若緑のねむるころ 10
一樹がうつらうつらしだした頃、ゆっくりとオルガンの音が途切れた。一樹はそれを惜しく思いながら、畳を踏んで近づくキョンの静かな足音に耳をすませた。キョンは一樹の枕元へ、再び腰を下ろす。 その夕方の暖かい静けさに満ちた部屋へ、おそるおそるといった様子で谷口の声がかけられた。 「おい、キョン…」 瞼を閉じた一樹にも、彼が廊下から頭だけ出して話しているのがわかる。 「なんだ」 「古泉、寝てるのか」 キョンが一樹を見下ろす。一樹は、なんとなくそれを感じて、顔に陽の光を受けたようなぬくみを覚えた。 「ああ」 「彰華堂の豆餅買ってきたんだけどよ」 「悪いな。起きて調子がよければ食べるんじゃないか」 一樹はそのやりとりを意識の片隅で受けて、起きた方がいいのではないかと身じろいだ。そのときだった。 「ごめんください!」 鮮烈な光のように、谷に響き渡る笛のように、その軽やかな声が空気を切り裂いて彼らの耳に届いたのは。 春で使用人はぼんやりしているし生活に変化はないし、あまりに暇で退屈だから来てやったのよ、とは突然の訪問者、実は幼少のみぎりよりキョンの婚約者の候補のひとりである涼宮ハルヒの言であった。明るい黄色のワンピースをはためかせ、慌てふためく谷口を一瞥すると勧めもないまま応接間に上がり込んだ彼女を前に、キョンは深いため息をついた。 「おひとりですか」 「そうよ」 つばの広い白の帽子を取ると、ハルヒは手慰みにくるくると指でそれを回した。黄色のリボンがぴょんと飛び出して髪の上を滑る。 「腰元をまいて来てしまったから」 「よくこの家をご存知でしたね」 「たまたまよ。近くを通りかかって、表札を眺めてたらこの間聞いた名前があって、多分そうじゃないかと思ったのよ。それですっごく暇だったから寄ってみたの。何度も言わせないでよね」 「違っていたらどうするつもりだったんですか」 「間違うわけないじゃない。あたしがそうだと思ったらそうに決まってるのよ!」 キョンには使用人がいるとはいえ男性ばかりの家にひとりで乗り込む若い娘というものがそもそも理解できなかったし、彼女の話の内容も、訪問の目的もよくわからなかった。しかも彼女は自分の婚約者候補らしい。聞くところではややおてんばだが聡明で美しい、年の頃もぴったりな少女ということだった。家柄もこの地方ではキョンの家に継ぐ旧家で、最近は造船業でめきめき力をつけているとのことだったが、彼女は漠然と彼が抱いてきた許嫁のイメージとはおよそ遠い。 「思いがけないことで、装いも改めず申し訳ありません」 キョンが普段着の絣のきものを詫びると、彼女は顔の前で手をはたはたと振った。 「いいわよもう、そういう格好するの。あたしいっつもあなたがろくすっぽ会社の勉強会出てないの知ってんのよ。経営に興味がなければ勉学に身を入れるでもないぼんやりの本家の息子って有名よあんた」 「…そうかよ」 さすがにむっとした顔を見せたキョンを見ると、少女はにかっと歯を見せて笑った。 「あたしのことはハルヒでいいわよ。キョン」 突然の台詞に虚をつかれキョンが口をつぐんだところで、長門が茶と菓子を運んできた。 つややかな菓子置きの上に鎮座ましますのは、どうやら彰華堂の豆餅なるものらしい、うっすらと黒い豆を透かした小ぶりの白くもっちりした玉だった。 一樹は慌ただしくキョンと谷口が寝所を離れていく気配に覚醒し、だがふたりをわずらわせないよう眠ったふりをしていた。ひどい胸騒ぎがした。谷口がおとないの声に玄関へ行き、帰りざま駆けてくるなり声も抑えずに「お嬢さんが来た。涼宮のハルヒさんが」と告げた時、それを聞いてはっとしたようにキョンが腰を上げた時、一樹は心の臓が潰れそうに痛むほど鼓動を走らせた。いつか聞いたその人の名を、今よりにもよってこの幸福な夕方に再び耳にすることは、まるでこれからのその名の主による自分への影響を暗示しているかに思われた。 キョンが一樹の部屋に戻ってきたのは暗くなる前で、時計を見てもそう長い訪問ではなかったが、一樹はそれを永遠のように感じた。障子の滑る音に体を起こしかけて、キョンの顔が見えた時の安堵感はたとえようもなかった。 「起きていたのか」 キョンは申し訳なさそうにそう言うと障子を閉め、一樹の枕元の座布団に腰を下ろした。 「いえ、今起きたのです」 「来客があってな。日が暮れる前にお帰りいただいたが」 ふたりは少ない言葉を交わした。一樹は何も訊ねずに、キョンの様子をうかがった。彼はとても疲れているようにも、あるいはうわのそらでいるようにも見えた。一樹は横たわって、ほとんど無遠慮なほどキョンの顔を見つめていたが、キョンはついぞそれに気がつかなかった。 一樹は歯ぎしりしたいほどいらいらしていた。もっと高熱が出たらいいのにと見当違いなことを考えてため息をついた。キョンの伏せた目はいつもの位置からだと瞼を閉じたように見えるのだが、今日は下からのぞき込んでいるのでその黒々とした瞳がはっきりとわかる。その濡れたまなざしが人形の目のようにまるでこちらを見ていない。一樹はごろごろする氷枕の上で頭を左右に揺らし、落ち着きなく胸を騒がせながら、今日来たらしい娘について考えた。その人はどのようであったか。美しいか。しとやかか。たおやかで優しげか。品のよい微笑みを浮かべる口数の少ない人か。ひょっとすると明るくて、たまには冗談を言う性格かもしれない。 「あ」 不意に漏れたキョンの声に一樹は少し驚いて思考を止めた。キョンは確かに今度こそ一樹を見て、なにか思い出したように袂を探った。 「忘れてた。古泉、これ食うか」 何事かと一樹が思っていると、キョンは袂から懐紙にくるんだ包みを取り出した。 「谷口が買ってきた彰華堂の豆餅だ。箱からでなくて悪いが、調子がよかったら」 そう言ってキョンから手渡された包みを前に、一樹はこわごわと手を出した。やや不格好な形のそれは、おそらくキョンが包んだものだった。 「…いただきます」 一樹は起こした背を丸めてもそもそと餅を食んだ。谷口は日持ちのしない菓子はふたつしか買わない。一樹はそれを考えて、自分が少しばかり機嫌を直して、むしろ嬉しい気持ちでいることを女々しいと情けなく思った。いずれにしろ、その菓子に罪はなく、いつも通り溶けそうにやわらかくうまかったので、一樹はそれをすぐに食べてしまった。 「その分だと、明日には治ってるな」 キョンがそう言って微笑んだ。一樹は彼のその細く弧を描いた目を見て、また身体のどこかが痛むような気がした。 涼宮ハルヒ嬢は、それからたまにこのこじんまりとした清潔な家を前ぶれなく訪れるようになった。家の主人たちが知らないところで、長門と接触し彼女を気に入ったようだった。だが、一樹はまだ彼女ときちんと話したことはない。彼女の訪問に気づくと、一樹はキョンの応接間に向かう足音を聞くことさえ耐えられなくて、庭を熊のように一時間でも二時間でもうろうろとするのが常だった。自分のそのような感情の波を彼はただ不愉快としかとらえられず、やはりそういう自分に失望してつらく感じるのだった。 |