若緑のねむるころ 11

 その日は涼しく、早朝から乾いた風が色づいた紅葉を揺らしていた。門の前に車の止まる音がして、一樹はほとんど反射的に腰を上げた。
 最近は日曜日の昼過ぎに連絡もなく車を乗り付けてくるのはハルヒと決まっていたから、一樹は所在を決めかねて戸惑うのが常だった。自室におればキョンに呼ばれるのでそれを避けたいが、あてもなく街をぶらぶらするのも気疲れしてしまう。それで一樹は、月に二、三度の彼女の訪問のうち、半分は庭でぼんやりし、半分は街を歩き、時折は同席して微笑む相槌役に徹していた。
 その日はよく晴れていたし、何となく外の空気を吸いたくもあったので、彼は財布だけ上着にしまって足早に廊下へ出た。ちょうど玄関へ向かうところだったキョンとばったり出くわし、思わず一樹はその黒い瞳を避けた。
「出かけるのか」
「ええ」
キョンは何か言葉をつまらせて、唇をわずかに開いたまま袂の端をいじった。
「夕飯までには戻りますので」
「…ああ」
キョンはわかっているのだ。一樹のハルヒの訪問へのうろたえや、彼女と同席する時の微かないらだちを、それも抑え込んで如才なく微笑してなめらかに話すその姿の頑なさを。しかし、キョンにとってもハルヒは無下にできない客であり、結果一樹の背中を見送ることになってしまうのだった。

 二人の暮らす住宅街を出ると、すぐ日用のものなら揃うこじんまりとした店が並ぶ通りに出る。明るい日差しが一樹の焦茶の上着を暖めた。道行く人々も、皆のんびりとした家族連れや年配の夫婦で、一樹はその界隈の雰囲気が好きだった。静かなせせらぎを越える短い石橋を渡ると、キョンの行きつけの古書店がある。一樹はキョンがそこで店主と会話をまじえながら楽しげに本を物色しているのを見かけて以来、そこを通りかかる時はどうしてか妙に緊張して店内を覗き込んでしまうのだった。中には入れない。ただ、彼の影が、空気がそこに残っているような気がする。一樹はさりげなく首を傾げて、そっとその一見寂れた風の小さな間口を見遣った。暗い店の中からは、曇ったガラス越しに揺れる新聞の端が見える。それはきっとはげた頭の店主の読んでいるものだ。
 一樹が無意識に唇の端を上げたその時、右肩に軽い衝撃が走った。ぐらついた身体を引いた足を踏みしめて支えると、とっさに自分の肩にぶつかってきたものが何なのかと前方を見る。
「ふあぁ」
何もない前方に目を瞬かせた一樹の足下で、いつか耳にしたとろけたような悲鳴が聞こえた。

 一樹は神社の境内にある小さな岩に腰かけると、隣の石階段に座り泣きじゃくっている少女を持て余してため息をついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、…あたし、止まらなくって、ふぇぇ」
幼げな瞳から大粒の涙をぼろぼろとこぼす。
 一樹がぶつかって見下ろした相手は、その長く下ろした柔らかい髪、地面に伏せた小柄な体躯を華奢な腕で支える姿、着ているものこそ桃色の小紋だったが、いつかのホームでぶつかった少女であった。その時と同様、思わず手を差し伸べて立ち上がらせると、一樹は彼女が鼻と目を真っ赤に染めて泣いていることに気がついたのだ。
「どうかなさったのですか」
思わずそう問うと、彼女は囁くように細い声を震わせて答えた。
「助けて。助けてください。お、追われてるの」
余りに切迫したその様子に、一樹は暴漢でもいるのかと周囲に視線を走らせたが、十分確認するまでもなく意外に強い力で袖を引かれた。平穏な街の風景とは大きな隔たりのある彼女の怯えが伝わってきて、一樹も思わず早足で横道へそれると、人目につかない道を選んでこの小さな神社まで来たのだ。湿った暗い林の中にあるその古い神社には、めったに人が訪れない。とはいえ、若い男女が二人でいることが人に見とがめられれば何を言われるかわからなかった。一樹は内心ひやひやしながら、一秒でも早く少女が泣き止んでくれること祈りつつハンカチを差し出した。長門が完璧に折り畳んだしみ一つない真っ白のハンカチだ。少女は不明瞭に礼を言うと、それを広げて顔を覆った。ハンカチは彼女の気持ちを落ち着かせたようで、少女は大きく息をついて目尻をぬぐった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。ハンカチ、ありがとうございます」
「それはよろしいのですが…何か危険なことが?お宅までお送りしましょうか」
はっとしたように少女は長い睫毛を伏せた。
「いえ…危ないってわけじゃ……でも…」
少女はすがるように一樹を見上げた。一樹は極めて習慣的に、彼女の不安げな表情に微笑みかけた。それは少女の薄紅色の唇をゆるませた。
「あたし、朝比奈の家の者です。朝比奈、みくると申します。このご恩は決して忘れません」
「朝比奈家ですか、そうとは存じず失礼しました。男爵はお元気でいらっしゃいますか。僕は」
「菅原さまですね」
何のことかと目を丸くした一樹に、みくるはようやく微笑んだ。
「古泉一樹です。さる方のお世話になっている身で今はこちらの街に暮らしています」
「あ…あなたが」
二人がお互いの背景を知ったところで、改めてみくるは口を開いた。彼女の涙の理由を、一樹は知ることになった。

 朝比奈みくるには、婚約者がいた。幼なじみなので、よく知っている相手である。よく知ってはいるが、それは粗野で特権意識が染み付いたわがまま息子であるという内面であり、彼女は内心彼と結婚することにためらいを感じていた。もちろんみくるはその相手が誰であるかは明らかにしなかったが、何か問題が起きて自宅を飛び出してきたことは明らかだった。よそいきの着物を着ているのを見ても、誰かを応対していたのであろう。
「ごめんなさい、ご迷惑をおかけして。…逃げても、帰らなければいけないのに」
みくるは肩をすくませて俯いた。その震える背中に、一樹は憤りを感じていた。それは出会ったばかりのみくるのことを思ってというよりは、自分の力ではどうにもならない先代から科せられた見えない枷に向けられたものだった。どうしてこんなにも生きづらいのだろう。これほど、背筋を伸ばそうと努力しているのに。
 車で送ろうという一樹の言葉を、みくるは固辞した。
「そんなことしたら、古泉君が叱られちゃいます」
けなげに微笑んでみせると、みくるは一人で鳥居を後にした。一樹はそれを見送りながら、何故かみくるに感情移入している自分に気がついて、少なからず動揺した。結局ろくに散歩もしないまま、陽が傾き出す頃、一樹はすっかり疲れて屋敷に戻った。

 一樹が門をくぐると、ちょうど別方向から戻ってきた谷口と出くわした。
「あ、さっきまで涼宮がいたんだぞ。キョンも変わってるけど、あいつも大分変わってるよな」
と相変わらず傍若無人な様子の谷口である。
「何が楽しくてこの屋敷に思い出したように来るのかね。俺はその度に気ぃ遣って大変よ」
玄関の敷居をまたぎながら、一樹は義務的に訊いてやる。
「あなたがどのような気を遣うのですか」
すると谷口は、待ってましたとばかりににやりとすると、掌を丸めて口にあて一樹にひそひそと囁いた。
「そりゃおまえ、応接間に近寄っていいのかとか、でも放っといて何かあったら俺の首も大変とかよ。それで長門に時々見に行かせるんだけどあいつはろくに話さねえから二人がどんな感じかよくわかんねえし、俺はもうキョンを信用するしかないね。おい、どうしたんだよ古泉」
靴ひもを解こうと屈めた腰をそのままに手で口を押さえた一樹のその顔は、紙のように青白く冷えていた。
「おい、なあ」
さらに問う谷口に、一樹はようやく顔を上げると、こわばった頬をゆるませて微笑んだ。軋む音がするほどぎこちなく、それがかなりの努力を要していることは、見ている者が谷口でなければすぐにわかっただろう。
「少々、口が過ぎますよ」
それだけ言うと、一樹は廊下に上がった。板を微かに鳴らして、のろのろと自室に向かっていく。
 と、一樹が通り過ぎた食堂の間の引き戸ががらりと開いた。
「あ、古泉じゃないか。待ってたんだぞ」
いきなり顔を出したキョンに、一樹は息を止めた。深い緑の濃淡が織りを際立たせる長着の端正な着こなしが、少女の小紋を連想させた。
「なに妙な顔してるんだ。ハルヒが土産に青海堂の饅頭持ってきてくれたぞ。食べるだろ」
そう言うとさっさと食堂に戻ってしまうそのつるりとした首筋を見ながら、一樹は波打つ胸の内を掌で押さえた。
「いえ…今日は、ちょっと…」
一樹が言いかけると、キョンはぱっと振り返った。
「なんだよ。ほら」
白く丸い菓子が、その長い指に挟まれて何気なく渡される。一樹は何も言えずに、のろのろと右手を差し出した。

 彼がその手でもたらしてくれるものを、一樹が何ひとつ拒めるわけはないのだった。







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