オフホワイトのシェードを通して、フロアライトの光が部屋全体をオレンジ色に染めている。 閉じた扉を背にした亜久津と、河村は対峙していた。 亜久津は、射抜くような鋭い視線を河村に向ける。睨み返すわけにもいかず、かと言って、あからさまに視線を逸らすわけにもいかない。 河村は、亜久津の背後の扉とその上の壁を見上げた。 まるで昔の燭台のような、ゆらゆらと揺れる光に照らされ、白い壁に2人分の影が大きく映る。 うすぼんやりと明るい部屋の中で、その影もまた、ゆらゆらと揺れているように見えた。 (震えてるみたいだ) 河村は思った。 引き結ばれた亜久津の口からは、かすかに歯の鳴る音も聞こえる。 手を伸ばす。と、伸ばした手をつかまれる。 あ、と思う間もなく引き寄せられ、強い力で抱きしめられた。 カチカチという小さな音が、触れ合った場所から振動として伝わってくる。 亜久津の体は、昔からの煙草のにおいと、今は冷えた金属のようなにおいもした。 肩に伏せていた顔を上げる。と、間髪入れず唇が重なってきた。 亜久津が歯を鳴らすのは、寒さではなく興奮のためだ。 背中にまわった両腕の強い力に、どうかすると抱きつぶされてしまいそうだった。 (一緒に暮らしているのに)と。 こうして、亜久津に店で抱かれるたび、河村は思う。 一緒に暮らしているのに、2人の家で、亜久津は河村を抱かない。 抱こうと思えば、いつでも好きなだけ河村を抱けるのに、亜久津は、こうして客として「DOOR」を訪れ、河村を買う。 今日、マネージャーは、河村に予約を入れたのが誰とは言わなかった。 それだけで河村には亜久津だと分かった。 それくらい頻繁に、ほんの少し大げさに言えば、河村が出ている日には欠かさず、亜久津は通っているのだ。 河村と亜久津は、一緒に暮らしている。 それなのに、2人の家で亜久津は河村を抱かず、この店で、金を払って河村を抱く。 その行動は、河村には不可解の一語だった。 河村が今の二重生活を始めることになったのは、元々、亜久津の意思だった。 4年前、高校を卒業した2人は、実家を出て一緒に暮らし始めた。 河村が修行を兼ねて就職した寿司屋が、亜久津の就職先と「たまたま」近かったから、というのが家族への説明だったが、もちろん、実態は同棲以外の何ものでもない。 関係を隠したまま、亜久津と暮らすのは後ろめたかったけれど、いつでも一緒にいられる嬉しさはそれに勝った。 いわゆるボタンのかけちがい。 それが、どこで起こったのかは分からない。 いつのまにか、亜久津は河村の目を見て話さないようになっていた。 2人の家で、河村を抱くこともなくなっていた。 2年目の春だった。 「会社、やめた」 ある晩、仕事から帰ってくるなり亜久津は言った。 河村が理由を聞いても、話してはくれなかった。 通勤に使っていた10号キャンバスのトートバッグを捨て、仕事関係の資料が挟まれたバインダーを捨て、パソコンのメモリから全てのデータを消去して。 その晩、亜久津は久しぶりに河村を抱いた。 もう何か月も、ただ眠るためだけの場所になっていた寝室でセックスをした。 覆いかぶさる亜久津の肩ごしに、見慣れた天井が見えて。 「河村」 熱のこもった声で呼ばれるのも、久しぶりで、何だか不思議な感じがした。 翌朝、目を覚ました亜久津は、まずシャワーを浴びにいった。 戻ってきたときには、引き出しの奥にしまいこまれていたのを探してきたらしい、ヘアワックスの容器を手にしていた。 姿見を前に髪の毛を逆立てる。 亜久津の後姿を、ベッドに横たわったまま河村は眺めていた。 中高生の頃、銀色に近い白髪に染めていた亜久津の髪の色は、今ではほとんど地毛に戻っている。 とはいえ、普通ならば染めているとしか思えないような、ごく薄い茶色である。 河村も髪の色素は薄い方だが、亜久津はその上をいっていた。 髪ばかりではない。 亜久津は、肌もまた、黄色人種にはありえないような白さだった。 中学3年のほんの短い間、テニスをしていたときにも、そういえば、河村は、亜久津が日焼けしているのを見たことがない。 まるで、赤ん坊の白目のように青みがかってさえ見えるその肌は、しかし、「青白い」という言葉から連想される軟弱さとは無縁だ。 昨夜、河村のつけた爪の痕が残る背中は、はりつめた筋肉に覆われている。 どんなに猫背でいても、真っ直ぐなままの背筋が、亜久津の背中に何とも言えない緊張感を生み出していた。 「お前、今日は休みだな」 セットを終え、振り返った亜久津の表情は傍若無人、かつ傲岸不遜。 昔、越前とテニスの試合をした頃、確かこんな感じだったと思い出す。 頷いた河村にニヤリと笑み返す。 「さっさと起きろ」と言い捨て、寝室を出て行った。 特に、どこへ行くというあてもなかった。 職を失い、社会的には不安定な立場となったはずなのに。亜久津の足取りは、そんなことは微塵も感じさせない。 自信に満ちあふれていた。 中学3年で再会して以来、ずっと近くにいたのに気づかなかった。 いつのまにか、亜久津は、2人で歩くときには、河村のスピードに合わせてくれるようになっていた。 亜久津は、ずっと変わってきていたのだ。 河村は、それに気づかなかった。 表通りを肩で風切って歩いていく。 こちらを振り返らない亜久津の背中が、ひどく懐かしかった。 しばらくして、亜久津はあるクラブで用心棒の職にありついた。 どんな伝手によったものかは分からない。 週に何度かは派手な私服で、時々は黒いタキシードで家を出て行く。 亜久津は、前の仕事をやめたときと同様、新しい仕事のことを河村には一切話さなかった。 それでも、同じ家に暮らしていれば、たとえば携帯電話での会話の内容が、もれ聞こえてくることもある。 亜久津のまとうようになった、前以上にピリピリとした雰囲気から、河村は何となく察することができた。 彼が働いているのは、おそらくただのクラブではない。 その背後には、組織的な暴力の気配が感じ取れた。 店の佇まいこそ、いわゆる秘密クラブめいているが、「DOOR」の料金は、繁華街の高級店に比べればだいぶ安い。 そもそも、男性による性風俗業の相場が、女性によるそれよりも一般的に高くはないのである。 それでも、亜久津のような頻度で通えば、サラリーマンの年収程度、すぐに飛んでいくことは確かだった。 河村を店に入れた経緯から、亜久津は、オーナーから河村の「ヒモ」と呼ばれている。 しかし、実際には、亜久津は河村の店での稼ぎには決して手をつけない。 全て河村の、個人名義の口座に入れさせていた。 「DOOR」を訪れ、河村に触れる亜久津の手からは、時々、奇妙なにおいがした。 子どもの頃、いたずらをして、おもちゃの花火をバラしたとき、嗅いだのとそっくり同じにおい。 もう少し、薬臭いときもあれば、はっきりと血のにおいがすることもあった。 河村を買うために。 本当なら、金など払わなくても、いくらでも抱くことができる河村を買うために、亜久津は、表ざたになれば、きっと手が後ろにまわるくらいでは済まない仕事に手を染めている。 1へ 3へ |