ぱたん、ぱたん、ぱたん。
機に向かう織り姫さまは気もそぞろでした。
ぱた、ぱたん。
布を織る手も途切れがちです。
「はぁ…」
これで仕事がはかどるはずもなく、もうお昼になるのに今日の予定の十分の一も
織れてはいません。
「あの方に、お会いしたい」
織り姫さまは牛飼いの青年に、深く心を奪われていたのでした。
目の前の進まない機。
やらなきゃいけないことだとは分かっているけど…。
「ちょっと、だけ。ちょっとだけならいいかしら」
織り姫さまは手を止めて、杼を手放して、また取って。
そうして意を決してカランとそれを放り捨て、ぱたぱたと立ち上がり外へ駆け出したのでした。
注) 杼 (ひ)…機で布を織るときに、横糸を通すための道具。シャトル。
「姿を見るだけなら、いいわよね」
外に出たとき、織り姫さまは確かにすぐ戻るつもりだったのです。
爽やかな風の中、暖かなお陽さま、織り姫さまは牛飼いがいる河原に向かいました。
遠くにその姿を見つけて、織り姫さまは足を止めたのですが。
もう少し近付くだけならいいわよね。もう少しだけ。
顔を見るくらいいいわよね。
ひとことご挨拶するくらいなら。ちょっとお喋りするだけだったら。
自分の心に呟きを重ねて、織り姫さまは止めた足をまた進めるのでした。
「あぁ、織り姫!よかった、会いたかったよ」
まだかなり遠かったのですけれど。
目敏く織り姫さまに気付いた牛飼いが手を振ると、織り姫さまも嬉しくなって駆け寄りました。
「私も!」
ふたりはすぐに我を忘れて、話に夢中になったのでした。
いいえ、本当は。
織り姫さまは時折やりかけの仕事を思い出していました。
遊ぶのもいいけれど、先にやるべきことをやりなさい。
天帝さまから釘を刺されていることを、すっかり忘れたわけではなくって。
だけどもう少し。
もう少しだけお話ししたい。
帰ってからがんばれば、何とかなるわ。
そうして結局織り姫さまは牛飼いとお喋りを続けたのでした。
「織り姫、お仕事はよいの?」
途中で牛飼いは尋ねてくれたのですけれど。
「だ、大丈夫よ、あなたこそ」
「僕もいいよ、君の方が大事だ」
別れたくなくってつい口にした言葉に絡めとられてどんどん帰れなくなって。
「ねぇ、朝会えなかったとき、さみしかった?」
「そりゃあ、もう。いま君が目の前にいて夢のようだよ」
織り姫さまは幸せで、そして苦くも思うのでした。
それでもいつかは日が暮れて。
夕日が差して、ふたりの頬は橙色に染まりました。
それでももう少し、少しだけ。
いつまでも一緒にいたい、そう思っても既に足元がおぼつかない程の暗さです。
ふたりは名残惜しくも身を切るような思いで別れました。
近くまで送ってくれた牛飼いの姿が見えなくなるまで見送って。
お家までのほんのひと辻を織り姫さまは立ちすくみました。
帰らないわけにもいかない。けれど。
手元は暗くて、もはや機が織れる時刻じゃありません。
やらなければいけなかったのに。
分かっています。やらなくていいとも思ってない。
機を織るのは織り姫さまの大事な仕事。嫌いでもない、好きだっていってもいいくらい。
だけど何にもやってない、その事実に織り姫さまは立ちすくんだのでした。
「た、ただいま…」
「遅かったね、織り姫」
織り姫さまの仕事場で。織り姫さまの帰りを厳しいお顔でお迎えになったのは天帝さまでした。
予想していなかったわけでもない、いいえ、おいでだろうとは薄々思っていましたが。
だからといって何か言えるわけではなくて、織り姫さまは戸口に棒立ちになりました。
「織り姫。どこに行っていたのか言ってごらん」
普段は気さくで陽気なな天帝さまはにこりともせずにお尋ねになり、織り姫さまはただ立ち尽くすば
かりでした。
「織り姫?」
「ど、どこでもありません!」
問い詰める天帝さまの言葉に思わず。
言った瞬間から織り姫さまはものすごく後悔していたのですけれど。
「姫、」
「ちょっと散歩に行っていただけです、構わないで!」
「・・・・・」
重い、まとわりつくように苦しい沈黙が流れました。
「・・・・・」
叱られるって、織り姫さまは痛いくらい知っていましたけれど。
織り姫さまが口を開けないだけでなく、天帝さまもひととき沈黙を守られました。
それって、それって。
ごめんなさいって申し上げなきゃ。
申し上げなきゃっていうか、言うんだったらいま。この沈黙は、そういう時間。
そんなことも十分分かってて、天帝さまに嘘が通じるわけなんてないことも分かってて、
それでも。
何も言えないまま織り姫さまはぽたぽたと涙を零しました。
いましばし天帝さまは織り姫さまの言葉を待ちましたが、結局、口を切ったのは天帝さまの方でした
。
「来なさい、織り姫」
織り姫さまは泣きながら、足を引きずって天帝さまの前まで進みました。
叱られるの、すごくいやなのに。
でも、黙ってるのも、いけないこと言うのも、お仕事してない自分も嫌。
うなだれてしゃくりあげる彼女に天帝さまはおっしゃいました。
「いまの姫は、悪い子だ」
織り姫さまにも分かっています。
「まずは嘘つきのお仕置きだね。素直になれるまで泣いてもらおうか」
天帝さまは織り姫さまをお膝に乗せて、裾を上げ、下着を下げてしまいました。
ぴしゃぁん!
織り姫さまのお尻に、天帝さまの厳しい右手が振り下ろされます。
「ふぇぇん!やっ、痛ぃです!」
お尻の熱さに織り姫さまの涙はとめどを知りません。
ぴしゃぁぁん!
「そうだね。そなたには苦い薬が必要だからね」
ぴしゃぁん!
「…や、やぁぁ…!」
ぴしゃん!ぴしゃん!ぴしゃぁん!
ぴしゃん!ぴしゃん!ぴしゃん!
「織り姫、散歩に行っていたのかい?」
ぴしゃん!
「・・・ふぇ・・・。ち、違います・・・」
ぴしゃん!
「ふむ、じゃあどうした?」
ぴしゃん!
「それは、その・・・。」
ぴしゃぁん!
「その?」
ぴしゃん!
言わなくちゃと思っても、悪いことだって分かっているから。だから余計に、織り姫さまは泣くしかできませんでした。
「正直に言えるまで、ずっとこのままだ」
ぴしゃぁん!
「ふぇ・・・」
ぴしゃぁん!
「ほら、言いなさい。どこに行っていた?」
ぴしゃん!
「・・・・・。」
ぴしゃぁぁん!
「織り姫。言えないままで、反省はできないよ」
ぴしゃん!!!
「・・・・」
泣きじゃくるままの織り姫さまに、天帝さまはいったん手をお止めになりました。
織り姫さまを起こして向き合い、指先で姫の目にあふれる涙を拭われます。
すこしも笑まれないのにその指は柔らかく優しくて、織り姫さまの涙を余計にあふれさせるのでした。
天帝さまのお声は、夜の湖のように静かで。
「織り姫。自分のしたことを、ちゃんと見てごらん。
つきたくてついた嘘とは思わないが、そなたが嘘をついたことは変わらぬ事実。
さあ、どうして嘘なんてついた?つきたくもない嘘を。
自分のしたことから、目を逸らして逃げているからじゃないのかい」
深いお声は織り姫さまをとぷんと包んで、柔らかな指先は温かくて。
おっしゃることは確かにほんとう。
織り姫さまは瞬いて、しゃくりあげる苦しい息を懸命に整えました。
天帝さまは織り姫さまがそうして泣きやもうとしているのを、じっとご覧になっていました。
「…ひっく」
織り姫さまは息を吸って、吐いて、それを繰り返してどうにか息をついて。そして声を絞り出しました。
「……ごめん、なさい」
言うと、また涙があふれて。
天帝さまの指もまた、織り姫さまの目尻を静かに拭いました。
ごめんなさい、だけでは答えになっていないことを織り姫さまは知っていましたから、
あふれた涙を一生懸命とどめようとしていました。
「あの…方に、お会い…してました」
どうにか、答えたことば。
天帝さまはまだ待ち続け、織り姫さまはもう一度長く息を吸いました。
「お仕事…やってなかったのに。先にしなくちゃって、思ってたのに。でも…」
でも。
「会いたい…」
それは織り姫さまの素直な気持ちでした。
だけど、お仕事をやらない自分が嫌なのも素直な気持ち。
天帝さまはずっと耳を傾けてくださっていたので、織り姫さまはぐちゃぐちゃな胸の内を吐き出して訴えました。
「ちょっとだけ、って思ったの。ちょっとだけならって」
ちょっとって思っていたの、ほんとに。
でも、ちょっとにならないなんて、初めからわかっていたかも。
お仕事、さぼろうって思ったんじゃないのに。でも、やってない。
後悔してるの、ほんとに。やらなきゃって思ってたの。でも。
だって、全然進まないんだもの。もうやだ、って・・・やだって、嫌じゃないんだけど。
機織りが嫌いなんじゃないのに。もう、よくわかんない。
わかんなくなって・・・会いたかったの。会いたいの。すっごく。
でも・・・先にやらなきゃだめなのに。ちょっとだからどうとかじゃないのに。
でも、でも。わかってたのに、会いに行ったの。ごめんなさい・・・。
「織り姫」
ぜんぶ黙って聞いておられた天帝さまは、語りつくした織り姫さまに静かに呼びかけられました。
「悪い子だったね」
悲しい微笑み。でも、それはきょうの天帝さまのお顔の中では。
織り姫さまに向けられた、はじめての穏やかなお顔でした。
織り姫さまは甘いような苦いような、やっぱり悲しい気持ちでお返事しました。
「はい・・・。ごめん、なさい・・」
何もかもから逃げてる苦さとは違うけど、天帝さまの悲しいお顔は悲しくて、
結局お仕事できてない自分も変わらず苦い。
でも天帝さまの微笑みは、織り姫さまをすこしほっとさせたのもほんとうでした。
「織り姫、おいで。
してしまったことは変えてやれぬから、怠けた罰はしっかり受けてもらうけれど。
悪い子だった自分をちゃんと見ている姫はいい子だ」
「ふぇ・・・」
ぴしゃん!
天帝さまはもういちど織り姫さまをお膝に招きました。
ぴしゃん!ぴしゃん!
「ふぇ〜〜ん」
自分が悪いってわかっていても、お尻叩きはもちろん嫌。
でも自分が悪いのだから、止めてとか嫌だとかいえなくて、織り姫さまはぼろぼろ泣くのでした。
「すべきことから逃げてはいけないよ」
ぴしゃん!ぴしゃん!
「逃げて遊んだって、心の底から楽しめなかっただろう?牛飼いにも嘘をついたね」
ぴしゃん!ぴしゃぁん!
「ひとつ悪いことをすれば、どんどん流されて悪いことを積み重ねる」
ぴしゃぁぁん!
「そんな織り姫を見たくはないんだよ。姫だって嫌だろう?」
ぴしゃぁん!ぴしゃん!ぴしゃん!
「すべきことを先にしなさいと、言っておいたのに」
ぴしゃぁぁん!ぴしゃぁん!
「覚えていたんだろう?それなのに遊びに出るなんてね」
ぴしゃん!ぴしゃぁん!
ぴしゃぁん!ぴしゃん!ぴしゃん!
「また逃げ出したくなったら、この痛さを思い出しなさい」
ぴしゃん!ぴしゃん!ぴしゃん!
織り姫さまはお尻にたっぷり熱くて苦いお薬をいただきました。
ぴしゃぁん!
「さあ、もういいだろう。涙を拭いて、服を調えてこっちへおいで」
織り姫さまを膝から下ろした天帝さま。
きゅっと眼を擦って涙を拭った織り姫さまは、そのとき床に転がっている何かを見つけました。
「あ!」
慌てて駆け寄ってそれを拾った織り姫さまは、またぼろぼろと大粒の涙をこぼしました。
「織り姫、どうしたんだい?」
天帝さまが覗き込むと、織り姫さまがきゅっと握っていたのは姫がいつも使っている機の杼でした。
「ごめんなさい・・・」
織り姫さまは、放り出されたその杼に向けて呟きました。
いえ、杼だけではなくて機と糸、そして織りかけの布、それから。
つまりはお仕事そのものに向けられたものでした。
天帝さまは織り姫さまをきゅっと抱くと、もういちど姫と向き合われました。
「織り姫、そなたはこんなに後悔しているし、たっぷり罰も受けた。
もうしないだろう?」
織り姫さまは天帝さまを見上げると、心細げに首を振りました。
「わかりません・・・したくないけど、でも、だって」
自分が大事な杼を床に投げ捨ててまで出かけてしまったことだって、信じられない。
でもそれが事実で。ほんとに、叱られるのも当たり前で。
後悔してるけど、したくないけど、でも。
「会いたいから・・・いっそ、会えなければ良いのに」
「織り姫」
しばらく考えた末に、天帝さまは頷きました。
「織り姫、ほんとうによいのかい」
織り姫さまは悲しげに、でも杼を見つめながら頷きました。
「はい・・・。あの方に、どうかよろしくお伝えください」
「では私は、そなたたちを分かとう」
天帝さまは厳かにおっしゃいました。天帝さまの力ある言葉は、物事をそのとおりに動かします。
作業場の縁に立ち、外の大河を眺めながら天帝さまはお続けになりました。
「天つ国、この最も広い天の川の右と左にそなたたちは別れて暮らす・・・しばらくは」
しばらくは?
織り姫さまは目をぱちくり。
「そなたたちふたりがやるべきことを先にやれるようになったなら、会えるように取り計らおう。
大丈夫、そんなに遠い日のことではないよ。そうだね、織り姫?」
「・・・・・。はい」
それはしなければならないことで、したいと願っていることで。
だから織り姫さまのお返事は、それ以外には有り得ませんでした。
「いい子だ」
天帝さまはもういちど織り姫さまをきゅっと抱いて、そして不意に姿を消されました。
織り姫さまが外を見ると、そこにはいつもと違う同じ川。
広い広い川の向こうのどこかに、牛飼いはきっといるのでしょう。
「いつかまた、会えますように。できればはやく、会えますように」
織り姫さまは呟いて、川の向こうの微かな灯りをひとときじっと眺めるのでした。