若緑のねむるころ 12
一樹はそっと目を閉じて、夕暮れの林に満ちる湿った空気を吸い込んだ。枯れた植物とうごめく小さな虫が土にしみ込む独特の匂いが制服から全身に浸透していくようだ。鳥の羽ばたきがすぐ近くで聞こえる。それに重なって、落ち葉を踏みしめる小さな音も。 「こんにちは」 瞼を開くと、そこにはみくるが立っている。矢絣のきものに紫の袴を合わせたその姿から、女学校帰りであることがうかがえる。 「こんにちは」 一樹も微笑して挨拶を返す。ふたりは岩と階段に腰かけ、ぽつりぽつりと話を始める。 「先週も清一郎さんから妹さんと一緒に舶来の人形展に行きましょうと誘われて」 みくるは小さなため息をつく。清一郎とは彼女の婚約者の名前だ。名字は明かさないし、その名前も本当のものかは一樹にはわからない。だが、彼はこうしてみくるの話に耳を傾けるのだった。 「あたし、色々…いやなこともあったし、妹さんがいらしても彼はいつも途中で何かといって帰してしまうし、うかがいたくないんです。でも父に言っても、全く聞く耳を持ってくれないし、喜んでいるくらいなんです。困ってしまって」 「それはお困りでしょう。なんとか断れたらいいのですが、それよりはご両親に改めて説得なさる方がいいでしょうね」 その出会いはいつも偶然を装っていた。事実、ふたりは一度も約束をしたことはない。だからある時は一樹が、あるいはみくるが待ちぼうけてそのまま帰る。だが同じように、度々ふたりはこうして顔を合わせ、会話をかわすのだ。その関係は、知人というには内面的すぎ、友人というにはよそよそしく、同志というには力弱く、ただ傷をなめあうことができる相手をようやく見つけたという安堵が互いにあった。みくるは父親の妾の存在と、それに気が立つ母親の相手をするのにひどく疲れていて、しかも自分の未来にほとんど絶望していた。一樹は彼女の気持ちを非常によく理解できたし、実際にはひとつ年上の彼女を数年前の自分のように感じていた。みくるは父親のこともあって婚約者を含めた男性を根本的に信頼していなかったが、同じ目の色をして肩を落とした一樹は珍しい例外だった。ふたりは姉弟のように、問題の婚約者について話し合った。一樹はそのことについてとても熱心で、親身になったが、彼は礼儀を欠くほどみくる自身には無関心だった。それが、みくるが彼に気を許せた理由かもしれない。 「やはり、お宅にひとり理解者が必要です。ある程度理解して、時に助けをくれる心許せる者がいれば全く状況は変わりますよ」 「こわいんです。わかるでしょう?父に伝わったら、母がどんな目にあうか。使用人はみんな、父に絶対服従です。あたしのことも逐一報告されているの。ここでこうしている時間も、きっと彼らは私が見つからないから適当にでっちあげたりごまかして伝えているのだと思うけど、わかってしまったらただではすまないんです」 「ではできるだけ早く解決策を見つけて、僕たちは会わない方がいいでしょう。あなたのお名前にも関わることです」 「それは古泉くんにしてもそうでしょう。本当にごめんなさい、こんなに時間を割かせてしまって」 「どなたか、相談できる、時には逃げ込めるご友人は」 みくるは瞼を伏せた。その頬が少し色づく。 「心配してくれているお友達はいます。でも、なんていうか」 「ええ」 みくるは言いづらそうに唇を噛む。 「…すごく明るくて、みんなの中心で、あの…そんなあたしなんかのこんな話、なかなか…」 「でもその方はあなたを身近に感じてくださっているのですね」 「でも、元気ではきはきしてて、本当にあたしとは全然違うの。古武術も習っていて、とってもお上手で、こんなゆっくりしたあたしとはまるで」 何度も言いよどむみくるの口ぶりに、一樹は彼女の、その友人への憧憬を感じる。それはまた、一樹の中でとても似た気持ちを思い出させる。 「大丈夫ですよ。あなたが信頼できるとさえ思えるなら、相手の方はきっと受け入れてくれます。だってその人は、既にあなたを受け止めようとしてくれているのでしょう」 それはほとんど願望だ。彼自身の、それは無責任な願いである。 「そうなんです。そうなんですけど」 ふたりは静かに話し合う。ふたりは同じ声の調子で、ひとつの川に寄り添って流されて行く木の葉のように、寄る辺なく言葉をつむぎ、暮れる空を見上げる。 自宅に戻ると、キョンは隠居老人のように縁側で茶と菓子を側に置いて半分うたた寝していた。 「風邪をひきますよ。こんなところで」 一樹が冷えた床に膝をついてそう声をかけると、キョンは眠そうに目を開けた。 「あー、おかえり。寒い」 「ただいま帰りました。それは寒いですよ、縁側を開ける季節でも時間でもありません」 「いつもの猫が来てたんだよ…今日はもう少し近寄るかと思って見てたら眠くなって…」 だらだらとした動きのキョンを支えて、一樹はガラスのはめられた引き戸を閉める。キョンの肌は冷えてしまって、一樹は急いで自分の上着を彼に羽織らせた。キョンは当然のようにそれに腕を通して、大きなあくびをした。室内へ促す一樹の言う通り、彼に立ち上がらせてもらいながら、目をこすって何気なく問うた。 「今日は遅かったな。何してたんだ?」 一樹は、ふっと息を飲む。それはごく微かで、すぐ微笑む。 「新川先生のところへうかがっていました」 「そうか。最近よくうかがってるんだな」 一樹は、キョンが違う返事を期待しているのを知っている。学校の友達と遊んでいて遅くなったとか、夕食によばれてきたとか、そういう内容だ。一樹はキョンのそんな返事を聞いたら胸が壊れそうに痛むのに、キョンはそれを待ちこがれているのだ。もちろん、自分のためだということはよくわかっている。それでも、一樹は絶対にそんな返事はしたくない。キョンがいなくてもやっていけるように自分が着々と準備を整えていることを彼が報告してもらいたがっているという事実が、いやに気に障るのだ。もちろん、みくるのことは一言も触れたことなどない。みくるは非常に個人的で、内面的な問題に関わっており、むしろキョンに一番知られたくないことだった。みくるは幼い自分であり、今の自分のみじめな部分に密接に結びついていた。たとえ彼に相談したら立ちどころにみくるの問題が解決したとしても、自分が個人的な慰めのために彼女に会っているということの後ろめたさから、一樹は決してキョンにみくるの話をしようとは思わず、その逢瀬もひた隠しにしていた。 「新川先生はかつては鬼教師だったと聞いたこともあるんだが」 「そうですか。見識が広く深い教養で、お話はいつも大変ためになりますが、そのようなご様子はちっとも」 「俺も一度お目にかかるかな。叔父が随分しぼられたらしいんだよ。俺を相手したら先生も違うかもしれんな」 「どうでしょうか」 一樹は微笑んで、眠たげな彼のあらわな首元から視線を逸らそうと必死になる。話にろくに集中できない。以前はゆるんでいますよと袷を直すことも平気でできたのだが、最近は妙にためらわれる。彼に必要以上に近付くのはとても罪深いことに思えるのだ。 「もうすぐ夕飯だ。着替えてこいよ」 その言葉が救いで、一樹は頷くと慌てて立ち上がる。同時に、彼は自分と顔をつき合わせているのが鬱陶しくてそんなことを言ったのではないかと気にかかる。それを確かめるわけにもいかず、曖昧に笑って一樹は自室に戻った。 キョンのことを気にかけ過ぎているという自覚はあった。でも、一樹にはそれをどうすることもできなかった。 |