寿司屋の出勤時間はまだ空の暗い明け方。 週に1度、午後9時に店が閉まって、1時間後の午後10時から何時間かを、河村隆はもう1つの店で過ごす。 「DOOR」という名のその店は、河村の働く寿司屋からそれほど遠くないオフィス街の一角。 瀟洒なビルの中にあった。 「隆です。9時半の電車に乗ります」 厨房の片づけを終えて寿司屋を閉めた後、河村は駅までの道のりを歩きながら、携帯電話でマネージャーに連絡を取る。 店の最寄り駅に到着できる時間を伝えると、迎えの車を回してくれるからだ。 河村に限らず、兼業の多い従業員に移動時間を食わせず、その分なるべく多くの時間を店で過ごさせる。 未成年はもちろん学生バイトも使わず、20代前半の河村が最年少という店の、それは、開店当初から変わらない方針らしかった。 「リョーカイ。車はいつものね」 軽い調子のマネージャーに礼を言って、通話をオフにする。 近道だからと歓楽街を突っきると、テレクラや何かのポケットティッシュと一緒に手の中に押しこまれたのは、男性向けホストクラブ、いわゆるウリ専のチラシだった。 (やっぱり、見る人が見れば分かっちゃうんだな) 所帯じみているのは承知の上で、ポケットティッシュはありがたく鞄の中に放りこむ。 手の中に1枚残る「従業員募集」と大書された蛍光ピンクのチラシに苦笑して、新歓コンパの賑やかな群れを泳ぐようにすり抜け、駅に向かった。 いつのまに、自分はこんなに器用になったのか。 空を仰いでも、何となく答えてくれそうな月さえ見えない、新月だった。 約束した時間に最寄り駅の改札を出ると、待っていた白いセダンのライトに、合図のように照らされる。 迎えの車がありふれたトヨ夕なのは、たとえば、いかにもな外車なんかより、かえって秘密めいて感じられて。 近づいてくる車のエンジンの音に、河村は、ぎゅっと拳を握り目を閉じた。 ビルのエントランスで、心得た管理人からカードキーを受け取り、エレベーターに乗る。 店は、ワンフロアぶち抜きの最上階にあった。 河村は、最上階より1つ下の階でエレベーターを降りた。 そこから一旦外に出て、非常階段から回るのは従業員用の裏口である。 ビルの持ち主でもある「DOOR」のオーナーは40がらみの男で、数週間に1度は店の方に顔を出した。 合法の本業と非合法の副業が別にあるらしく、オーナーは店に来ると、「こんなのは道楽だよ」と嘯いていたが、その実、経営が大黒字であることも河村は知っていた。 そうでなければ、いくら金があるとはいえこんな一等地で、性風俗営業にしては大がかりな店が何年も続くはずがない。 河村がここで働き始めたのは2年前だが、このビルだって当時は賃貸だったのが、いつのまにかオーナーの所有になっていたのだ。 その辺りの判断について、一見ぼんやりしているようで、河村は昔から実にシビアだった。 中学時代、テニス部の皆で、新装開店のレストランへバイキング料理を食べにいったことがある。 全メニューの制覇に息ごむ後輩の背中を微笑ましく見守りながら、(この立地にこの値段だと、続けるのは難しいだろうな)と無意識のうちに考えていた。 そうした性分は、実家が商売をしていたために培われたのが半分、あとの半分は生まれつきである。 そして、口にこそ出さなかったが、河村の父親はそんな息子に、「かわむらすし」の未来の経営者として大きな期待を寄せていた。 初夏とはいえ、日が落ちて何時間も経てば、さすがに空気もひんやりとしている。 ジャケットの襟を合わせながら、非常階段の途中で立ち止まり、振り返った河村の目に最初に映ったのは夜のオフィス街だった。 ビルの林、とどこかで聞いた表現が無理なくはまる。 しんと静かなその向こうには、無明としか言いようのない深い闇があった。 耳をすますと、その闇の方からかすかな音が聞こえる。 ドウドウと、打楽器を思わせるような振動音だった。 「ああ……」 冷たい夜気の中で、河村は溜息をつく。 あの向こうには、大きな川があるのだ。 階段を上がった先、裏口の扉には、小さく店名の刻まれたメタルプレートが嵌めこまれていた。 中には寿司屋の常識を超えた額の金が唸っているというのに、店の入り口は、表も裏もまるで建売分譲のそっけなさである。 レバーハンドルを回しながら、深呼吸をひとつ。 「大丈夫」と何が大丈夫なのか分からないままに呟くのは、この世界に足を踏み入れてからの河村のすでに癖のようなものだ。 ストーンゴールドの鉄扉を開けば、そこから向こうは別世界だった。 ドアを入ってすぐ、パーティションが置かれた後ろは事務所で、1人だけ残っていたマネージャーが河村に気づいて顔を上げる。 「おはようございます」 この店で働き出して2年。河村の出勤は基本的に週1だが、寿司屋の定休日やその前日に限り場合によっては店に出ることもあった。 ここでの「場合」とは、要するに河村を指名する予約の有無である。 「隆か」 マネージャーはニヤリと笑い、壁にかけられたホワイトボードを親指で示した。 縦書きで月間予定表になったホワイトボードには、今日の日付のところに30分後の時刻と河村の名前、それからルームナンバーが書かれている。 ロッカーに荷物を置いてシャワーを浴びながら、熱い湯が肌を滑るのに、河村はほんのしばらく何もかもを忘れた。 マネージャーからは特に何の指示もなかったので、上った後に身につけるのは、ごく普通のシャツとジーンズである。 汚してしまうことが多いため私服とは完全に分けているが、時々させられる女装やマニアックなボンデージよりも河村にはかえって恥ずかしい、私服と変わらない格好だった。 「時間だ」 準備を終えて戻ると、ノートパソコンのディスプレイに視線を向けたままのマネージャーから、黒いボストンバッグを渡された。 「中、確認しろよ」 「はい」 頷き、バッグを受け取って事務所を出る。 渡されたボストンバッグに入っているのは、「DOOR」におけるいわば初期装備である。 いわゆる本番を含むプレイの場合、従業員は、これらをバッグに入れてプレイルームに持ちこむのが常だった。 ある時はヘルス、ある時はソープ、またある時はSMクラブ。 客の要望により、この店では、男同士のセックスに関するサービスならどんなものでも提供される。 そのため、プレイルームの内装も区々に分かれているのだが、今日、河村が指定されたのは、ダブルロングのベッドが真ん中に1台据えられただけの、まるで寝室のような部屋だった。 ベッドに腰かけ、ボストンバッグの中身を確かめる。 コンドームにローション。 アナルプラグ、浣腸器といったアナルセックスに関するグッズ。 更に、ボールギャグ、ロープ、バイブレーター等、簡単なSMグッズ。 1つ1つ確かめながら、突然に速まった鼓動を抑えるように、胸元を手の平でぎゅっと押さえる。 部屋のドアを開け放っているため、「いらっしゃいませ」という裏返り気味のマネージャーの声がよく聞こえた。 2へ |