そのお屋敷は、薔薇館として知られていました。
それはもちろん、お屋敷のお庭の薔薇がそれは見事に咲くからでありました。
ところが、いつのころからか薔薇は滅多に花をつけなくなりました。

朴訥な庭師が変わらずに丹精込めていることは誰しも承知のことでしたから、人々は不思議なことよとその理由を様々に取り沙汰しました。ある者は夭逝した奥方様の悲しみのせいだと、またある者はお屋敷に残されたお嬢様のせいではないかと噂しました。先年の流行り病を持ち出す者もおりました。
けれど寡黙な庭師は何を聞いても目を伏せて首を振り、きょうも黙って鍬を入れ、肥料を撒き、枝を切り、様々に手をかけるのでした。応えてくれるかどうかわからない庭に対して。


薔薇姫の棘 1

「エリザ、今日から新しい先生がいらっしゃる。10時には勉強部屋にいなさい」
朝食の席でのご領主の言いつけに、エリザは返事をしませんでした。
返事は、とご領主は娘をたしなめようとして、けれどそれを押しとどめました。
いずれにせよ娘は返事をしないだろうことが、自明のように思われたからです。

ご領主は、娘に気づかれないように小さく溜息をつきました。
まったく、いつからこのようなことになってしまったのだろう。

お屋敷のお嬢様は、たいそう我儘な子供だというのが使用人の間では周知の事実となっていました。
実際、今日来る家庭教師はここ2年の間で5人目なのですから無理もありません。
娘の悪意ある悪戯に耐えかねた者、そのやる気のなさに匙を投げた者、ともかく娘は新しい教師が来るたびに追い出すことに成功していたのです。

昔はこのようではなかったはずなのだが。
ご領主は妻の忘れ形見である一人娘を深く愛しておられましたが、厳しく叱っても優しくたしなめても何ら反応のないこの娘に困り果てていたのも事実でした。ご領主はいつからか娘の笑顔を見た覚えもなかったのです。


刻限の10時。もちろんエリザは、時刻には部屋にいませんでした。
「グラスランドさま、こちらです・・・・・あら・・・・・やっぱり」
案内をしてきた侍女のリリィは溜息をつき、恐縮しきって教師を振り返りました。
「申し訳ございません、お嬢様はお部屋にいらっしゃらないようですわ」
済まなそうな目を向けられたグラスランドは笑って答えました。
「構いませんよ、それが僕の仕事ですからね」
グラスランドはリリィに部屋の窓をすべて開け放つのを手伝わせ、彼女を下がらせるとエリザのいないことなんて気にしないかのように部屋の検分を始めたのでした。

何よ、余裕ぶっちゃって。エリザはグラスランドの言葉をちゃんと聞いていました。
勉強部屋に面した中庭にはあちこちに小さなエリザを隠してくれる茂みがあります。
エリザはいつも一人きりで長い時間を中庭で過ごしていましたから、お部屋が見えて見つからない場所を見つけるなんてお手の物でした。

窓を開け放った勉強部屋は、5月の光が差し込みレースのカーテンがはためいて輝いています。もとよりお屋敷の調度はどのお部屋も長く使い込まれた美しいものでしたし、代々の住人の趣味がよかったのでしょう、それなりにシンプルで機能的なものでした。

まず手始めにグラスランドは開け放った大きな扉から中庭へのテラスに出ます。
目敏い彼はその先に子どもの足跡を見つけましたけれど、微笑んで何も言わずに。
毎日掃除はされているようではあるのですが、おそらく先日までは勉強部屋は使われていないもの、といった認識での手間の掛けぶりだったのでしょう。端のほうがすこし傷んだ木の床を眺め、今朝掃いたあとに落ちたのだろう千切れ葉を拾って庭に戻し、そうして彼はくうっと伸びをして中庭を見渡しました。
「おはよう、エリザベス。素敵な庭だね」
はっきりとした声で呼びかけると、返事は待たずに部屋へと戻っていきました。

やだ、中庭にいるって、ばれてる?
エリザは悔しく思いましたけど、もう少し様子を見ることにします。グラスランドは茂みには目を向けませんでしたから、ここにいることまでばれているのではないようです。
実際、グラスランドは小さな生徒がどこかで彼のことを見ているだろうとは思っていました。足跡を見てそれが中庭のどこかだろうということもわかりましたが、それ以上探すつもりはありません。追いかけっこをして捕まえ損ねては目も当てられませんしね。

本棚に並べられている本は、八つのお嬢さんにはすこし難しすぎるものばかりかな。
グラスランドは部屋に戻り、まずは本棚を眺めました。少々古めかしい本は上の方に上げてしまって、空いたところに新しい本を3、4冊。
広いテーブルは採光のいい場所に、すこし窓際に移して二人分の椅子を配置。座ってみて光の加減を確かめて、椅子の高さはクッションで調整。

小ぶりに作られた書斎机の上には水木の花が一枝生けられて、そのおそらくはリリィの気遣いにグラスランドは微笑みました。机の上はそれひとつ。綺麗過ぎるくらいで逆にその使われなさを物語っています。
グラスランドは鞄からとある包みを出して、それを引き出しに入れようとしました。

そのとき、下から2段目の引き出しが少しだけ開いているのに教師は気がつきました。
と同時に、中庭から声が響きました。

「勝手に開けないでよ、バカ!」

グラスランドは引き出しにかけた手を離し、ゆっくり起き上がって中庭のエリザを認め、よく通る声で答えました。

「おはよう、エリザベス」

しまった、ともちろんエリザは後悔しました。ですがあのまま放っておいたら中を勝手に見られてしまったでしょうし、それはエリザにとって許せることではありませんでした。
逃げようかとも思ったのですが、エリザが立ち去ったらまた引き出しは開けられてしまうかもしれません。
一瞬ためらっているうちに、グラスランドはテラスまで出てきていました。

「君の言うことはもっともだ。済まない、謝るよ」
エリザは、すこしうろたえました。いままでエリザにそんなことを言った人はいなかったからです。

「この引き出しを君が使っているのなら、今後一切勝手に開けたりしないって約束する」
グラスランドは続けました。エリザが彼の言葉に固まっている間に、教師はエリザのすぐ隣までやって来ていました。

「それで、今日のレッスンを始めたいんだけど、いいかな?」

そう言うとグラスランドはエリザを抱きかかえて、勉強部屋へと運び込んでしまいました。
最後の言葉は疑問文だったくせに、エリザの返事も聞かずに。

「嫌よ!なんであんたの言うことなんか聞かなきゃいけないの!」
「なんで、って、君は生徒で僕は教師だからね。そして今日の授業は10時からのはずだっただろう?いまはもう10時20分」
グラスランドはエリザをソファーに下ろし、わざとらしく(とエリザには見えました)腕時計に目を遣りました。

「まずは自己紹介からはじめようか。僕はグラスランド=ヒースヘザー。
今日から君の家庭教師だ。よろしくお願いするよ」

グラスランドは立って優雅に礼をしましたが、もちろんエリザはそっぽを向いていました。
「君の名前は?」
構わず教師は尋ねましたが、エリザは答えません。

「エリザ、僕は君の名前を聞いているんだけどな」
「あんた、あたしの名前なんてもうとっくに知ってるじゃないの!ばかばかしい!」
むかむかしてエリザがつい言い返した言葉に、おや、とグラスランドは(またもやわざとらしく)目を見張りました。
「うん、確かに知ってるけど。僕は君の口からそれを聞きたいんだ。
初対面の相手には自己紹介をするものだよ?まして相手がそれを望んでいれば、なおさらね」

「うるさいってば!」
「付け加えて言えば、初対面の相手に・・・ううん、誰にでも、だけど、その言葉遣いはいただけないね。怒鳴ったりするものではないよ」
「そんなの私の勝手でしょ!」
「そうじゃないよ。言葉には相手がいるからね。
自己紹介のしかたがわからないなら教えてあげる。言ってごらん、『私はエリザベス=クレイ=ウッドワースです。よろしくお願いします』ってね」
「誰が言うもんですか!」

ふうん、とグラスランドは少し言葉を止めました。
エリザを上から下までじいっと見たのでエリザは少しひるみました。
「なにじろじろ見てるのよ」
「うん?このお嬢さんに最初のレッスンを習得してもらうには、どうしたらいいかなって考えているんだけど」
「はあ?とにかくあたし、あんたの言うことなんか聞かないから!」

「そうだね、言葉で説明してわかってもらえないようなら、ほかの手段をとるしかないね」
グラスランドはちょっと残念そうに、けれどさらっと宣言したのでした。


2007.3.2 up
毎回お仕置きのあるようなお話ではありませんが。
あ、でももちろんご想像通り、次回はありますよ(^^ゞ。
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