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  2中 4中 4A 4B 4C 5中 6A 6B EX PH
紅魔郷 ルーミア 大妖精 チルノ 紅美鈴 小悪魔 パチュリー 十六夜咲夜 レミリア フランドール  
妖々夢 レティ アリス リリー ルナサ メルラン リリカ 魂魄妖夢 幽々子
永夜抄 リグル ミスティア 慧音   霊夢 魔理沙   てゐ 鈴仙 永琳 輝夜 妹紅  

花映塚 射命丸 文 メディスン・メランコリー 風見 幽香 小野塚 小町 四季映姫・ヤマザナドゥ   スーさん リリーブラック 幽霊「無名」
文花帖 (射命丸) 鴉 大ガマ  

萃夢想 萃香 香霖堂 霖之助 妖々夢 妖忌 レイラ 上海人形 毛玉 蓮台野夜行 蓮子 メリー
花映塚 ひまわり娘 三月精 (三月精)  

 


 

一日一東方

 四月三十日
(紅魔郷・ルーミア)

 


『光の差す方へ』

 

 闇を操る程度の能力というと何だか格好良さげに聞こえるが、実際は身体の周りが昏くなっているくらいである。その能力を持ったルーミアも割りとぼんやり日々を過ごしているので、闇よりは昼行灯といった雰囲気が常に付きまとう。
 そのような経緯から、ルーミアが激しく落ち込んでいるのは極めて異例の事態であった。
「ど、どうしたのよ……。暗いのと凹んでるのとで二重にダークネスになってるじゃない……」
 友人のチルノが問い掛けても、ルーミアは地面に手を突いて陰鬱に項垂れたまま。怖い。
「……うん……。それがね……」
 目も合わせず、声のトーンも上げずにルーミアは語る。
 それは友人の前だからというより、自身の辛さに耐え切れなくてつい漏れてしまった愚痴のようにも思えた。
「……お腹が……」
「痛いの? でなきゃ、妊娠とか?」
 しれっと言ってのける。
 子どもというものは、時に突拍子もないことを口にする。
 ただ、相手も子どもだったので特に目立ったツッコミもなく、深刻そうな告白は続く。
「……そうじゃなくてぇ……」
「え、いや、そんな暗闇に逆光で上目遣いされるとほんとに怖いからやめて。白目分が多いし」
 たじろぐチルノに、金髪の少女はじゅるりと舌なめずりをする。
「……白身分……」
「それタマゴだから」
 ぐぅ、と緊張感のない腹の音が響く。チルノは、その音源を横目で確認し、深々と溜息を吐く。
「あんた……おかしくなるまで何も食べないなんて、アホじゃないの?」
「……アホウドリ……」
「食べるの?」
「……チルノ……」
「食えないってば。……ほら、冷凍したカエルあげるから。おいしいわよ、太ももとか」
 差し出された奇妙なオブジェにも首を振り、ルーミアは泣きながら拒絶する。
「……いや……。イナゴがいい……」
「渋いわねえ……。それなら、紅白の巫女のとこに行けば余分に恵んでくれそうな気もするけど、その前にあんたあたしの腕に噛み付くのやめなさいって痛い痛い痛い!」
「んぐんぐ」
 無言で咀嚼を続けるルーミアの頭をぽかぽか叩くが、あまり効果はない。
「こらぁー! 噛むなと言ってるでしょうがー!」
「むげっ」
 パーフェクトフリーズじみたものがルーミアの脳天に直撃し、普段は出せない類の呻きをあげる。開いた口から腕を取り出し、痛みに涙する前にびしびしとチョップを繰り返すチルノ。
「あんた、なんでもかんでも、口に入れたら、駄目だって、言ってる、でしょ! 殴るわよ!」
「殴ってるー……」
 不満そうな顔はしているが、先程よりは幾分か血色が良くなっている。周囲の闇よりも表情が明るくなっているのがルーミアという妖怪である。
「で? どうしてあんなにお腹を空かしてたのよ」
 問い詰める。ルーミアは口を噤み、申し訳なさそうに肩を落とす。見ている方が思わず慰めたくなってしまう意気消沈ぶりだが、チルノは騙されない。そこまで他人の機微に鋭くはないのだ、良くも悪くも。
「うぅ……。だって、最近ぽっちゃりしてきたから痩せろって……」
「そんなの、誰が言ってたのよ。白いの? 黒いの? 中国の?」
 うぅん、とルーミアは全て否定し、見当も付かないと言ったふうな顔をしているチルノに正解を教えてあげた。
「えーとね、ルーミアは肌がふっくらして来たから、しばらくダイエットした方が良いわよ――。
 って、レティが言ってた」
 満面の笑みで、致命的なことをルーミアは口にしてしまう。
 本人は満足だろうが、言われたチルノは一体どの面さげてレティに会いに行けばいいのか。皆目見当もつかない。
「……あぁ、そう」
 でもまあ、とりあえず、チルノは思った。
 そして、彼女を知る全ての者たちが考えているであろうツッコミの言葉を、心の中で代弁する。


 あんたが言うなよ。

 



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一日一東方

五月一日
(紅魔郷・大妖精)

 


『君の名は』

 

 渾名と愛称はその本質において大きく異なる。前者は善意と悪意がない交ぜになり、後者は善意や好意が前面に押し出されている。
 ゆえに大妖精は嘆息する。湖のほとり、紅色の洋館が伺える大木の枝に座り、この世の不条理を憂う。
 童顔な彼女がなぜ人生に疲れたような顔をしているのかいえば、彼女に与えられた名前にその原因がある。
「大ちゃん……」
 誰だ、と指摘する声がないのは、その名が大妖精たる彼女に付された渾名であるからだ。友人たちは愛称だのニックネームだのと口にするが、本当にそう思っているかどうかはかなり怪しい。
 大妖精だから、大ちゃんて。吸血鬼だから吸ちゃん言うのと大差ない。流石にそれは悪魔も嫌がるだろうと大妖精は思うが、悪魔でも妖怪でもない彼女は強く拒絶することが出来ないでいた。
 大ちゃん……、と何度も呟き、両手を顎に添えて息をつく。
 本名はあるが、そのあたりはプライベートに関わることなのでカット。なら文句は言えないだろうとチルノは毎度のごとく吠えるのだが、大妖精には大妖精の事情があるのよと軽く窘めておいた。飴やアイスで簡単に買収できるところがチルノの弱みであり可愛いところだ。
 それはともかく。
「なんとかしないと……ね」
 このままではいけない。なんというか、妖精の威信に関わる。
 こんな、真昼間から醸造酒でも呷ってそうな名称が幻想郷中に流布しようもんなら、小妖精だった頃からお世話になってきた老妖精に面目が立たない。しまいにゃ妖精の資格を剥奪されかねない。
 妖精って資格制だったのかよ、という魔理沙のつっこみが聞こえてきそうだが、いない人間は何も言えないので、大妖精は打開策を探しにふらふらと空に舞い上がった。

 

 彼女がやって来たのは、湖に鎮座する紅いお屋敷。その名も紅魔館。
 とはいえ、お屋敷の最深部にいるという通称スカーレット・デビルに会う訳ではない。格好いいなあ、スカーレット・デビル……などと羨望の眼差しを門の向こう側に飛ばしても、返ってくるのは不躾な門番の裂帛ぐらい。
「ちょっと! 私の許しもなく紅魔館の敷居を跨ごうとはふてえ野郎だ……って、なんだ。あなたじゃないの」
「うん、まあ……あなたなんだけども」
 ごにょごにょと言いにくそうに口を閉ざす。今の喋り方は何だったんだろう、知り合いとして一言言ってあげた方がいいのかなぁ……と思いながら、このまま放っておいても面白そうだったので放置することにした。
「今日はどうしたの? また友達とケンカでもした?」
 腰に手を当てた体勢で、紅魔館門番の紅美鈴は優しく語り掛ける。面倒見の良い性格から姉御と呼ばれることも多いが、同期からはあまり好ましくない渾名で呼ばれているらしい。そう、愛称ではなく、渾名だ。
 大妖精は時折、美鈴に相談事を持ち掛けることがある。内容は主に、チルノとケンカしただの、チルノの悪戯をどうにかしてほしいだの、チルノがグレただの、大体においてあの氷精関連なのであるが。
 今日初めて、彼女はチルノ以外の話題を持ち込んだ。
「あの……。美鈴さんって、よく渾名で呼ばれますよね」
 ぐっ、と美鈴が息を呑む音が聞こえた。
 しかし、可愛い後輩の手前情けない顔を見せる訳にもいかず、引きつった笑みを浮かべながら平静を装う。
「まーねー。別に私としてはどう呼ばれても問題ないんだけど、正確な名前で呼ばれた方が嬉しいって気持ちは無いでも無いわねぇ……いや、ほんと」
 最後にちょろっと本音が漏れたのを、大妖精は敏感に感じ取った。それだけ苦労しているということだろう。たかだか名前ひとつで、と人は笑うかも知れないが、名前というのは言霊である。魔術的な要素も強く、負の因子が加われば呪詛となり、正の波動が重なればそれは奇跡となる、かもしれない。
 まあ詳しいことはよく判らないけど、中国さん……じゃなくて美鈴さんもさぞかししんどい思いをしてるんだろうなー、と同情してしまう大妖精だった。
「わたしも、大妖精だから大ちゃんって呼ばれることが多くて……。遠くない将来、ちゅ――美鈴さんみたいになっちゃうかと思うと、もう気が狂いそうで……」
 涙ながらに訴える大妖精を、泣きそうな瞳で受け入れる紅美鈴。
「うん、そう言うあなたも地味に失礼だから」
「でも、中国さんがあんな目に遭ってるのに、わたしは……!」
「うん、うん。もう訂正すらしないのね。言っておくけど」
「ちゅ、ちゅうごくさぁん……」
 美鈴の境遇に耐えられなくなったのか、それとも美鈴の姿に未来の自分を重ねてしまったのか、思わず美鈴の(豊満な)胸に飛びつく大妖精。一瞬どてっぱらに一発かましたろかと不穏な感情を抱いた美鈴だが、最終的には苦しがっている者に手を差し伸べてしまうのが紅美鈴である。
「泣きたいのはこっちなんだけども……。おー、よしよし。あなたも辛かったのねぇ。ま、死にたくなるほど辛いことなんて、ここじゃあ滅多には……ほとんど……あんまり……いや、無いんだけどね? マジでマジで」
 後半は説得している本人も自信なさげだったが、ひとまず大妖精の泣き声は収まってくれた。
 嗚咽が啜り泣きに変わり、潤んだ瞳を自分で拭い取るようになって、大妖精も落ち着きを取り戻したようだった。
「あの、今日はありがとうございました……」
 恥ずかしそうに美鈴の腕から離れ、深々と頭を下げる。美鈴は何だかなぁと思いながらも、頼られているのは悪い気がしないので、非常にこそばゆい感じだった。
「うん、まあその、気にしすぎるのは良くないと思うわよ? 渾名が嫌なら本名を押し通す手もあるし――」
「中国ー。中国はどこー」
「はいっ! いま伺います!」
 本館からの声に見事な敬礼を返し、大妖精に手を振って門の向こうへと消える紅美鈴。反射的に返事をしてしまう体質が悲しすぎる。
 その爽やかな背中を見て、何故か再び涙が込み上げる大妖精だった。ああなったら自分もおしまいだ、だからせめて、自分の名前に誇りを持って、正々堂々を生きなければならない――。
「さようなら……。美鈴さんのこと、絶対に忘れません……」
 と、もう無くなってしまった名前を悼む。
 そんな失礼極まりない誓いを、名も無き門番が控える門前で立てたりする大ちゃんであった。

 



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一日一東方

五月二日
(紅魔郷・チルノ)

 


『冷たい手』

 

 触れた手のひらは病的に熱く、痛みを覚えてしまうほど。
 思わず引いてしまった彼の手を、少女は、泣き笑いの表情で見詰めていた。

 

 初めまして、と声を掛けられたのはいつの日か。
 名前を付けられたのはそれから間もなく。多分、隣りにいる者の名を知るより早かったと思う。
 記憶はなかった。水面に自分の身体を映してみても、人間として生きていた頃の記録を取り戻すことはなく。
 水葬に付された人間の魂は、稀に妖精に昇華する。その際、個人を特定する記憶の一切が消滅し、魂から新しく始まることになる。
「あなたは、これから妖精として――正確には氷精というのだけど――生きるの。必要なことは、追々覚えていけばいいから」
 指南役の妖精は、背丈も見た目も少女と大差ない。妖精は成長せず、魂だけが劣化する。
 再誕した少女は、チルノ、と名付けられた。

 妖精と一口に言っても、悪戯を好むもの、迷子になった子どもを救うもの、逆に攫うもの、日がな一日寝て暮らすもの、泳ぎ続けるもの、空を飛び続けるもの――と言ったように、様々な生活を送っている。
 チルノの在り方は、大多数の妖精がそう在るように、悪戯をして回るものだった。
 感情が豊かで、子ども呼ばわりされることを嫌い、好意も悪意も素直に表現する。敵を作ることは多かったが、それ以上に味方も多かった。どんな厄介な事をしでかしても、笑って許せる何かが少女にはあった。
「チルノの手って、本当に冷たいわねー。夏場は重宝するわぁ」
「まあ、あたしは氷精だからねー!」
「威張ることでもないけど、まあ、手が冷たい人は心が温かいっていうし」
「……完璧じゃん、あたし」
 胸を張るチルノに、通りがかりの中国妖怪は苦笑する。あまりに微笑ましくて、呆れるよりも笑ってしまう。
 チルノは、氷精である自分を受け入れていた。
 記憶がないことに違和感を覚えたのは初めの一月くらいで、後は勝手気ままに二度目の生を謳歌している。思い出せないのなら、それは思い出してはいけないことなのだろう、と。

 でも、稀に、夢を見る。

 煉瓦造りの家、煙突から立ち昇る黒煙、安楽椅子と、猫。
 笑っている人たちの中に、年端も行かない女の子が紛れ込んでいる。肩に掛かる赤い髪、平均より一段階低い身長、泣きぼくろと、リボン。
 断続的に移り変わる物語は、時間軸も序列も脈絡も関係なしに映し出される。
 その中に氷精らしき姿はない。何も言えず、感じることも出来ず、滅茶苦茶に並べられた紙芝居を見ているだけ。
 ――誰かが寝ている。隣りにはいつも誰かが寄り添っている。
 初めまして、と初々しく挨拶する男の子。笑顔で答える女の子。
 草原を、猫と一緒に走り回っている。勢いあまって転んだ後も、笑っていた。
 殴った。
 すすり泣く声に耳を閉ざそうとしても、耳がどこにあるか判らなかった。
 風邪ですね、というお決まりの台詞を聞いた。
 裏口の前で猫が待っている。入りなさい、と女の子は言ってあげた。その後、たくさん怒られた。
 繋いだ手と手は固く握られ、離れることなどないように見える。
 壊れた安楽椅子、燻っている暖炉、空になったバスケット、絨毯に染み込んだ、紅い、紅い――ワイン。
 年の離れた弟を窘める女の子、それを微笑ましく眺める両親。
 ベッドに伏せた女の子の手に触れて、すぐに離してしまう男の子。それを、泣き笑いの表情で見詰めている、女の子――。

「……熱っ……」

 異様な熱さに、意識が覚醒する。
 夢の記憶は既になく、夢を見たことすら覚えていない。ただ、不快な熱だけが残存している。
 目覚めと同時に触れた額は、やはり、冷たいままだった。

 

 こんなにも活発で、自分から熱を放つタイプの少女がなぜ氷精になったのか、その真実を知る者はいない。
 本人も別にどうでもいいと思っているから、考えるだけ無駄なのだろう。何をしたところで、チルノの性格を捻じ曲げることは出来ないのだし。
「あははは! このあたしにかかれば、巫女も魔法使いも吸血鬼だって物の数じゃないわよ!」
「その台詞、面と向かって言えたらいいのにね」
「うるさぁい!」
 来たるべき勝利宣言の予習を欠かさないチルノと、それを優しく軌道修正する大妖精。
 頬を抓る指から感じる冷たさは、少女が氷精として生きている証拠。
「つ、つめた……!」
「へへー。文句言うくらいだったら、氷精にでもなればいいのよー!」
「そんなぁ……」
 大妖精を笑い飛ばす氷精は、今を謳歌していた。
 湖を取り囲む森は涼しく、彼女たちが放ち続ける熱もやがて霧散していく。
 それでも、少女の周りは常に騒がしい。

 手のひらは冷たいけれど、心は柔らかい熱を帯びている。
 だからみんな傍にいてくれるのだと、ずっと、信じている。

 



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一日一東方

五月三日
(紅魔郷・紅美鈴)

 


『うずら』

 

 彼女が私の頭を撫で、肌荒れが目立ち始めた手で私を掬い上げてくれた。
「いい子だねー」
 頬擦りされても、私はか細い声で鳴くことしか出来ない。それでも、彼女は笑ってくれるから。
 名も無き一羽の鳥として、鳴き続けることを此処に誓った。

 

 うずらの卵は栄養になるが、母体としての鳥はさほど必要とされない。すなわち、排卵機能すら失った私に行く場所などなく。
 不自由だとか、不幸せだとか、詰まらぬことを言うつもりはない。みな、優しかった。飛ぶことも囀ることも、逃げることも許された。
 私はそれをせず、温室の中で暮らし続け――。
 一人の女性に、茶色い身体を掬い上げられた。
「あれ。そのうずら、どうしたの?」
 私は数あるうずらの一匹に過ぎなかった。女性が私を選んだのも、おそらくは奇跡的な偶然だったのだと思う。
 運命。
 その言葉を信じられるだけの力が、この館には存在する。ならば、信じよう。この出会いが、至極当然のものだったと。
「もう卵を産めなくなっちゃったんで、野に放してあげようかなと」
「へぇ……」
 手のひらに乗った私の目を覗き込み、一瞬の後、係りの女性に尋ねた。
「ね。このうずら、預かってもいいかしら?」
「えぇ、私は構いませんが……。その、もう……」
 言わんとすべきことは分かる。卵が産めなくなったのは、病気ではなく自然の流れ。
 それでも、彼女は怯まなかった。少し、身体を添える力は強まったけれど。
「形あるもの、いつかは……ってね。別れが怖いからって、何かと関わることを放棄したらそこでおしまいよ。そんな訳で、一匹しか引き取れないけど」
 貰って行くね、と彼女は言った。
「……分かりました。大事にしてあげてください」
 係りの女性が頭を下げ、その場を去った。
 後に残された私は、二度目の生が始まったことを実感する。
「これから宜しくね。私は、紅美鈴っていうんだ」
 屈託なく笑う彼女を、素直に美しいと思う。
 願わくば、もう少し早く出会いたかったけれど。
 形あるもの、いつかは――と、いうこと。

 

 彼女の朝は早く、部屋にいられる時間は少ない。
 部屋に滞在している時間なら私の方が圧倒的に多いだろう。しかし、空を飛べない私に出来ることなど、力なく囀ることぐらいだったが。
 籠はなく、部屋も館も自由に闊歩できたが、彼女の部屋から出ることは滅多になかった。
 もし彼女が帰ってきた時、確実に迎えてあげられるように。
「ただいまー」
 帰って来るなり、彼女は気脈の流れから私の存在を察知し、すぐさま拾い上げてはその胸に抱き締める。潰れるか潰れないかの加減が絶妙だと思う。
「うーん、やっぱり羽毛よねぇ」
 ベッドに寝転がり、その上に私を放す。
 同じ場所を行ったり来たりする私を見て、彼女は破顔した。
 差し出して来た手に、嘴を合わせる。餌も何もないけれど、彼女と身体を合わせていたいと思う。
 手のひらに乗り、か細い声で鳴く。よほど疲れていたのか、そのうち彼女は眠りについてしまった。
 その安らかな寝顔を見るたびに、心が満たされる。
 私にも、一時の安らぎを与えられる。
 幸福に微笑むためには、少しばかり顔の筋肉が足りないのではあるが。

 

「今日ね、紅と白の巫女っぽい人間が来てさ」
 ベッドに腰掛けた彼女の膝で、今日の出来事に耳を傾ける。
 いつもより多く肌に刻まれた傷を、すぐにでも癒したい。けれども、そのために必要なものを私は何一つ持っていなかった。
「恥ずかしながら、ボコボコにされちゃったんだけど。メイド長だってお嬢様だって負けちゃったんだから、私にばっかり矛先が向くのもどうかと思ったり」
 散々愚痴をこぼした後で、彼女は申し訳なさそうに私の頭を撫でた。
「……ごめん、詰まらない話しちゃったわね。でも、聞いてくれてありがとう」
 私は鳴いた。
 詰まらないことなどない。だから、どうかありのままに話してください。
 あなたを知り、あなたの心を満たしてあげたいと切に願っているから。
 この思いが届いたかどうかは分からないけれど、彼女は静かに微笑んだ。
「優しいね」
 冷えた身体に伝わる手の温もりが、無性に愛しかった。

 

「昔は、お嬢様を狙う妖怪が結構いたんだけどね。今じゃそんなに物騒なのも滅多に現れない……訳でもないか。紅白とか白黒とか、いろいろ来たりはするけど、確かに昔よりは平和かもしれないわ」
 過去を懐かしみながら、現在を生きている。
 妖として長い時を生きる彼女は、紆余曲折を経て紅魔館の門番になった。辛く長い道のりだったと彼女は言う。それでも、辛く厳しくとも生きるのだと彼女は口にした。
「あなたを預かるだけの余裕も、つい最近になってようやく出来たって感じだし。苦労が報われた、なぁんて弱音を吐きたくはないけど……。でも、そう思ってもいいのかな。折角あなたと出会えたんだから」
 寝そべったまま首を横にして、彼女と私の視線が交錯する。
 あなたに会えてよかったと、彼女は言った。
 ――はい。私もそう思います。
 言葉を放つことは出来ず、囀ることも難しい。
 涙することが許されるなら、瞳に水をたらして欲しい。そうすれば、彼女にも私の心が伝えられるから。
 しかし、願いを叶えてくれる神は悪魔に駆逐され、その代わりに、彼女の手のひらと頬に挟まれる。
 その日は、其処で眠った。

 

 おはようと言って部屋を出、ただいまと言って扉を開ける。
 出迎えた私を掬い上げ、胸に抱き寄せ、頬擦りをする。私が鳴くと、嬉しそうに笑う。
 私は笑いたかった。彼女と一緒に、声を大にして笑ってみたかった。
 もっと、傍にいたかった。いろんな話を聞きたかった。彼女が紅魔館に来る以前の話、家族の話、友達の話、好きな食べ物や悩みや恋人の話も――。
 生涯を狭い箱庭で暮らし、それを望んでいた私には知らないことが多かった。
 すぐ近くに、私を満たしてくれる女性がいることなど知らなかった。
 だから、やり直したいなんて都合の良いことは言えないけれど。
 どうかせめて、再び生まれ変わることがあるとすれば、この次は。
「おやすみ……」
 彼女の声が聞こえる。横たわる身体の上に、優しく手のひらが添えられる。
 もう、眠い。何もかも忘れて、目を瞑り、言われた通りに休んでしまいたいのだけど。
 願いを、掛けなければ――。

 もし、運命を操る悪魔がいるのなら、私の願いを叶えてください。

 この次に生まれて来た時は、どうか――。

 彼女の前で、笑い、涙を流したいのです。

 ――どうか。 

「じゃあ、またね」

 彼女は泣く。
 その雫が私の瞳に落ち、まるで、涙を流したように水が流れ。
 名も無き一羽の鳥は、一つの誓いを此処に終えた。

 



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一日一東方

五月四日
(紅魔郷・小悪魔)

 


『愛しきエンサイクロペディア』

 

「――え?」
 頭上から降り注ぐ無数の凶器を前に立ち尽くしたとしても、小悪魔だけを責めることは出来ない。
 彼女は抱え切れる限界量の書物を抱えており、予期せぬ振動によって崩れ去った本棚の一角から、明らかに鈍器と呼んで差し支えない物体を見上げて絶望に晒されたとしても無理はなく――。

「マスター――」
「――ストップ」

 破壊宣言と停止命令が、ほぼ同時に小悪魔の耳に飛び込む。
 その意味を理解するに至った頃には、彼女は何者かによって鈍器の山から引き離されていた。
「大丈夫? あなたも飛んで逃げたら良かったのに」
 見覚えのある銀髪と、瀟洒な雰囲気が漂うメイド服。
 しばし唖然としたままだった小悪魔も、助けられたことを知るや素早く頭を下げる。無論、本はめいっぱい抱えたままで。
「あ、ありがとうございました! 本当、危ないところを……」
「正確には、今もまだ安全域に達してはいないのだけど、ね」
「失敬な。助けてやろうとしたのを邪魔したのは、お前の方だろ」
 憮然とした声にも聞き覚えがあった。黒と白を基調とした服に身をまとい、少女は箒に刺さったナイフ を咲夜に放り投げる。
 眉間に直行するナイフを指の間で受け取り、咲夜はへたり込む小悪魔に目を向ける。
「そんな訳だから、あなたはパチュリー様のところに向かいなさい。下手に出張られると厄介だから」
「は……はい!」
 五行の魔女として名高いパチュリー・ノーレッジも喘息には勝てない。不法侵入と窃盗に明け暮れるネズミ魔法使いとの戦いも、その実かなりの負担になっていることは間違いないだろう。
 尤も、咲夜が途中で喘息を発症したら戦闘の邪魔になるだけだし、と不謹慎な思いを抱いていることなど、小悪魔には知る由もなく。
 いくら急いていても本だけは放り捨てず、パチュリーの私書室に飛んで行こうとする小悪魔の背を、黒い魔法使いが呼び止める。
「あいつに宜しくなー。後で辞書を貰ってく予定だから」
「駄目です」
 吝嗇家め、と邪気のない笑みを浮かべ、五指の隙間にナイフを装填し終えている十六夜咲夜と向き合う、霧雨魔理沙。
 両者が宣符する声を背中に聞いて、こうなったならいずれにしても大掃除する羽目になるだろうなぁ、と小悪魔は人知れず肩を落とした。

 

 ヴワル魔法図書館を統べるパチュリー・ノーレッジには及ばないが、小悪魔も彼女に次ぐ実力と知識の持ち主である。
 そのため、暇さえあれば窃盗行為に勤しんでいる不埒な輩を撃退するための作戦を、仕事の合間に考え出しているのだ。
 だが、魔理沙が苦もなく図書館内侵略行為に及んでいるとなると、今回のトラップも失敗したと言わざるを得ない。小悪魔は、パチュリーの前で意気消沈していた。
「……申し訳ありません。私が、不甲斐ないばっかりに……」
「別にいいわ。あなた一人の責任でもないし、来る方も来る方だし。きっと、此処とあのネズミは磁石みたいな関係なのね。SとN、無意識下の強制と誘導、加速する電子とマスタースパーク……。何も起こらない方が、どうかしてるわ」
「でも……」
「でも、魔導書があるに越したことはないわ。なるだけ奪われないようにしなさい。書が一つ失せる度に、一つの知が未知に変わるわよ」
 はい、と神妙に頷き、手に抱えていた書物を一旦床に置く。
「ですが、何も出来ないのは悔しいです」
 食い下がる。パチュリーの言うことは分かる。が、なかなか納得することができない。
 どうにかして、あの邪魔者を排除しなければ。でないと、いつか取り返しの付かない事態に陥るかもしれないのだし――。
 と、息を巻く小悪魔。パチュリーは、無理をしすぎているなと心の中で呟く。
「そうね……。なんて言えばいいのかしら」
 悩みながら、足元に積み上げられた書物から一冊の辞書を引っ張り上げる。
「これは……」
 提示された辞書は、最初から最後まで全て白紙。千頁を遥かに超える分厚い辞書も、こうなれば只の紙片の塊に過ぎない。
「語彙抽出辞書というものね。持ち主に寄生して、その者が得た知識を紙媒体に抽出する装置よ。試してみるのも面白いでしょうね、私は遠慮するけど」
 部下には勧めるのか、と言う疑問は、パチュリーの台詞に遮られる。
「百年くらい生きていても、十年そこらしか生きていない人間に負けることもある。策を弄しても、その策謀ごと蹂躙される。なかなか上手くはいかないものね……。未だ知らざるものは多い。それは、あの魔法使いのことも例外ではないんでしょう」
 椅子に腰を落ち着けて、紅茶を啜るパチュリー。
 小悪魔は空白のエンサイクロペディアに手を伸ばし、わずかばかりの魔力を込めてみた。
 突如、青い光芒が表紙と裏表紙に刻み込まれ、一枚目から順に膨大な量の語彙が綴られていく。
 改めて表紙を見れば、そこに小悪魔の本名が浮かび上がっていた。
「……契約?」
「そう。これ以後、あなたが一つの知を得るごとにエンサイクロペディアにも一つの知が刻まれることになる。個人の歴史書ではないけど、個人の知識を余すところなく網羅した擬史と言ったところかしら」
「擬史……」
 物凄い勢いで綴られる文字は、しかし総頁の半分に至ったところで停止する。
 あれ? と擬史を引っ繰り返したり再び魔力を送り込んだりする小悪魔に、魔女は救いの手を差し伸べる。
「ほら。あなたにだって、まだ知らないことがたくさんあるでしょう?」
 言って、パチュリーは唇の端を歪ませた。

 

 辞書に個人の名が掲載されることは珍しい。
 小悪魔の擬史にも、紅魔館の主たる実力者の名しか刻まれていない。無論、不貞を働くネズミの名前など、小悪魔の記憶に留まっているはずもなく。
 パチュリーの私書室を出、再び埃の舞い上がる戦場に引き返しながら、小悪魔は考える。
「パチュリー様……」
 思えば、パチュリーがあのように楽観主義に染められているのも、あの魔法使いの影響ではなかったか。完全に許容している訳ではないにしろ、初めのうちは殺してでも奪い取るという方針だったはず。それが、いつの間やら態度を軟化していた。
 主たるパチュリーが積極的に排斥しない以上、小悪魔もそう強く出ることは出来ない。
 けれど、全ては知ることにより始まるのだ。反目するにしろ迎合するにしろ、互いを知ることで打開策も予防策も立てられる。小悪魔に出来ることは、まず黒い魔法使いについて多くを知ることだと考えた。
 それがつまり、主が擬史を見せてくれた理由だと小悪魔は思う。
「まだ、知らないことがたくさんある……」
 そう考えただけで、身体が震える。全く、この世界はどれほど広いというのか。あの魔法使いにしろ吸血鬼にしろ時を止める人間にしろ、自分の想像を遥かに超える存在が多すぎる。
 なんて――素敵なことなんだろう。

「遊びは終わりだっ! 有為転変より有象無象へ鮮烈なる閃光を放て!
 『ノンディレクショナルレーザー』!」
「仕方ないわね……。四辺より完全に酷薄なる密室を要求する。
 『パーフェクトスクウェア』」

 魔法使いと時空走者が乱舞する。
 その輝かしい知の煌きを目の当たりにして、小悪魔は自身の擬史が激しく躍動する音を聞いた。

 



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一日一東方

五月五日
(紅魔郷・パチュリー)

 


『ヴワル魔法相談室』

 

 頭が良いことが必ずしも偉い訳ではないが、その方が得をするのは確かなようだ。
 例えば、パチュリー・ノーレッジ。
 喘息持ちの虚弱体質、基本的に引き篭もりで愛想の欠片もないパジャマ姿が正装の魔女であるが、頭が良い→魔法が使えるという理由から紅魔館に居付くことができた。
 人間、というか種族としては魔法使いだが、何にしても何が身を助けるか分からない。
 そんな訳で、常日頃から私室にて魔法の研究やら実験やらネズミ駆除やら、諸々の作業を行っているパチュリーだが、頭が良いという理由で彼女に救いの手を求める者たちが非常に多い。紅魔館内の悩める子羊のみならず、幻想郷中の困ったちゃんが藁をもすがる気持ちでヴワル魔法相談室(仮称)に訪れるのだった。
 以上、説明終わり。

「――好きです! 私の身体で人体実験してください!」
「還れ」

 恋の悩みを打ち明け、勢いあまって突っ込んでくるメイドにアグニシャイン初級をぶちかます。流石は紅魔館精鋭のメイドだけあって、壁に叩きつけられても割りと大丈夫らしい。これも人体実験にあたるのかしら、と多少不謹慎なことを考えつつ、小悪魔に彼女の処分を任せ、自分は魔導書の写しを再開する。
 だが、息をつく間もなく次の相談者が扉を叩く。
「失礼します」
「その自覚があるなら入って来ないように」
 パチュリーの言を綺麗に無視して、そのメイドは彼女の私室に足を踏み入れる。特に相談事があるでもなく、一杯の珈琲をトレイに乗せ、パチュリーに歩み寄る。
「珈琲をお持ち致しました」
「これ、媚薬入りかしら?」
「毒薬の値段も馬鹿になりませんからねぇ」
 聞き捨てならない咲夜の言も爽やかに無視して、置かれた珈琲を受け取る。
「先程、うちのメイドがお尋ねしたと思いますが」
「どうも白痴の気があったようだから、荼毘に伏しておいたわ」
「それはそれは……。後で霊安室を確認しておきますわ」
 傍から聞いていると本気か冗談か判別が付かないが、本人たちもあまり明確に区別していない。咲夜も咲夜で、妖夢のように死人でも働くことは出来るし、と楽観的に考えていたりもする。
「どうしてか知らないけど、最近私に相談を持ち掛けてくる生命体が多くてね……」
 溜息を漏らしながら、隣りに佇む咲夜に目も合わせないまま話し掛ける。咲夜も、トレイを指に引っ掛けたままパチュリーの話を伺う。
「一ヶ月ほど前からだと思うけど、部屋に突然湖の氷精が飛び込んで来て、『今年の夏は暑すぎるからもうちょっと寒くしろ』という膿んだ台詞を吐き散らかしてね……」
「それで、どうなさいました?」
「頭蓋骨の内部が沸騰している可能性があったから、強制的に冷却しておいたわ。水符で」
「夏はみんな暑いですものねぇ」
「続いて、レミィが悩ましげな顔をしてやって来たと思ったら、『紅茶の味が微妙に薄いんだけど、いつも隣りにいるメイドに問い詰めてもはぐらかしてばかりだし。どうしたらいい?』という身内で解決しろよと言わんばかりのみみっちぃ問題が」
「……それで、どうなさいました?」
「そのメイドが虚偽の弁舌をかましている可能性があったから、自白剤を投与してみたわ。深夜に」
「あー……」
 身に覚えがあるのか、人生の先達を見るとは思えない険悪な目付きで一瞬パチュリーを睨む。
 が、元よりパチュリーは咲夜を見ておらず、指にしても魔導書の写しを止める気配すらない。
「案の定、虚偽の申告をしていたことが判明。ケチャップとか赤の五号とか諸々の着色量を足してたみたいね。
 その動機は、血液を採集するのが立ち行かなくなって、というか『面倒くさくなった、赤なら何でもよかった、今は反省している。んじゃないかなあ』とかのたまってたけど、そこはカットして他の重要な部分のみ伝達しておいたわ。
 レミィに知れてたら、今ごろスカーレットシュートのボールになって博麗大結界にビューティフルゴールを決めてるところだったわね。感謝なさい」
「……なぜ私が謝辞を述べねばならないのかいまいちよく分かりませんが、とりあえずありがとうございました」
 深々と頭を下げる。
「まぁ、結末は髪で隠した爪痕に聞きなさい」
「そんなことよりとっとと次の話題に移行した方が安全だと思われます。主にパチュリー様が」
「でしょうね。なぜか首筋にナイフを突き付けられてるものね、私」
「カウンセラーには、依頼者の秘匿義務というものがあるのですよ」
 あらそう、と淡白な言葉を返し、ナイフを翳されたままで話を続けるパチュリー。勿論、指を止める様子などなく。
 あまり効果がないことに気付き、薬を盛られた怒りも忘れて銀の刃を引く咲夜。正直、パチュリーのカウンセリング結果の方が気になるし。
「以後は、あちこちに配置されているメイドの恋の悩みが大多数ね。あの子に集計してもらった結果、四位紅美鈴、三位レミィ、二位は私で、栄えある一位はメイド長の十六夜咲夜だそうよ」
「……光栄なのかどうなのかよく分かりませんね」
「あの子を慕っているメイドも何人かいたわ。一応、催淫剤は支給しておいたけど。仕事に支障がないくらい」
「あぁ、そういえば小悪魔の方が誘われていましたね。まあ止めませんでしたが」
 非情と嘆くなかれ。世の中、騙される方が悪いということも往々にしてある。それに、愛の告白なのだから多分許されるだろうし。
「ちなみに、咲夜が好きという面子の中には強硬派も結構在籍していて、危険そうなのには予め防護策を取っておいたけど」
「それはそれは……」
 咲夜は胸を撫で下ろす。メイドの差し入れに催淫剤やら睡眠剤やらが入っているかと思うと、気を抜いておちおちおご飯も食べられやしない。
「例えば、どのような」
「全員に適度のトテロドトキシンを持たせてあげたわ。目標が誘いを断ったとしても、円滑に告白の場を設けられるという優れもの。神経毒だから相手はあんまり気持ち良くならないかもしれないけど、愛の告白なんて自己の欲望を開放する儀式なんだから、そもそも相手のことなんて考えちゃいないわよね」
 嫌な思い出でもあったのか、急に言葉遣いが粗くなる。そのあたりを上手く聞き流し、咲夜は自分に都合の良い情報だけを採取する。
「へぇ……て、それまずくないですか? 主に私が」
「毒薬って確かに馬鹿にならないわよね……」
「いや、頬杖突かれても」
 話を聞けよ、とタメ口を叩きたくなる衝動をぐっと堪え、年長者との会話に相応しく刺々しい敬語をふんだんに混ぜてやろうかと大きく息を吸った瞬間。
 控えめに、かつ強靭なる熱意の込もったノックの音が聞こえた。
「もしかして、そちらにメイド長はいらっしゃいませんか……?」
 聞き馴染んだ声は、咲夜が頼りにしているメイドのもの。耳を澄ませば、その他にも数名の人間が控えていることが分かる。
 マジか……。女と女でしょ、それはちょっと染色体的にまずいんじゃないかと咲夜はいろんなものが信じられなくなったりしたが、とりあえずは現段階で取り得る最大限の回避策を実行に移す。
 パチュリーに目配せし、咲夜は自分の唇に指を添える。
 知人の窮地に、パチュリーは力強く頷く。あぁ、こんな時でもやっぱりパチュリー様だなぁと咲夜が感心し、今度から珈琲豆を一段階高価なものにしようと心に決めた、その瞬間。
「えぇ。咲夜なら此処に居るから、さっさと入ってきなさい」

 言っちゃったー。

「そ、そうですかっ! それでは遠慮なくお邪魔します――!」
 本当に何の躊躇いもなく、声を裏返しながら突貫してくるメイド兵たち。
 パチュリーの秒殺背信行為に開いた口が塞がらない咲夜だが、それでも完全で瀟洒な従者として名を馳せているだけのことはある。パチュリーが写し続けている魔導書にナイフを投擲し(簡易結界に弾かれて斬裂に至らず)、返す刀で何故か頬を赤らめながら部屋に侵略してくるメイドたちに、一枚のカードを突き付ける。
「め、メイド長……?」
「パチュリー様、後で必ず殴りますので宜しくお願いします」
「ナイフはその時に渡すわね。一応、ナイフの柄にモリアオガエルの皮膚毒を塗りたくっておくけど」
「やめてください。でないと刺します」
 捨て台詞を吐き、突き出したカードに意味を持たせるための言霊を放つ。

「あぁもう面倒くさい……! 四方より完璧に荘重たる密室を要求する!
 『プライベートスクウェア』――!」

 宣符するや否や、パチュリーの視界からメイドというメイドの姿が掻き消える。メイド長が責任を持って彼女たちを排斥したということだろう。パチュリーの机を中心に、結構な量のナイフが突き刺さっているのはご愛嬌として。
 幸い、魔導書の写し自体は簡易結界のおかげで傷一つ付いていないが、帽子にナイフが綺麗に貫通している。なんとなく目出度い感じに収まったので、パチュリーはそのままで冷めた珈琲を静かに啜る。
「これで、少しは静かになるかしら……」
 とりあえず、みんなの脳が沸騰してしまうらしい夏の終わりまでは、しばらく我慢してみようと思うパチュリーだった。

 



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一日一東方

五月六日
(紅魔郷・十六夜咲夜)

 


『もう一度、この夜を止めて』

 

 周囲からは完璧だの瀟洒だのと好き勝手に言われているが、当の十六夜咲夜は完璧であることを意識したことはあまりない。
 主たるレミリア・スカーレットが従者として求めたものが、人間という不完全な生き物であるから、自分もまたそうであるべきと彼女は考えているのだ。後付けだが。
 たまにサボっているのがレミリアにばれて、食事抜きとか串刺しの刑などに処されたりするのだが、それでも懲りることなく吸血鬼の従者という厄介な職をこなしている。
 何故、と問われても、その答えを述べられる者は誰もいないだろう。
 無論、当の十六夜咲夜にしても。

「……咲夜はいる?」
 部屋の中に控えているのは理解しているが、口に出さなければ出て来れないのが従者という生き物だ。暗がりから音もなく現れた従者に、レミリアは思わせぶりな口調で話し掛ける。
「空を御覧なさい。憎らしいくらいの、満ちた月」
「そのようですねぇ」
 内心は暴れ出したくて仕方のないレミリアだったが、従者の手前、衝動のままに暴走することはできない。
「こんな夜は、あなたと出会った時のことを思い出すわ……」
 咲夜は何も言わず、主の見詰める月を共に仰いだ。
 神々しい満月光線を全身に浴びて、紅く染まる二つの影。
 口を開いたのは、咲夜が先だった。

「それ、三日月の時じゃありませんでしたっけ」

 ……うん? と首を傾げるレミリア。
「そうだったかしら?」
「いえ、私もはっきり記憶している訳ではないのですけど」
「満月だと思ったけどねぇ……。違ったかしら」
 わりと適当だった。
 満月になると、テンションと能力が向上する代わりに、多少なりともいかがわしい電波が混入するらしい。例えば、太陽がうざったいので湖を中心に濃い霧を展開するとか。
「でも、あのときの咲夜は凄まじかったわね」
「お恥ずかしい限りで」
 咲夜にしろ、あの日の邂逅は運命的であると同時にレミリアの前で見せた唯一の羞恥であった。
 ゆえに、咲夜は従者となった今でもあれ以上の醜態を晒すまいと決めたのだし――。
 レミリアは、咲夜の決意も知らずに運命の日を思い返す。

「咲夜ったら、ボロボロのズボンにノースリーブ、胸にハートのアップリケを付けてた。頭にはシルクハットを深々と被り、五寸釘を握り締めながら懐中時計と睨めっこして……」
「懐中時計しか合ってませんが」

 気分を害したふうもなく訂正する咲夜に、レミリアはただ苦笑する。
 この時点で暴走がもう既に始まっていたことを咲夜は理解するも、話の腰を折るとこちらの腰も折られかねないので、下手に会話を中断することも出来ない。
 全く、厄介な主である。
「ちなみに、その時はちゃんとした服を着てたじゃないですか」
「服なんて瑣末なことはどうでもいいのよ」
「はあ」
 生返事が多くなる咲夜にも構わず、話したいことを適当に話し続けるレミリア。紅い瞳の吸血鬼も、こうなると性質の悪い酔っ払いと大差ない。
 下手に人間の血液を求めて幻想郷中を徘徊しない分、まだマシなのかもしれないが。
「ねぇ。あなたが初めに私に言った台詞、覚えてる?」
「一応は。あまり思い出したくはありませんが」
「そうね。『声が、遅れて、聞こえるよ?』なんて錆び付いたネタを自慢げに披露するもんだから、もう嘲笑をこらえるのに苦労しちゃってププッ」

 殺ス。

 と、そんな微笑ましい呪詛を心の中で押し潰して、咲夜は言い訳を試みる。
「いやまあ、当時はそれなりに流行ってたギャグなんですけど……。と言いますか、やってないですから。確かに、時間を止めさえすれば声が遅れて聞こえることもやぶさかではないでしょうが」
「一芸入試はお断りよ」
 手をひらひらと振る。
 ……どうしたもんか、と首を捻る咲夜だが、いまいち有効な打開策が見付からないので、現状維持の放置プレイに決定。完全で瀟洒な従者を演じるのも大変だ。
「聞いてる? 私はね、あなたがもう少し慎みを持ってくれれば良いと思っているだけ。具体的には、奇声を上げながら鶏小屋の鶏を一匹残らず切り裂いたり、パチェを絞め上げてより紫色に仕上げたり、スキマを縫ったり、靴の右と左を逆にしたり、炭酸を振ったり、辞書のいやらしい語彙に傍線を引いたり、そんなちっぽけな軽犯罪の積み重ねが、十六夜咲夜という人間を形成しているんだから」
「文法おかしいですよ。しかも、最後のところ綺麗にまとめようとして見事に失敗してますし」
「……そんな、ちっぽけな殺人行為の積み重ねが?」
「言い直さなくていいです」
 チッ、と陰惨な目付きで舌打ちし、座っている椅子の裏側から一枚のスペルカードを取り出す。
 次に起こるであろう凄惨な事件を咲夜は事前に予期していたが、どう転んだとしてもこの事態を回避することは出来なかっただろうと考える。今日の日に、レミリアと咲夜が正面からぶつかり合うという運命は、レミリアの手によって既に決定していたに違いないのだし。
 咲夜は、裾の端から一枚のカードを取り出す。裏面のデザインは、図ったようなハートのエース。
「別に、争うための理由付けなどしなくてもいいでしょうに」
「そういう訳にもいかないわ。今更だけど、あのギャグに腹が立ってきたのも事実だし」
「ですから、やってませんてば」
 のらりくらりとやり過ごすのも、これが最後。
 舞台の幕が開き始める。紅い光のカーテンが、これから血に染まるであろう惨劇の舞台を予め彩ってくれる。
 余計なお世話だ、と咲夜は天上の月に毒づく。
 苦い顔をしている彼女に、レミリアは愉快な笑みを送る。それだけで、レミリアが満足していると分かるくらいの。
 それ程に、彼女は興奮しているということか。
 出来が良いか悪いかはっきりしない自分の従者と、己の存在を賭けて潰し合う機会を獲得したことに。
「それにね、あの日もこうして互いの力を交え合ったでしょう?
 たとえあなたが忘れても、私はあなたを覚えている。あなたが私を離しても、私はあなたを離さない。――記憶の奥底にでも沈めておきなさい。あなたが私の隣りに佇み、呼吸することが許されているという奇跡を」
 レミリアは微笑み、咲夜は背に走る稲妻の音を聞いた。
 人間が適う存在ではないと否応なく叩き付けられても、退くことは許されない。
 主の我がままに付き合うのも従者の役目。レミリアの言う通り、確かに従者は厄介な生き物なのだろうと咲夜自身も思う。
 溜息をもらし、見上げた窓には吸血鬼。
 満月を背に、永遠に紅い幼き月は慎ましやかに咆哮する。

「終われ。終われ。終われ。
 ――『レッドマジック』」

 その声を聞き終えてから、完全に瀟洒な従者も見目麗しく絶叫する。

「突き、刺し、穿ち、貫き、断ち、切り、裂き、壊す。
 ――『エターナルミーク』」

 そして。
 終わらない夜が、その幕を開けた。

 

 



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一日一東方

五月七日
(紅魔郷・レミリア)

 


『弱点はどこ?』

 

 レミリア・スカーレットは吸血鬼であり、他を圧倒する力を持っている代わりに、どうでもいいものに弱い。
 その代表格が太陽より降り注ぐ光で、その次が流れ水、にんにくと続く。しかし、十字架には強い。というか、他の吸血鬼がどうしてそんなものにやられなきゃならないのか常々疑問に思っているとか。
「……つくづく不思議ですよねぇ」
「他の連中がちゃらんぽらんなだけよ」
「もしくは、レミィの神経が図太いとかね」
 テーブルに置いた本から目を逸らさず、鋭角につっこむパチュリー。レミリアが何も言わないのは、この程度の刺々しさでは逆上するに値しないからだ。怒るのにも体力が要る。
 ――二週に一度、紅魔館の運営に関する議題が提出される紅魔管理委員会。
 レミリアが提案した会合だが、主に会議を取り仕切っているのは従者の十六夜咲夜で、実質的には雑談パーティーと化している。その中で改善すべき点を拾い上げ、会議委員長の咲夜が紅魔館の代表者たちに意見を聞く、というのが基本スタイルである。
 今回の議題は、『お嬢様(レミリア・スカーレット)の弱点について』。
 レミリアの機嫌を損ねる虞がある話題だけに、講堂に残っているのはレミリア、パチュリー、咲夜、小悪魔、本当は逃げ出したかったが咲夜に書記を命じられた美鈴の五名ほどだった。
「鰯の頭はどうですか?」
 咲夜の問いに、渋い表情で首を振るレミリア。他にも、粗塩、炒めた大豆、枡寿司やブルーチーズも苦手らしい。後半は単に偏食っぷりをアピールしているだけのようにも聞こえるが、実際に確認してやろうという猛者は何処にもいなかった。
「で、十字架は平気だと……。にしても、付け入る隙の多い種族ね。意味もなく燃やしたくなるわ」
「じゃ、そういうバチェはどうなのよ。やっぱりシロアリとかシミが天敵?」
「……残念ながら、私は書物でも建築物でもないの。知らなかった?」
 一瞥もくれずに皮肉を返すパチュリーと、全く気にも留めずに話を続けるレミリアの間に挟まれて、おろおろすることしか出来ない小悪魔。無言で記録を取り続ける美鈴は、本来なら小悪魔がこのポジションにいるべきなんじゃないかなぁと心の中で涙を流す。
「埃も苦手そうよね。蔵書が多ければ多いほど埃は溜まるし、つまり貴女のやっていることは、自分で自分の首を絞めるという自虐被虐行為なのよ。……うーん、真性マゾヒスト?」
 可愛らしく小首を傾げる。純真無垢な正真正銘の悪魔からの質問に、居候の魔女はこめかみに静脈を浮かび上がらせながらも模範解答を用意する。
「……そうね、どうしてこんなのと友人になったのかと自分を責めてしまうだけの被虐心はあるわね」
「ふーん。私もサディストだからちょうどいいかもしれないわね。友人の他愛もない一言に絞殺で応えてしまいそうな私がいるのも確かだし」
 咲夜は、彼女たちの空間が軋んでいる様相をつぶさに感じ取った。
 そんな彼女らに挟まれている小悪魔が、その異常性を感じない訳がない。
「あ、あのぅ、そろそろ解決策を提示しないと……」
 震える声が憐憫を誘う。が、胸を打たれたのはただ美鈴のみ。
「そういえばパチェ、炒めた大豆を使った新しい魔法の実験をやっていたわね。あれはつまりそういうこと?」
「鬼が鬼なら、吸血鬼も吸血鬼よ。詰まらない弱点があるものこそ、絶大な能力を誇っている。確かにあなたは強い、けれども詰まらないものであっさりと敗北する。……言われっぱなしっていうのも癪だからね。
 いいわ、久しぶりにパチュリー・ノーレッジの実力を見せてあげましょう」
 読み進めていた本の隙間から、一枚の栞を取り出す。
 あぁあ、と破綻する現状を憂う小悪魔をよそに、レミリアもまた自分の爪を弾いて一枚のカードを瞬時に構成する。
「あぁぁ、私って役に立ってない……」
 落ち込む小悪魔に、そんなことないですよーと美鈴がすかさずフォローを入れるが、発言時の音声が限りなくミュート近かったため、弾幕喧嘩をおっ始める彼女たちの宣言に上手いこと遮られてしまった。
 先手はパチュリー。引いた栞は、見る角度によって色が変化する特殊コーティング製。

「称えよ、我はあまねく全てを創造せし
 『賢者の石』」

 彼女たちの衝突が避けられないと判断した瞬間、小悪魔は飛び上がるまてもなく咲夜の隣りに腰掛けている自分に気付いた。どうやら、時間を停止させてまた窮地を救ってくれたらしい。何事もなかったように事態の行く末を見守る咲夜に、そっと頭を下げる小悪魔。
 美鈴は、レミリアの宣符により悉く駆逐されるテーブルから、死に物狂いで退避している最中だったのだが。

「克目しろ。我は、紅き真円に君臨せし
 『クイーン・オブ・ミッドナイト』」

 連鎖する破壊、四方八方から襲い来る七色の閃光と、ありとあらゆる全てを紅く染め貫く高密度の弾幕放射。その中に紅美鈴の姿はないかと一応は目を凝らしてみる咲夜だったが、足元に息も絶え絶えの中国妖怪が臥せっているところから察するに、今回も霊安室のお世話にならずに済んだようである。
「お嬢様もパチュリー様も、お元気なのは良いことなんですけどねぇ」
「そ、そうですね……」
 小悪魔が控えめに同意する。
「参考まで聞いておくけど、あなたの弱点は? 耳の裏とか?」
「ひゃあッ! み、みみの裏に息ふきかけないでくださいぃ!」
「なるほど……。美鈴、小悪魔の方の弱点は『耳の裏』だそうよ。追記お願い」
「ち、違いますってばー!」
 顔色一つ変えない咲夜と、ころころと表情が変わる小悪魔。
 不意に笑みが零れてしまうような空気にも、美鈴は脈動する心臓が痛くて痛くて何も言うことができなかった。泣きたい。
 凄まじい爆音の向こうからは、ある意味微笑ましくもある遣り取りが響いて来る。
 喧嘩するほど仲が良いとは稀に聞くが、喧嘩をするのに理由など要らないと咲夜は思う。

「何よその目は! 昼間なんだからちゃんと開けなさいよ! 雌猫じゃあるまいし!」
「貴女こそ何なのよその手付きは! 手洗いを済ませた直後じゃないんだから、もうちょっと据わりの良い場所に置いときなさい! メイドの首とか!」
「メイドの首は絞めるためにあるんじゃない! 噛むためにあるんだよ!」

「無茶苦茶言ってますねぇ」
「はぁ……。咲夜さんも、苦労なさってるんですね……」
「ふふ、同情するならたまに代わってみるのも」
「それはちょっと」
 本気で嫌がられた。
 根性がない、と足元に転がる美鈴を見ながら咲夜は思う。
 ――本日の議題、『お嬢様(レミリア・スカーレット)の弱点について』。
 最終結論、『とりあえず満月の夜はにんにく食っとけ』。以上。
 ついでに、しゃくとりむしの気分を味わっている美鈴にも弱点を尋ねてみる。
「ねぇ。美鈴はどう? どこか弱いところはある?」
「……わたし、優しくされると泣きたくなります……」
「あらそう」
 最後の力を振り絞って上がった美鈴の首が、それを言い終えた瞬間に再び地面に不時着する。ごぎ、と鈍い残響音があたりに散らばった。
 ふと首を巡らすと、横で小悪魔が泣いていた。
 奇妙なこともあるもんだ、と咲夜は腕組みする。
 あちらこちらで破裂する虹色と紅色の弾丸を眺めながら、弱点が多いことと、弱者であることは全くの別物なんだなぁ、と唐突に思い至った。

 



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一日一東方

五月八日
(紅魔郷・フランドール)

 


『ブレイカー・ブレイカー』

 

「あははははははは!」

 哄笑が部屋に響き渡り、振り下ろした魔杖の先にあったナニモノかが砕け散る。
 それが何だったのか、破壊魔たるフランドールは覚えていない。自分と同じ形だったような気もするし、犬や猫や獣の類だったようにも思う。
「あは、ははははは……」
 標的がもう動かなくなったことを知るや、笑い声も次第に萎み、急激に気分が冷めていく。
「つまんないの。でも、まぁ、いいや」
 剣を象った炎の杖を下ろし、フランドールは炭化した物体を蹴り飛ばす。根元から折れたナニモノかが、今際の際に黒煙を放つ。
 遊び相手が居なくなった今、やれることと言えば眠るか食べるか歌うかぐらい。
 部屋の壁は時空間を捏造する者によって、如何なる衝撃をも無視する構造になっており、フランドールがいくら望んでもこの濁った空気の充満する部屋から出ることはできない。
 暇だ。
 心を亡くすと書いて忙しいと読むが、退屈もまた心を擦り切らせる。その有耶無耶を束の間の遊戯で晴らそうとしても、加減が上手くできないフランドールはすぐに相手を破壊してしまう。
 この時ほど、ありとあらゆるものを破壊する能力を疎んだことはない。
 緊張はなく、緩和の意味も知らない。退屈など身体の一部に思えて、充足しているのは身体を巡り続けている血液と魔力だけだ。他は何も知らない。自分の名前は知っているが、自分が存在する意味は分からない。
 あるいは、それもまた破壊してしまったのかもしれないが。

「……フラン?」

 ベッドに座って足を投げ出していると、外側からしか開かない扉が動く。
 その向こうに懐かしい顔を見付けて、フランドールは狂喜のあまり自分の一部を解放した。

「お姉様ぁ! また遊んでくれるの!?」

 スペルカードを展開する間もなく、少女の羽が揺らめき、紅い弾幕がドアに殺到する。
「あら」
 聞かん坊の妹を訪れた吸血鬼の少女は、目蓋に掛かった前髪を払う気軽さでその弾幕を擦り抜ける。
 被弾も掠撃もなく彼女が弾幕を潜り抜けられたのは、猛然と降り注ぐ横殴りの紅い雨に、レミリア・スカーレットを破壊するだけの運命を与えなかったからに過ぎない。
 この程度で、運命は破壊されない。
「あ……。ご、ごめんなさい、お姉様……」
 焼け焦げた扉と、やや厳しい面持ちで佇む自分の姉を窺い、肩を落とすフランドール。
 妹が素直に謝ったのを確認し、レミリアもすぐに表情を緩める。元より、叱る気などない。
「いいのよ。あなたに罪がないのは明らかだから」
「お姉様……」
 手には炎の剣を握り締め、今にも泣き出しそうに顔を歪めている。
 レミリアは、扉の側で燻っている炭を見下ろし、フランドールの心情を察する。
 フランドールに必要な処置は、能力の封印でもなければ、存在ごと隔離幽閉することでもない。彼女自身も口にしていたように、ただ、遊んでやればいいだけなのだ。
 五百年の時を生きる吸血鬼は、五歳離れた妹と相対するために相応な覚悟を決めた。後ろ手に扉を閉め、紅魔館とは次元の異なる空間で二人は向き合う。
「いいわよ。ただし、カードは切りなさい。遊びにもルールが必要だから」
 遊戯の前の説明を聞き、初めは理解が追いつかずに曇っていたフランドールの顔が、ものの見事に晴れ渡る。ベッドの下から数枚のカードを引っこ抜き、嬉々とした笑みを浮かべ、部屋を染め抜いた紅色よりも濃い紅の瞳を爛々と輝かせて。

「さあ、遊びましょう!
 うれしい、うれしい……! お姉さまぁ!」

 符を翳すのが先か、杖を振るうのが先か。
 運命を介在する余地のない、高密度に収斂された炎の刃。頭長から股関節まで、実の姉に浴びせられるとは思えぬ無慈悲極まりない殺意。
 焼け爛れる空気。
 熱を熱とも感じられない外圧に身震いしながら、それでも、運命を司る悪魔は悠々と宣符する。

「遊んであげる……。私の、可愛い可愛いフランドール。
 裂ける夜。割れる空。昇る紅。
 『不夜城――』」

 剣がレミリアの頭頂部を打つ。
 帽子が灰と化し、頭蓋の表皮が左よりに剥ける。
 レミリアの視界が紅に染まったのは、彼女が血と炎に染められたからではない。
 ただ、彼女が紅い柱を背負い、焔の剣を霧散しただけだ。
「――――」
 紅い人柱……この場合は、鬼柱とでも表するべきか。フランドールは、飛来する紅い弾丸にも目もくれず、柱の中心で浮遊する姉の姿に見惚れていた。
 その一方で、弾け、跡形もなく消え失せた魔杖の残滓がレミリアに降り掛かるも、その程度の弾ではレミリアに当たらない。
 レーヴァテインが解除されたことを確認し、消滅した帽子を零れた血から再生する。同時に、血液を媒体にして生み出した蝙蝠が頭に止まり、見る間に崩れかけた頭蓋を補填する。
 再生の経緯を確認し、ぽつり、思ったままを口にするフランドール。
「素敵……」
 恍惚の表情を垂れ流し、フランドールはふらふらとレミリアに歩み寄る。
 その無防備な侵攻を遮るように、レミリアが先手を打つ。

「あなたに、私を破壊できるだけの運命はあるかしら。
 少しだけ、運命を変えてあげる。出来るなら、定められた運命ごと私を破壊してみせなさい。
 あなたが、あなたである証として。
 ――その、運命を知れ。
 『スピア・ザ・グングニル』」

 死の宣告と共に、決して避けることの出来ない神槍を放つ。
 台詞の意味はわからないが、フランドールは直進する運命の槍を害なす魔杖によって迎え撃つ。

「消えて無くなれぇっ!
 『レーヴァテイン』!」

 振り切る。床を破壊する可能性など微塵も考慮に入れず、投げられたボールを打ち返す軽快さをもって、月のように紅い剣を振る。
 二度目の斬撃は、しかし紅い槍には当たらなかった。
 確かに触れはした。が、単なる斬撃では神撃を止めるまでには至らない。槍は剣の胴を貫き、空間そのものを歪ませながら、剣を振り下ろした体勢のまま、硬直しているフランドールを射殺すために突き進む。
 速い。
 宣符する暇も与えられない。あまりにも槍が紅いせいで、この向こうにあるはずのレミリアの苦笑する姿が見えないことが、フランドールにとっては何より辛いことだった。
「…………あ」
 運命を覆せ、と姉は言った。この槍は自分の心臓を貫くだろう、しかしそれは運命だから仕方がない。
 そうして、鈍い音がフランドールの内側から響く。
 亜音速で飛来した弾槍が左胸に着弾し、フランドールは背後の壁に文字通り縫い付けられる。大きく開いた七色の羽が、昆虫採集の趣を伺わせた。
 骨が砕け散り、皮膚が焼け爛れる。肺は自分のものですらないようで、足と手の指先から痙攣が広がっていく。
 今まで自分が焼け焦がしていたナニモノかの気分を一瞬だけ味わい、予想以上に痛みに少しだけ顔が歪む。
 けれど、これで運命は捕まえた。
「あは」
 フランドールは嗤う。深々と突き刺さった槍の柄を掴み、唇の端から血を垂らして愉しそうに笑う。
 紅い霧と煙が晴れ、弾幕の彼方に愛しい姉の姿が見える。沸騰する神経と脳漿の詳細を把握し、フランドールは、自分がこの上なく興奮していることを実感した。

「あ…………。
 あははははは、あはははははは! ははは、あはははははははははははぁ!
『そして誰も――――』!」

 愉しい時には誰しも嗤うものだ。
 だから、多少なりとも狂った哄笑が耳障りだったからといって、フランドールから意識を逸らすべきではなかった。運命の槍で彼女を壁に縫い付けたことが、決定打になるはずなどないと理解していたのに。
 フランドールは掻き消えた。吸血鬼採集に用いられる紅い槍を置き去りにして。
 やがてその槍を中心として、紅、青、黄、緑、白、黒の弾丸が、人魂のように浮かび上がる。葬送列車を見送る灯火にも似て、暗く、寂しい色をしていた。
「……その程度で、運命が破壊できると思って?」
 皮肉に呼応するように、人魂が揺らぐ。
 レミリアを取り囲むように発生した弾丸は、逃げようともしない彼女に全方位から襲い掛かる。
 が、当たらない。レミリアが動いたのはわずかに一歩。レーヴァテイン程度の密度でなければレミリアに傷を付けるのは不可能。フランドールがそれを知らないとは考えにくい。
 ならば、これは布石。

「破滅幻想。
『ヘルカタストロフィ』」

 色とりどりの人魂の海で、藁を掴むように右手を伸ばす。
 レミリアの首に、少女の華奢な腕が二本、レミリアの腕に、少女の豪奢な羽が七色ほど絡み付く。
 うなじに触れられ、荒く震える吐息を喉元に浴びながらも、レミリアは表情ひとつ変えることはない。
「やっと、捕まえたぁ。お姉さまあ――」
 親愛の印として、首筋に歯を突き立てようとする妹の頭を、片方の腕で撫でる姉。

「鬼ごっこは私の負けね。でも、両方とも鬼だから、所詮意味のない遊びだったのだけど」

 右手に萃まった紅く丸い弾を、即座に握り潰す。
 刹那、レミリアを守護するように、十数の不夜城が乱立する。地面から生え、天井に達した紅き十字架の群れは、レミリアの血を嗜もうとしたフランドールを完膚なきまでに蹂躙した。
「――――」
 悲鳴のようなものは、レミリアに届かず。暗転する意識の果てで、愉しかった、と笑っている自分の心をフランドールは確認した。

 

 左手に妹の感触が無くなって数秒、部屋には一つの弾も見当たらない。運命の槍も害なす魔杖も使えなくなった玩具も消え失せ、残ったのは息も絶え絶えのフランドールと、最後まで彼女に運命を破壊されなかったレミリアのみ。
 意識もなく、それでも安らかに眠っている妹の寝顔を、優しく撫でる。
「……楽しかった?」
 返事はない。が、レミリアは満足げに微笑む。
 あと僅かの時間が過ぎれば、咲夜が遊戯の終わりを告げにやって来る。
 だからせめて、遊び疲れて眠る妹の身体に、もう少しだけ触れていたいと願う。
 決して燃えることのない紅い部屋の中で、どこまでも紅く染まった姉妹が二人、安らかに寄り添っている。
 レミリアが姉としてフランドールにしてやれるのは、ここまで。
 カードを切り、ルールを守れ。
 そうすれば、いずれ運命は破壊できる。役立たずの玩具ではなく、どこまでも普通の人間が、この狭い部屋から連れ出してくれる。

「それまでは、私が遊んであげる」

 焦げ付いた妹の服を撫ぜ、露になった肌をさすりながら、レミリアはとても可笑しそうに笑っていた。

 



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