陸兄編。

双葉のいいところ


ぱぁん!と鳴った頬が俺のだって気付くには、数秒かかった。
大きく見開いた俺の眼に、俺以上にうろたえている双葉が映る。
ばたんと大きく音を立ててドアが閉まり、そして妹の姿は視界から消えた。
馬鹿、双葉、何やってるんだよ。

でも馬鹿なのは双葉だけじゃないって、痛い程に思うんだ。


***


俺が双葉の部屋に行ったのは、読み終わった漫画を双葉に回すためだった。
友達から借りたホラーだけど、夕べ目敏く見つけた双葉は「うわこれ漫画化されてたの?!しかもこのひと?!陸兄、読み終わったら絶対貸してね!」とか何とかあと俺には分からないことをいくつか言ってた。俺の方はそう熱心なわけでもなかったから、昨日の夕食の後は忘れてて、今日ふと思い出して読み終わって(あ、まあまあ面白かった)、それで。
ノックもしたし返事も聞いたし、・・・・・隠したかったんなら双葉にしては迂闊だな、とそう思うけど。

俺よりけっこう真面目な双葉は、机に向かって勉強してたんだ。(受験生だしな)
机の上に問題集とノートとそしてそれから。
いくらも転がってる文房具の中で、どうしてそれだけはっきり見えてしまうのかと思わないでもないけどさ、残念ながら俺は目がいい。
俺の貸した万年筆がぱっきりと折れた形で置いてあったりした。

「双葉、それ」
「え、何?、あ!」

それは高校の入学祝いに叔父から貰ったもので、実は俺はたいして使っちゃいないものではある。
けど俺はそのシンプルなデザインを気に入ってたし、叔父貴のことは結構好きだし。
貰ったときも双葉が羨ましがって、その後もちょくちょく借りに来たから、だからちゃんと片付けてたってところもある。
筆記用具なんてどうだっていいと思う俺でもその万年筆だけは別格で(使ってないにしても、だよ)、俺は俺なりにそれを大事にしていた。

「や、あの、これは」
馬鹿だと思う。たぶん、言いたかったんだろうに。
万年筆は、綺麗にしてあった。割れたら、インクとか洩れたりするだろ?
筆先も、折れた胴も、少しも汚れていなくって。
きっと双葉は壊した後で―――わざと壊すなんて思わない、壊れた後であれを磨いた。

けど、な。
「んと・・・だから・・・」
双葉は眼を泳がせて、言えないでいて。それで。

「人に借りたもの壊しといて、それしか言えないのかよ」
馬鹿だと思う。もう少し、待てなかったのかって。
言う必要、あったのかって。
もちろん言うけどさ、言いたいことも、言わなきゃいけないことも、そりゃもちろんあるけどさ。
間違ったことを言ったとも、思わないけど。
でも。

俺のその声はざらついて響いた。俺にとってもたぶん双葉にとっても、ひどく耳障りな声。
「だって、そんなつもりじゃなかったんだもん!」
「当たり前だろ、そんなつもりでされてたまるかよ」
ほんとに、馬鹿だと思うんだ。

「わざとじゃないもん・・・・」
「わかってるよ。でも、聞きたい言葉はそれじゃない」
聞きたい言葉はそれじゃない。
ろくでもないことばかり言ってる双葉に苛々した、けど。
もちろん双葉は謝るべきだけど、でも、それでも。

俺だって俺を制御できてはいないんだ。
双葉だって言いたかったんだろうに、ってことすらもう頭から飛んでる。

「だって、もう、やだ陸兄の馬鹿ぁ」
「いいかげんにしろって。逃げるなよ」
手を出さなかったのがせめてもだ。
どうしてくれるんだよ、と言いたいのだけはどうにか押さえ込んでる。

壊れたものはもう、どうしようもない。
だから言わねぇけど、だからって冷静になれてるわけじゃない。
誰か止めてくれ、って思うくらい。

でももちろん、止めてくれる人なんている訳がない。
「うるさいよ!買って返せばいいんでしょ?!」
双葉のその言葉は、さすがに冷水ぶっかけられたみたいなものだった。

買って返せばいいなんてわけ、ねーだろ。
「双葉、」
・・・。
俺は双葉の名前を呼んだけど、どう続けていいかわからなかった。
言うなら例えば本気でそんなこと思ってんのかとかそんなわけねーだろとか、そういう言葉だったんだろうけど。けどそんなこと。

馬鹿、双葉。そんなことは双葉だってどうしようもなくわかってる。

双葉が本気でそう思ってるなんて絶対に有り得ないくらいそれはひどい言葉だったし、
本気でそう思ってるなんて絶対に有り得ないくらいひどい、悲鳴みたいな声だった。
双葉。

言いたいんだろうに。否応なしにそれを思い出させられた。
それなのに、違う、それだから、か。
何を馬鹿なこと言ってるんだよ。

「双葉」
双葉は、自分のしたことを知ってる。
謝るべきなのも、買って返すなんて出来ないことも知ってる。
知っているからだ。知ってその重みに押しつぶされているから。
だから、こんな馬鹿なこと。

双葉の口から、そんな言葉を聞きたくなかった。
どうしたって、それは間違ってる。双葉がどう思ってたって。

「お前さ、悪いって思ってるときほど言い訳するその癖直せよ」

奥歯をきっと噛んでそして言い放った俺の言葉を聞いて息を飲んだ双葉。
双葉は、自分が間違ってるって知ってる。

ぱぁん!

逃げ出した双葉を、俺はとっさに追いかけられなかった。
好きにしろ、と思った瞬間、俺は自分がまだ相当に怒っていると気付いたのだった。


***


双葉のいない、双葉の部屋。
少し呆然としていた俺は、そのまま双葉のベッドに座り込んだ。
追いかけてやれよ、って内心の声がする。
それから、しばらくひとりにしといてやれよ、って声。
けどそのどちらよりも大きな面積を、知らねぇよ、好きにしろよって感情が占めている。
や、俺って、馬鹿だ。

じっとしていると、少しだけ、冷めてくる。
壊したの、別にわざとじゃないって知ってるのにな。
謝りたがってたのも、知ってる。

言いたかった、だから言った。
そういうときには、謝れ、って。
・・・そうじゃなきゃいけないんだし、その方が双葉自身楽なはず。
けど、そんなこと。

間違ったことは言ってない。双葉はときどきこうやって泥沼に嵌る。
ちょっとしたことだったら直ぐに謝れるのにな。
ちょっとしたことじゃないって双葉が思ってるから―――だから。

言いたかった。だって、馬鹿だと思うから。
けど。
けどそんなこと、双葉はとっくに知ってる、よな。
俺は、何でそれを言ったんだろう。双葉をわざわざ追い詰めてさ。

あいつは自分が悪いってわかってる。
ああいう言い訳は、そういうときしか有り得ない。
分かってるってわかってて、俺。

俺はたぶんまだ怒ってる。勝手にしろ、好きにしろとか思ってる。
―――だから?だから俺は、ああ言ったんだろうか。
わかんねぇ。

言った言葉は、誰のためのものだろう。
双葉のためだと、俺は双葉の眼を見て言えるんだろうか。
どうだろう。
傷つけるために言ったなら、それは双葉の言葉より性質悪いだろ。

コンコン、と軽くノックがされて。俺が返事をするより先にドアが開いた。

「陸、どうした?」
ここは双葉の部屋なのに。
ゆっくりした兄貴の声はここにいるのが双葉じゃなくて俺だってことを承知の響きだった。
困ってるんだろ、って含みにさっき奥歯を噛み締めた俺の口はほどけようとする。
そんな風に甘えてしまうのもどうだろう、と思うんだけどな。

「三咲兄。・・・俺いま、冷静じゃないかも」
でも実際、何をどう言うのかは結構難しかった。
兄貴に向かって双葉を責めたいわけじゃないんだ。
「俺の万年筆、壊した双葉が謝らなかったから。・・・謝りたそうだったのにさ」
俺も結構怒ってたから。だから、言い合いみたいになって。

「で、言ったんだ。悪いって思ってるときほど言い訳するその癖直せよ、って」
その一言は、言いにくかった。その言い難さが俺の内心を表してるって気もする。
やっぱこれ、俺、胸を張っては言えないかも。

でもそこまでどうにか話したら、兄貴の手がぐしゃぐしゃと俺の髪をかき回した。
こんなふうにされるのって、すげぇ久しぶり。

けどそのまま、兄貴は黙ってた。
俺の髪をかき回し続けたまま。
馬鹿だねって言われてるようでもあり、間違ってないって言ってくれてるようでもあり、 どっちとも判断つかない。

それで、俺は続けた。
「言う必要、なかったかも。でも、なかったとも思い切れない」

「双葉だって、とっくに分かってるのに。
けど間違ったこと言ったとも思えない。けど傷つけた」

傷つけちゃいけないか。それも分からないんだ。
いや、傷つけたって仕方がないとも思ってる。双葉が、間違っているときには。
けど、俺が、こんな風に口にした言葉が、ほんとに傷つけて仕方がないものだったかどうかは分からない。俺はだって、怒ってた。

「双葉のために言いたかったんだって、思う、思いたいけど。傷つけるために言った、かも。
わかんねぇ」

わかんねぇ、って吐き出すと、知ってたけどそれはやっぱり格好悪い言葉だった。
そんなの、兄貴に分かる筈ねぇじゃん。だって、言ったのは俺。
俺が思って、俺が言ったのに、兄貴に何を求めてるんだ。

叱ってほしいなんて、望めない。そう思うくらいなら自分で何とかしろって。
間違ってないってお墨付きがほしいってのも、格好悪い。俺ただひとりがしたことなのに。
そう思った俺は苦い息を少し整えた。
けどそれでも助言が欲しいのは確かで、兄貴は何て言うだろうと顔を見上げる。

ずっと俺の髪をかき回してた兄貴は手を下ろし、俺たちの視線はついっと交わった。
優しいような厳しいようなその眼差し。
と同時に面白がってもいるようなちょっと意地悪な、兄貴らしい視線でもある。
そうして三咲兄が口にしたのは、判断じゃなくて質問だった。

「陸五、おまえはどうしたいんだ?今これからしたいこと」
え?

あ、いま。今ね。
その質問は、難しくなかった。
俺がさっきどう思ってたか自信なくたって、いま、双葉を傷つけたいって望むなんてことはどうしたって有り得ない。
有り得ない、よな?・・・勝手にしろ、って気持ちが片隅に残ってたって(残ってるかどうか、それもよくわかんねぇ)、万年筆のことがやっぱ惜しかったって。俺まだ怒ってるかもしれないけど。
それでも、これから、どうしたいのかって聞かれれば。

「そりゃあ。双葉を手伝ってやりたいって、思うよ」
口からするっと出てきた言葉を耳にして逆に考えた。手伝うってどうすることだろう?
謝らせてやりたい、ってのとちょっと違う。だって双葉は、謝りたいって思ってるだろ。

双葉は、自分が間違ってるって知ってる。

「じゃあ、そうしろよ。双葉はリビングにいたから」
三咲兄は俺の返事を待たずに淡々と部屋を出て行った。
きっと兄貴は先に双葉の様子を見てきたんだろう。案外、俺にも双葉にも甘いんで。
その背中を見送って、俺はもう少しこの部屋で時間を貰った。
売り言葉に買い言葉で、双葉を余計に傷つけたいわけじゃないんだ。

どうすることができるかなんて結局はわからないままだったけど。
でもゆっくりと、俺は双葉の部屋を出てリビングに向かった。

リビングはもうほとんど真っ暗だった。灯きはじめた外の明かりがわずかに視界を支えている。
双葉の姿はぱっと見ただけでは見えなかったけど、人の気配ははっきりとした。
一歩、二歩、部屋に入って初めて妹がソファーの向こうに座り込んでいるのに気付く。
隣に行こうか迷ったけれど、結局俺はソファーの真ん中に腰を下ろした。

そんな狭いところに潜り込みたいほど不安でいるんだ。
馬鹿だな、双葉。
楽になる方法なんて、簡単なのに。

・・・・・。
何か声を掛けられるかって、俺は何度か試してみたけどだめだった。
また言い争いになるのが―――双葉が双葉の言葉に傷つくのが怖かったってこともあるけど、でもそれ以上に。
言えることなんてどれも双葉が知ってること、知ってるどころかそれに傷ついてることだったから。

言うべきことは、もう言った。
あれが傷つけるためだったのか、双葉のためだったのかやっぱり俺には分からない、けど。

いま双葉が何を考えてるのかはわからない。
俺に何か言ってほしいのかもしれないけど。
この重苦しい時間が早く過ぎればともしかして思ってるかもしれないけど。
けど、きっと、そうじゃないよな。
そうじゃないからそんなに苦しんでるんだろ。

俺は声を掛けようとするのもやめて、目を伏せて部屋の向こうの暗闇を見ていた。
早く言ってしまえよ、って思うのは本音だけど。
そんなの全部わかっててもがいてるんだろ。それなら。

手伝えることなんて何もなくても、待つことはできる。
ちゃんと、ずっと、待っててやるから。だからちゃんと来いよ。

さっさと謝っちゃえば楽になるのに。
そう思った俺はもう一度、うわ、俺って馬鹿だと内心思った。

謝った方が楽、それは事実かもしれないけど。
そんな気持ちで双葉は絶対謝れない。
俺はそうやって謝っちゃうことあるんだけどな。双葉はもっと真面目で、それで。

「・・・・・ふぇ・・・・あ、・・あの、」

双葉が、何か言いかけた。
聞こえないよ。
心の中で突き放すけど、でもさ。

いま待つことは少しも苦になることじゃなかった。
謝れよって思うのは、さっさと謝っとけよって思うのが本音なのは変わらないけど、でもな。

「・・・うっと、えっと、陸兄・・・」

双葉にとって言葉は重い。
それは双葉の、紛れもなく長所だ。

「・・・陸兄、えっと、あの。・・・・・。
・・・・あの、・・・ありがとう」

え?

双葉がどうにか絞り出した一言は、俺の耳にはっきり届いたけど。
それはもちろん予想とは違って、俺は驚く。
「うぇ・・やだ、何で、」
双葉自身もうろたえてるのがわかった。

ありがとう、って。俺は、お前を傷つけたんだろうけど。
傷つけたかったのかどうかはわからないけど、それはいまでもわかんねぇけど。
けど、俺の内心はともあれ、お前は言葉をまっすぐ受け取ったんだよな。
そうじゃなきゃ、あんなこと。

俺は双葉に手を伸ばした。すこし近づいて、その髪をぐしゃっと撫で回した。
さっきまで泣くこともできないでいた双葉は、ぼろぼろと泣いている。

「ふぇ〜ん・・・・・ごめんなさい、陸兄」

双葉さ、お前はすごく素直で真面目だよ。
双葉にとっては言葉も行為も、まっすぐ受け取っているから重いのだ。

重さに負けて逃げていいわけじゃ決してないけど、けどそれでも。
何とかしなきゃいけないって思ってる重さも、そんな双葉だからだろ。

ぽたぽたと泣きながら、ごめんなさい、とありがとう、を双葉は繰り返した。
ひどいこと言って、ひっぱたいて、・・・万年筆壊してごめんなさい。すぐ謝らなかったのも。
途切れ途切れに繰り返される謝罪に、俺は何も言えなかった。
もういいよ、気にしてない、ってことすらも。
・・・・・。言いたいだけ、言ってろよ、双葉。全部聞いといてやるからさ。

結局この日、俺はこれ以上何も言わなかった。
双葉が泣き止むまで付き合って、髪の毛くっしゃくしゃにして。
なんでそうなのかわかんねぇけど、絶対もうひとかけらだって怒ってない。
自分に対してもそう思いつつ。

叱られる必要なんて、ないよな、双葉。
泣き止んだ双葉がきゅっと奥歯を噛み締めていたから、俺は心の中だけで呟いたのだった。


2008.01.12 up

感謝企画リクエストいつつめのおまけ。相変わらずスパはありませんが・・・^_^;。
三咲兄の出番が思いのほか短くてびっくりでした。
書きたいことが伝わるように書けているかは謎ですが、 書くこと自体は大変幸せなのでした。

なおどうでもいいことですが、最近漫画連載の始まったとあるホラー小説を高校受験の傍ら
読了している双葉ちゃんは読書家ですo(^-^)o。早くコミックスにならないかな〜(←待ち)。

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