一日一東方

二〇〇八年 一〇月二十三日
(地霊殿・古明地さとり)

 


『言語領域』

 

 

 地霊殿には、数多くの動物が屯している。
 理由を知らない者から見れば、無人の猫屋敷であると勘違いされることも多いが、実際には立派な管理者が存在する。今はその管理者さえ、まともに地霊殿を管理してはいないのだが、それはまた別の話。
 古明地さとりは、名目上、地霊殿の管理者にあたる。
 滅多に叩かれることのない扉を見つめ、椅子に座り、膝の上で丸まっている猫を撫でている。まぶたを閉じ、何かを思うこともなく、何かを成すことも少ない。平穏な日々だ。何処かで猫が鳴いている、と思ったら、膝の上でまどろんでいる猫の呻きだった。膝に加わる黒猫の重みは、軽すぎず、重すぎず、此処にあるということを純粋に感じられる、命の温もりを帯びていた。
 ただ、その命を撫でる。
「平和ね」
 独り言である。
 足元に擦り寄る猫が鳴き、扉の前に座っている猫が顔を洗う。欠伸をする猫、首を掻く猫、眠る猫。鴉や犬の姿もちらほらと見える。火焔猫、地獄鴉の類に属する者もいるが、力の少ない者ならば人の言葉を喋らず、人の形にもなりはしない。見た目も、心の中も、地上の猫や鴉と大差ない。
 けれど、妖の血を引いている以上、その伸びしろは非常に大きい。
 細々と生き長らえたり、怨霊を喰らったりすることで、人の言葉を喋り、人の形を取ることが出来るようになる。全ての犬猫がそうなるわけではないが、そうなる可能性は大いにあり、さとりは何回もその実例を目の当たりにして来た。今現在、地霊殿の一角を預け、増えすぎたペットの面倒を見るように言いつけているのも、そういうふうに成長したペットなのである。
 だから、別段驚くに値しない。
「さとり様」
 ゆっくりと、錆びついた蝶番を丁寧に押し広げ、扉を開く者がいる。
 聞いたことがあるような、それにしては声色が異なるようにも思える声だった。その理由は、どこか懐かしそうに扉を潜る彼女の姿を見れば、自動的に理解できた。
「あなたは」
「はい。昔、お世話になりました」
 ぺこり、と慣れない仕草で、頭を下げる。
 美しく、腰まで伸びた白い髪のてっぺんに、犬の耳が申し訳程度に生えている。ふさふさの長い尻尾も、肌も、服もみな純白である。汚れを知らずに生き、そのまま人の姿に転じることを許されたような、薄暗い地下にいるのが勿体ないくらいの妖怪変化。
 彼女の名前を、さとりは知らない。はじめから名付けてもいない。ただ家にいるのが普通で、言葉を掛けるでもなく、彼女がやろうとしていること、思っていることがわかるから、言葉なんて、名前なんて煩わしいものは必要なかった。
 それをどうしても必要だと感じるのは、言葉を使わなければならない者たちだけだ。
「さとり様」
「元気そうね。安心したわ」
 知らぬ間に、野良犬だった彼女は家から姿を消していた。地霊殿の領地から一歩も出ず、旧地獄回廊を歩くことも躊躇った箱入りの犬が、さとりの目を盗み、地下から消えた。さとりも懸命に捜したが、灼熱地獄の跡地にも、地下の何処にも、彼女の存在を見ることは出来なかった。
 それから、三十年は過ぎたと思う。詳しくは数えていないが、それに近い年月は経った。
 今、目の前にいる彼女が、どのような経緯を辿り、人に化けられるようになったのか。
 何故、さとりの前から突然姿を消し、人知れず地上に這い上がったのか。
「そうなの」
 聞かずとも、さとりにはその全てがわかった。
 心の声が聞こえるというのは、こういう時に助かる。
「さとり様、ごめんなさい」
 再び、彼女は頭を下げる。何を悔いているのか、何に対して謝罪しているのか、さとりには全て解っていたけれど。慰める気も、叱る気もなかった。どうでもいいわけじゃない。無事でいて、よかったと思う。それは本当だった。
 でも、今のさとりが、彼女に掛けられる言葉は何もない。
 何もないのだ。
「勝手に出て行って、勝手に戻って来て。また、此処に置いてくれるなんて、思っていません」
「いいのよ、別に。ペットの管理でも、妹の相手でも、やってほしいことはいくらでもあるから」
 本音だった。
 けれど、さとりの言葉が、彼女の心に届いているかどうか。
 いっそ、言葉なんて持っていなければ、何もかも分かり合えたような気でいられたのに。
「……ありがとう、ございます。でも」
 彼女は首を振り、その首に嵌められた首輪を指し示す。銀色の輪に刻まれた名前、さとりでも、地下に棲む誰の名前でもない。人か妖かはわからないが、地上に生きる者の名前。
 地霊殿にいた頃も、さとりのペットであったことは変わりない。けれども、首輪を着けることはなかった。いちいち用意するのも面倒くさかったし、わざわざ着けなくても、勝手に何処かに行くような動物たちではなかったから。
 彼女は野良犬だった。
 さとりの家に住み着いた頃から、何処で生まれ、育ったのかもわからない、ただの野良犬だった。
 あの頃の彼女は、言葉を知らなかったから、過去を言葉にすることは出来なかった。だから、さとりも彼女の昔話は聞かなかった。聞かなくても、何も問題はなかった。
 けれど、人の形になってしまったのなら。言葉を持ってしまったのなら。
 別に、知らなくてもよかったのに。
「私は、帰ります」
 膝の上の猫が、気だるげに欠伸をする。
 帰りたい場所がある。それが、さとりの隣から、地上にいる誰かの隣に変わった。
 たった、それだけの話だ。
「今まで、ありがとうございました」
 やっぱり頭を下げようとした彼女に、さとりは声を掛ける。
「いいのよ」
 膝の上から、猫が床に飛び降りる。気紛れな猫は、何者にも囚われず、歩むがままに何処かに消えていく。犬は、帰るべき場所と、帰りたい人の隣を求めて、あちらこちらへさまよい歩く。
 たった、それだけの違いに過ぎない。
「さようなら」
「さようなら」
 同じ挨拶を交わし、彼女は以前の主に背を向けて、輝かしい地上に帰って行く。その背中を見送り、さとりは膝の上に残っている猫の重みを感じている。どんなに小さくても、何かがいなくなってしまうのは、寂しいものだ。
 扉が閉まる。蝶番が軋み、内と外の空気が遮断される。
 最後の挨拶は、まだ耳に残っている。しばらく消えそうにないなと思い、それでも二日と経てば忘れてしまうかもしれない。薄情なものだ。溜息が出る。
「平和ね」
 独り言である。
 餌を求める三毛猫が、うなるような鳴き声で、さとりの足に擦り寄っている。
 さとりは、猫たちに与える餌を持って来ようと、椅子から立ち上がった。
 座っている時間が長すぎて、少し、膝が震えた。貧血でもないけれど、床に膝を突き、しばらく何もしないで、じっとしていた。
 この家を巣立って行った彼女が、無事に、地上へと帰れるように祈りながら。
 ただ、じっと。
 猫と、犬の鳴き声が絶え間なく響き渡る、大きな屋敷の片隅で。

 

 

 

 



キスメ  黒谷ヤマメ  水橋パルスィ  星熊勇儀  お燐  霊烏路空  古明地こいし
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2008年10月23日 藤村流

 



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