括る日まで 2





「タカさんって、結婚早そうだよね」
 ある日の練習中、桃城の隣で柔軟をしていた菊丸が突然呟いた。
「へ?」
 河村の名前が出たことに、桃城はドキリとしてしまう。
 菊丸は、そんな桃城の動揺を知ってか知らずか、あれ、と上方を指した。指された先には校舎の窓。菊丸の視力でもって初めて気づくような距離である。桃城は目を凝らした。
「あ…」
 河村が、女子生徒と何やら喋っている。
「あれっ、タカさんやるう」
 腹の底がカッと熱くなったけれど、努めて明るく言った。彼女…と口にしかけたとき、胸中に広がった苦いもの。しかし菊丸は、ううん、と首を横に振った。
「それはないよ。あの娘、俺の友だちの彼女だもの」
 腰を下ろして広げた足の間に、ぺたんと上体を折る。菊丸は彼女の名前を言い、タカさんも知ってるはず、と付け加えた。
「そうなんすか……」
 風が吹いて砂塵を巻き上げる。がっかりした風を装いつつも、桃城は明らかにホッとしていた。


「タカさんてさ」
 突然、桃城と菊丸の間に柔らかな声が割り込む。不思議だよね、と振り向けば、あなたが一番不思議な不二だった。
「何が不思議なの?」
 菊丸が聞く。不二は菊丸の隣に腰を下ろし、元クラスメイトの肩越しに、細い指で桃城の顔を指した。
「桃、あの娘とタカさんがカップルだ、って一瞬思ったでしょ?」
「え?」
「君の個人的な感情は抜きでね」
 至近距離で笑う不二は、中学のテニス部で河村とダブルスを組むことが多かった。桃城の気持ちをどこまで知っているのか。三日月のように細められた目で見られると、腹のうちを全て見透かされたような気分になる。桃城は、突きつけられた指を避けるように、顎を引きながら頷いた。
「不思議なんだよね」
「だから何がさー」
 菊丸は焦れたように立ち上がり、今度はブリッジ。そのままの姿勢から、特に力を入れた様子もなく直立へ。バク宙を一つして、お前が不思議だ!と不二にビシッ!桃城がされたのと同じように指を突きつけた。あなたも十分不思議です。
「タカさんてさ」
 不二は、菊丸の突然アクロバットに動じた様子もなく、両足を揃えて足首を伸ばした。小首を傾げ、頬にかかる髪を耳にかける。そんな仕種が堂に入っていた。
 河村の名が出るたびに、桃城の肩は不自然に揺れる。2人には気づかれていないだろうか。
「タカさんって、クラスのさ、どんな女の子と並んでもカップルに見えるんだよ」
 不二は、去年、今年と河村と同じクラス。中学では、一度も同じクラスになったことはなかったという。偶然て凄いよね、という不二のセリフをそのまま信じている者は、少なくとも、桃城の知る中にはいない。


 ふと顔を上げると、少し離れた場所から、手塚がこちらを見ていることに気づいた。
 桃城も菊丸も不二も、それぞれに柔軟をしつつ話をしている。部活中の私語を怒りたいのだが怒れない。そんな感じだ。
 手塚は現在2年生で、テニス部には当然他に部長がいるが、順当にいけば、今年中にも青学テニス部には再び手塚部長が誕生するだろう。そのときには、やはりあの罰走も復活するのだろうか。
 桃城が手塚を見ていたことに気づいたらしい菊丸が、ニヤッと笑って、
「手塚とかさ、そういう点ではダメだよな」
 親指を立てて指す。不二も笑って頷いた。
「あー、うんうん」
「不二もね」
 手塚を指していた親指を、そのまま不二に向ける。
「否定はしないよ」
「あの…」
 桃城は手を上げた。
「どうしたの?桃」
「何の話ですか?」
「さっきの話」
「さっきの話って…」
「あのね」
 不二は、これ内緒だよ、というように人差し指を立てて桃城にウインクをした。普通の男ならありえないような仕種が、この先輩ならば、妙に様になってしまう。


 河村には不思議な才能があるのだという。
「才能って言葉が正しいのかは分からないけどね。他に言葉が見つからないから」
 相手がどんな女の子でも、河村の隣に並んでいると、自然に彼女に見える。
 それが、不二言うところの河村の「才能」だった。
「年齢も容姿も関係ないんだよね。いかにも遊んでそうなギャル系の娘って、タカさんとは絶対接点なさそうじゃない?それでも、不思議とさ、一緒にいるとこれが」
「カップルに見える」
 不二の言葉を菊丸が継いだ。
「タカさんて委員会とかで組む女子と必ず噂立つんだよね。2人とも全然その気なくてもさ」
「英二も、そういうところあるじゃない」
 不二は立ち上がり、パンパンとズボンの砂を払いながら、菊丸の背後に回った。
「確かに、俺もそういうのあるけどさ。タカさんのは異常。俺は、委員会でも何でも、一緒になった娘とはすっごく仲良くしちゃうもん!タカさんは違うじゃん。打ち合わせで並んで座ってるだけで、2人はつきあってるーってさ」
 レギュラージャージの背中を押しながら、不二は菊丸の顔をのぞきこむ。
「大石とも違うよね?」
 桃城も、大石の話なら知っている。桃城と同じ学年の女生徒とも中学時代から、しょっちゅう噂になっていた。もっとも、その全てがいわゆるガセネタだったが。 自他ともに認める大石のパートナーは、ゴールデンペアの片割れに、色々と言いたいこともあるらしかった。
「大石はっ、大石は必要以上に親切にするからじゃん!あれはね、才能とかじゃなくて自業自得っていうの!」


 そういえば。
 2人の会話を聞いていて、桃城は思い出した。
 中学3年のとき、河村が、河村の幼なじみだという亜久津の母親と一緒にいるところを見て、桃城たち……桃城も菊丸も、今は中等部で後輩をビシビシしごいて……はいないけれど、とりあえずは部長らしい越前も、皆、何の疑問もなく亜久津の母親を河村の彼女だと思い込んだ。亜久津の母親は、確かに若作りではあったが、中学生や高校生には見えなかったのにもかかわらず、だ。
「あー、俺もそれ思った!」
 桃城がその話をすると、菊丸が叫んだ。
「いくら若いったって、母ちゃんじゃん!亜久津の、母ちゃん!」
 亜久津の名前が出たとき、不二の顔が一瞬引きつったように見えたのは、目の錯覚だろうか。
「おーい、3人とも、集合だぞ!」
 そのとき、乾が桃城たちに声をかけた。見れば、他の部員は皆、コートに向かって歩き出している。
「やたっ、今日ミニゲームから?」
 基礎練習よりもゲームゲーム、の菊丸が、ピョンッと効果音のつきそうなジャンプで立ち上がり、コートに向かって駆け出す。えーいじ、と大石が菊丸を呼んだ。今日はどうやら、ダブルスのミニゲームらしい。
「桃、集合だって」
「はあ…」
 促されて立ち上がる。菊丸の背中は、もう随分遠い。
「ねえ、桃」
 不二は桃城の方を見ないで言った。
「タカさんを好きになった人は辛いだろうね」
 このところ、ダブルスでは海堂が桃城の固定パートナーになっている。海堂は、遅え、さっさと来い、と遠目にもウズウズしている様子だった。走り出そうとした桃城のジャージの裾を、不二は引いた。
「誰にでも優しくて、誰とでも、何で言うか…お似合いに見える。よっぽど強い気持ちや、絆がないと、あの人は難しいだろうね」
 まるで託宣のようなその言葉。横を見ると、不二はもういつもの笑顔だった。
「行こう」
 桃城の背中を叩く。
 歩きしな、校舎の方を振り返る。河村の姿は、もうどこにも見えなかった。


 言われるまでは気づかなかったのに、言われると気になって仕方がないことがある。
 次の日の休み時間、廊下で見かけた河村は、同学年らしい男女何人かと歩いていた。一緒に歩いている中には不二もいたから、移動教室か何かだろう。
 決して、特別に親密にしていたわけでも、2人きりでいたわけでもない。それなのに。それなのに、一団で歩く数人の中の、河村と一番近い位置にいる女の人が、桃城には河村の彼女のように見えて仕方がなかった。
 後輩の視線に気づいたのだろう。河村の少し後ろを歩く、不二がこちらを向いた。声には出さす、口の動きだけで、ち・が・う・よ、と。
 違う。違うことは分かっている。
 でも、そう見えて仕方がない。
 そうこうしているうちに、河村が桃城に気づいた。
「桃!」
 同級生に断って、桃城の方へ近づいてくる。
「タカさん」
「どうした?何か元気ないね」
「そんなこと、ないっすよ」
「なら、いいんだけど」
 河村は、桃城の予想どおり移動教室の途中だった。そして、これも予想どおり、さっきの一団の中に、彼女はいないらしい。というか、彼女はいないらしい。
「タカさん、彼女とかいないんですか?」
 突然、こんなことを聞いたら変に思われるだろうか。それなりに決死の思いで聞いた桃城に、彼女?いないよ、と河村は、あっさり首を振った。良かった、とその場にへたり込む。
「どうして俺に彼女がいなくて、桃が良かったと思うのさ?」
 しゃがんで目線を合わせてくる。河村の顔が近づいてきて、胸が、痛いほどにドキドキした。昨日、不二の人形みたいにキレイな顔を至近距離にしても、恐いとは思ってもドキドキなんてしなかったのに。
「タカさん」
「ん?」
 廊下を行きかう人の声が遠くに聞こえた。まるで、2人だけエアスポットに入ったみたいに。今なら、言ってもいいんだろうか。この気持ちを。あなたが好きでたまらないから、と、この人に。
「桃、どうしたの?」
 心配そうに、桃城の顔を覗き込む。
「俺は」
「うん?」
「タカさんの……」
「河村くん!」


 そして、告白は未遂に終わった。
「河村くん、もうすぐチャイム鳴るよ」
 河村と同じクラスの女子だった。
「あれ、もうそんな時間?」
 河村は立ち上がる。ごめん、続きはまた今度ね、と言いながら。髪の長い彼女と並ぶと、河村はやっぱりその娘の彼氏に見えた。
 遠ざかっていく2人の背中を眺めて、これでいいんだ、と呟く桃城に、
「桃城が、これでいいと本当は思っていない確率100%……」
 向かいの教室の窓際の席から廊下に首だけを出し、サラサラと手元も見ずにノートにペンを走らせる、乾の声は聞こえなかった。


 河村と2人だけでテニスをしたことがある。
 河村が中3、桃城が中2の全国大会直前だ。
 波動球の練習をするのに、相手を欲しがっていた河村に、つきあいましょうか、と桃城は申し出た。その頃、桃城はまだ恋心を自覚してはいなかったけれど、無意識の下心があったのかもしれなかった。
 河村は、桃城のラケットをはじき飛ばすようなフラットショットを繰り出した。思わず感嘆の声を漏らす後輩に、全国で1番のパワープレイヤーになる、と彼は告げた。
 河村はきれいだった。きれいで、真っ直ぐだった。決然としたその顔を見ていたら、桃城は、何も言えなくなってしまった。思えば、あのとき初めて桃城は、河村を好きだということに気づいたのかもしれない。彼の眼差しを、進む道を、遮る自分でいたくない、と思った。


 それから2年。けれど、駄目だった。河村に迷惑をかけたくないと、諦めようといくら思っても、ほら、今、こんなにも胸が痛い。河村が、きっと普通のクラスメイトであろう女性と去っていった、廊下の向こうに視線をやるだけで、苦しくてたまらなかった。
 どうしたらいいんだろう、と思った。
 あの人が欲しい。
 女の子にだって、誰にだって河村を渡したくない。
 とっくに授業は始まっていたけれど、桃城は、その場から立ち上がることもできなかった。動いたが最後、膨れ上がった思いが爆発してしまいそうだった。




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 英二と不二と桃ちゃんと。
 不二は、桃ちゃんの思いに気づいています。花嫁の父的な気持ちで、桃ちゃんの恋を邪魔したいような気持ちもありつつ、桃は将来有望なような気もするし、でとりあえず様子見。亜久津のことは、同じく花嫁の父のような気持ちで許せません。
 かなり無理やりですが、青学レギュラー全員の名前を出してみました。
 次からは、本格的にアクタカが入ってきます。





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