考も行動原理も似ているのだろうか。
流石に、全く同じだと認めてしまうのは悲しいものがあるけれど。
「でも、逃げ切れましたし」
「……いやあ、これは逃げ切れたうちに入らないでしょう。多分、あのひとが本気出してたら、一分以内にはバラバラ死体になって尻尾とかがアクセサリとして小道具屋に納品されてたわよ」
「……ぶるっ」
レイセンの想像が手に取るようにわかる。依姫の恐ろしさは、彼女のしごきを味わった鈴仙もよく知るところである。でも、だからこそ、依姫が自分たちを逃がした理由が判然としない。頑固一徹、ガチガチに頭が硬くてどうしようもないというレベルではないにしろ、基本的には自分にも他人にも厳しい方だ。彼女自身が決めたルールを、気紛れとはいえ簡単に破るとは考えにくい。
ならば、この小さな逃亡劇は予定調和のうちだったのか。
鈴仙とレイセンが、訓練に嫌気が差して竹林から逃げ出し、こうして他愛もない雑談に興じるところまで。
全部、仕組まれたものだとでもいうのだろうか。
「……まさか、ね」
鈴仙はその仮定を無理やり笑い飛ばした。
レイセンは、いまいちよくわからないといったふうに小首を傾げている。
「……あー、戻りにくくなったなあ……」
お腹を擦り、かすかに感じられるようになった空腹を誤魔化す。レイセンはどうかと隣を見れば、彼女はどこか神妙な面持ちで俯いている。やはりまだ疲れているのか、下手に話しかけるのは控えようかな、と鈴仙が口を噤もうとして。
「でも、いい機会だと思います。一度、あなたとはゆっくり話したいと思っていたから」
「……え、私と?」
「はい。鈴仙と」
正確に、私の名前を呼んで、レイセンは穏やかな微笑みを作る。
「鈴仙……優曇華院・イナバ。だったかな、間違ってたらごめんなさい」
「あ、いや、うん。大体合ってる」
本当は全部合っているのだが、つい大雑把に答えてしまった。少なからず動揺があるようだ。あまり、積極的に会話を求められたことがなかった。嫌われ者だという自覚はあった。苦手とする者は多くても、好きでいてくれる者は少ないと思っていた。
それがたとえ鈴仙の思い込みでしかなくても、その壁は彼女に近付きたいと思っている者を自動的に遠ざける。
「依姫様から聞いたの。レイセンって名前は、むかし依姫様のところにいた兎の名前だって」
「……うん」
「だから、会ってみたいなと思って。月から地上に逃げた鈴仙が、今はどういうふうに過ごしているのかなって」
「……え、と。ごめん、何だか、期待に添えられなくて申し訳ない、ていうか」
急に、今の自分が情けなくなった。何に謝っているのかもわからなかった。でも、無性に頭を下げたくなった。昔、依姫に仕えていたレイセンという名の兎が、別に誇れるものでもなんでもない、卑怯者で小心者の兎でしかないことが、恥ずかしくて仕方なかった。
けれど、泣き出しそうになってしまった鈴仙を一瞥して、レイセンは自嘲気味に笑う。
「そんなことないですよ。私だって、餅つきが嫌で月から逃げて、依姫様に拾われました。似た者同士――ていう言い方だと、ちょっと失礼ですかね。あの、言葉足らずでごめんなさい」
「あ! ううん、いや全然、そんなことはなくて、うん。いいと思う」
お互いに、酷く狼狽している。深呼吸する時間が必要だった。ふたりとも、それを自覚して同じようなタイミングで大きく息を吸い、震えるように息を吐く。
その呼吸があまりにも似通っていたので、ふたりは顔を見合わせてから、可笑しくなって噴き出した。
……ああ。
何のことはない。
お互いに不器用で、不格好で、それでも何とかしようともがいて、それなりに苦しんでやってきている。鈴仙はそれを知っている。レイセンもそれを知っている。
地上の兎も月の兎も、お互いに自分が立つ場所を知っている。
それだけでいい。
「……よかった」
「ん、どのへんが」
「鈴仙が、幸せそうで」
――本当によかった。
ひとしきり笑い終えたあと、レイセンは鈴仙の眼を見て、真っすぐな言葉を投げた。
鈴仙は正直、どんな表情を返していいものか悩んで、悩んで、結局は曖昧に笑った後に水筒に口を付けた。水がおいしい。レイセンも苦笑して、水筒の蓋を開けていた。
地上の低いところから、月の姿が見て取れる。
羽衣を着て地上に降りた鈴仙には、確かに月への未練があった。もしかしたら、帰りたかったのかもしれない。当時は思わなかったが、今なら純粋にそう思える。
今も、月に対する憧憬は消えない。自分は月から生まれたものだから、時折無性に月の匂いを嗅ぎたいと思うことがある。
でも、あの月にはもう、新しいレイセンがいる。
鈴仙・優曇華院・イナバは、この地上を生きている。
だから、何とかやっていける。
そう思えた。
「……レイセン」
「はい」
「帰ろっか」
「そうですね」
ふたりとも、ゆっくりと立ち上がる。説教の恐怖はあるが、身体の疲れはいくぶんか取れたせいで、若干の余裕が生まれている。ただ、それもいつまで持つか怪しいものだ。
でも、家に帰るまでが脱走だから、今のうちは逃げおおせた安らぎに浸って、ゆっくりと話をしてもいいじゃないか。
「あー、おなかすいたー」
「私も……あぁ、くらくらする」
「いま倒れちゃだめだってば。運ぶの大変なんだから」
「見た目、鈴仙の方が重そう……」
「あんだとー」
小突き合い、笑い合いながら、竹林に帰る。
何度も何度も逃げ出した兎が、帰るべき場所に帰っていく。
竹林は、ふたりの兎の足音をあっという間に掻き消して、元通りの静寂に帰した。
門番 綿月依姫 綿月豊姫
SS
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2010年8月3日 藤村流 |
東方project二次創作小説 |