岸壁の天使 5
しばらく泣いてエフェが落ち着いたころ、お母さんは何気なく尋ねました。
「いったいどこに行ってたんだい」
「・・・・。」
その答えを、エフェは少しためらいました。どうして、でしょう。
「・・・村はずれの、岩の上」
と、お母さんは顔色を変えました。
「あんなところに!危ないから岩場に上るんじゃないって、いつも言ってるだろ!」
ぱちん!ぱちん!ぱちぃん!
わ、え、それは。
私は慌てて声を出しました。不思議なくらいごく自然に、背格好どおりの男の子の口調になって。
「あの、あのあの、おばさん、それは僕が悪いの。岩場にいて、エフェを誘ったから」
お母さんは顔を上げてはじめて私をご覧になり、すこし目を見張りました。
たぶんそれまで私はお母さんの目に入っていなかったのです。私たちって、ときどきそういうことがありますから。
「おや、見ない顔だね。どこの子だい?」
私は返事に困りましたけど、ありがたいことにお母さんは先を続けてくださいました。
「この子についてきてくれたのかい?それは、お礼を言わなきゃいけないねぇ。でも」
私の心臓はどきん、と弾みました。
「あんたも岩場に上ってたのかい?」
その先のあんまりうれしくない展開を予想して私は一瞬ためらいましたけど、でも、このことでエフェがこれ以上叱られるのは嫌でしたし、何よりそれが事実でしたから。
「うん、僕が先に上ってて、エフェを呼んだの。だから、エフェのこと怒らないで」
お母さんは、苦笑してエフェに言いました。
「あんたもいい友達を持ったもんだね。でも、そういうわけにはいかないよ」
エフェも、うん、と頷きました。
「約束したからね、岩場には上らないって。忘れたのかい?」
ぱしん!
せっかくお仕置きが終わったはずだったのに。私はまた身を竦めましたけど、エフェはちゃんと言うべきことを知っていました。
「覚えてた。ごめんなさい・・・」
お母さんはもうひとつエフェのお尻を叩きました。
ぱしん!
「友達が何と言ったって、あたしはあんたと約束したんだからね。もう上るんじゃないよ?」
「・・・うん」
返事を聞くとお母さんはエフェを膝から降ろしました。
「いい子だ。・・・悪いけど、お昼はちょっと待っとくれ。あたしはこの子とも話をしなきゃ」
聞いて慌てたのはエフェでした。
「え、母さん、だって、僕のために付いて来てくれただけなの、だから」
お母さんの返事はきっぱりはっきり。
「だぁめ。あたしがこの子に話があるんだから。黙って待っといで。」
エフェは申し訳なさそうな目で私を見ました。
私を心配してくれるエフェはとても優しくて。
それ以上の心配を掛けたくなかったから、私は微笑むことができました。
怖かったんですけど、でも、エフェに想われてることがうれしくて。
それにエフェが、さっき、お手本を見せてくれたから。
「ありがと、エフェ」
そう囁いてエフェのお母さんの正面に立つと、お母さんは私の目を覗き込んでおっしゃいました。
「あんたたちはいい友達みたいだけど。それは一緒に危ないことをするのが当然だってことじゃないんだからね?」
「・・・うん。ごめんなさい」
「いい子だ。あんた、名前は?」
そういえば、名乗っていませんでしたよね。「ミュニック」
人間から名前を聞かれるのは初めてで、私はすこしはにかんで答えました。
「ミュニック、あんたお父さんやお母さんから岩場に上っちゃいけないって言われたことはないのかい?」
「うん」
決して言い訳ではなくて。残念ながらその機会はなかったので、私はそう答えました。
お母さんは溜息をつきました。
「おやおや。じゃあ自分で考えなきゃね。
あんなに高い岩場、落っこちたら怪我をするだけじゃ済まないって、わかるだろ?」
私はすこし考えて、頷きました。岸壁の向こうは海、岩に波が打ち付けています。翼を持たない人の子であれば、そちらに落ちればまず命を失うでしょう。山側に落ちたとしても岩場のこと、打ち所によって怪我で済むかどうかは微妙なところです。
「よし。それにあんたは知らないかもしれないけど、あそこは時々不意に海から突風が吹くんだよ。あんたたちみたいな小さな子は、風にあおられたら一発で飛んでっちまうよ。
あんたのご家族がそれをまだ知らないんなら、あんたから教えてお上げ。
あたしの言うこと、わかったかい?」
噛んで含めるような語調は、私を素直に頷かせる力を持っていました。
それでも、内心はやっぱり怖かったのです。
ちゃんと最後まで素直でいられますように、エフェみたいに。
次のお母さんの言葉よりさきに私はそれを祈っていました。
「いい子だ。じゃ、おいで。
二度と同じことをしないように、あの岩場に上ったらどうなるのかを
お尻に教えてあげるから」
・・・。やっぱり、怖い。
でもエフェが心配そうに見ているから、怖くて逃げ出しちゃいたい気持ちを抑えて私はお母さんのお膝に体を預けました。
そのとき、私はふと思い至りました。いまの私とちょうど同じ状況の、さっきのエフェの素直さに。私はついてくるだけしかできなかったけど、もしかしたらもすこし余分にエフェの素直さの助けになれたのかもしれない。そうだと、いいのに。
そう思うことは、不思議に私に力をくれたみたいでした。
ぱしん!
「痛・・・」
ぱしん!
「あそこの崖から落ちたらこんな痛さじゃ済まないんだからね」
ぱしん!
「うん・・・」
確かに、あそこからエフェが落ちたらと思うとぞっとします。
ぱしん!
「あんなところに上ったら危ないって、ちゃんと考えたらわかるだろ?」
ぱしん!
「うん・・・ごめんなさい」
お母さんは手を止めて私を抱き起こし、私の目を見ておっしゃいました。
「じゃああたしと約束してくれるかい?危ないことはしないって」
「うん、もう岩場にエフェを呼んだりしない」
これは私のまじめな約束だったのですけれど、エフェのお母さんはたいそう妙な顔をしました。ちょっと目を見張って、そして私が冗談ではなくそう言っているのだと悟ったせいでしょう、口元には苦笑のようなものがすこし浮かびました。そうして、次にはそれを隠してしまって口調を改めて言いました。
「そうじゃないよ、ミュニック」
もう一度私はお母さんの膝の上に横にされてしまい、ぱしぃん!と大きくはたかれました。お尻はとてもとてもじんじんしたのですけれど、これはただ一発っきりだったみたいでした。
「エフェが上るかどうかは、エフェが決めることだよ。あんたのせいじゃない。
あたしはそんなことを言ってるんじゃないよ。上ったらあんたが危ないだろ、って言ってるのさ」
えーっと。えっと、あれ?
確かに、私は私が落ちて怪我をするなんてこと、まったく考えませんでしたから。
翼があれば、その心配はまずありませんからね。
けれど、いまの私はまったく普通の男の子でもあるわけで、それはもちろん、エフェのお母さんがそうおっしゃるのももっともでした。
じんじんとお尻が痛んでいます。
えっと。
どんな言葉を返したらいいのか、私は考え込みました。私は大丈夫ですから、なんていくらそれがほんとでも、心配してくれるお母さんにはまさか言えませんよね。
でもごめんなさい、危ないからもう上らない、って言うこともできませんでした。いま私は男の子の姿ですけど、でも、その言葉はほんとうじゃありませんから。
よく考えて。ふとその励ましが耳をよぎったとき、私の口は答えを紡いでいました。
「・・・おばさん、・・・ありがとう」
何で一瞬でも迷ったんだろうと気がついたら不思議なくらい。
それは掛け値なしに私のほんとうの気持ちでしたから。
私を心配してくれて、ありがとう。その気持ち、わかってなくてごめんなさい。
いつの間にか私は抱きかかえられていて、そして傍に来たエフェが囁いていました。
「僕も、天使さまが落っこちちゃったらやだよ」
私は笑おうとしたのに、どうしてか涙が一粒こぼれました。
ひとは優しくて、広い。
時々荒れるかもしれないけれど、厳しかったりもするけど。
とても優しくて、たくさんのものを受け入れて。広い広い海のようで。
エフェの囁きは聞こえなかったらしいお母さんは、最後にエフェと私を一緒にぎゅうっと抱きしめて台所へと向かわれました。私はエフェと微笑を交わし、すると、不意にもとの身体に戻っていました。
目を丸くして、でも抱きついてきたエフェを抱き返して。そうしてお母さんを追って台所へと向かうエフェの背中を見送ってから、私は翼を広げたのでした。
end
2007.01.13 up
や、5は蛇足かなとも思いつつ・・つい。
これはこれでおしまいです。