若緑のねむるころ 7

 一樹の高等商業学校に進みたいという希望を聞いた時、キョンは簡単にそうかと頷いた。一樹はただその意思を伝えただけだったし、キョンもそれに応じただけだった。
 実のところ、二人の通う中学校は高等学校も付属されており、外部に出る生徒は決して多くなかった。だが、キョンは一樹が自分の傍で息苦しく感じている可能性が捨てられなかったし、その進路は彼の背景と合わせて考えても自然な流れとも思えた。いずれ袂を分かつ相手であれば、慣れるための一年を置いて離れた学校に所属するのも一樹のためになるだろう。自分の状況を薄々気づき始めているらしい彼自身のことを考えても、悪くない選択だとキョンは思った。
 一樹はバランスの悪い青年だった。ひどくへりくだった態度をキョンに見せることもあれば、途端に尊大かつ丁寧な口調で谷口に接することもあった。自分でもそれに気づいて自己嫌悪に陥っているらしいところが度々見て取れて、キョンは何度か歯痒い思いをした。もっとゆっくりでいいのだと、そう言おうとして幾度も口をつぐんだ。一樹は秋が深まるにつれて、どんどんその存在感が薄くなり透明になっていった。
 ある夜の食事中に、余りの一樹の食の進みの悪さに、キョンはたまらず口を開いた。一樹はもうずっと、ろくに食事をしている様子がなかったのだ。
「古泉。もっと食わないと体が持たんぞ」
一樹は伏せた目をちらっと上げて義務的に少し微笑んだ。
「十分頂戴していますよ」
その時期、一樹は校内でできるだけキョンと距離を置くことを意識していた。キョンはそれを肯定的に捉えていたが、それだけに家の中でまでのその態度は癇に触るものがあった。
「どこがだ」
言うなり、キョンは長門も呼ばず櫃に手を伸ばして布巾を払うと、しゃもじを握って乱暴に一樹の茶碗を掴んだ。一樹が目を丸くしている間に、どんどん飯をよそってしまう。不慣れな手つきが盛り上がった飯と染付茶碗の上を行き来して、一樹に一言も言わせぬままそれを膳に置いた。彼がそんなことをしたのは初めてなのではないだろうか。一樹はキョンの不満げに寄せられた眉と困ったような瞳の対照的な様子に惹き付けられるような気がして、どこか好ましく思ってしまうとそれを米一粒残さず平らげた。その振る舞いを見て、キョンはようやく安堵した。自分がよそってなら食べるのかと、それから一樹の飯茶碗はキョンが扱うようになった。
 一樹はキョンの苦労を知らない指が自分の碗を這っている様子を見たさに、食欲の無さに目をつぶっていつもキョンから飯茶碗を受け取った。キョンによそわせた以上、彼は飯を食べないわけにはいかなかった。どうしてか碗をやり取りすると、一樹の唇は言葉を紡ぐのがたやすくなった。
「…今日は、新川先生のところへ伺いました」
キョンは一緒に下校しなくなってしばらく経った一樹の帰りが、今日は特に遅かったことを思い出した。どこかに寄る所があったかと思ったが、そういえば進学に対しての個人教師を先だって紹介したのだった。
「ああ、どうだった」
「いくつか問題集をくださいました。自分の力で解いて、わからない所を伺いに行くことになりそうです」
「そうか。どれくらいの頻度で行くんだ?」
「週に一度くらいだと思います」
「役に立つといいな」
「はい」
ありがとうございます、という言葉を一樹は飲み込む。それを言うとキョンが不機嫌になるのは目に見えていた。彼にしても、いちいちこの境遇で礼を言い出せば切りがないとわかっている。それでただ、ひどくゆっくりと白米を咀嚼した。舌に薄い甘みが広がった。

 一樹はその頃から、どこかで焦りを感じ始めていた。感覚や体が変化していることを自覚しながら、それを冷静に捉えかねていた。一日一日に疲労を感じた。朝目覚めて、キョンと摂る朝食はいきなり落ち着かないものだった。彼が余りに無防備に眠そうな顔でゆったりと時間を過ごしているのを見ると、困惑するばかりだ。自分が何に戸惑っているのかわからないが、不安で、キョンが本当に外になど出て行けるのかと思ってしまう。本当は自分が来るまで、自分より余程囲われて育てられてきたのでは、などと思ってしまう。それほど朝の彼はいつわりなく浮世離れていた。浮世離れというより、人ですらなさそうだった。とても上等な観賞用の動物のように、自然に見えた。一樹は彼の寝巻の襟の弛みや、寝起きの血の気のない肌や、こちらを流し見る黒目にかかる白い瞼や、開いた唇からちらりと見える光る歯を、違う種族のもののように思っていた。
 それで学生服に身を包んで玄関にやってくると、まるで普通の学生のようなのだった。一樹は目を疑ってしまう。面倒くさそうに靴を履いて、うんと伸びをして、ついでにあくびをもらしたりして、一樹を少し下から見上げる。その目は生命力があって、一樹が助けられることなど何もないように見えた。そうして二人で登校する間に、一樹はむしろ自分が助けられっぱなしであることを自覚してうなだれたり自分を励ましたりして、学校に着くとできるだけキョンに迷惑がかからないようにと心がける。本当にかけていないか気になってしばしばキョンを見てしまう。彼はほとんど故意に脱力しているらしく思えた。彼がそうやっていつも通りに気の抜けた様子であると一樹は安堵し、そうではないと内心非常に狼狽した。それでいて何と声をかけたらいいのかわからない。キョン個人の友人関係のために帰り道は別々にするよう心がけていたが、時々彼の後を追ってしまうことがあった。そういう自分の行動は不可解もいいところで、一樹はいっそ声をかけてしまえばと思うのに、のろのろとキョンと級友の後を追って、少し回り道をして時間稼ぎをしてから帰宅するのだ。
 帰宅してしばらくはようやく少し心が休まる。キョンは一人で部屋にいるので、落ち着いて勉強をすることができる。この時間を経てからの夕飯は心穏やかだった。キョンは自分が食べていると機嫌がよさそうである。つつがなく食事を終えるとまたお互いで時間を持つので、一樹は少なくとも朝まではそれほど焦らない。だが、キョンの帰りが遅いとこの限りではなく、気になって気になってろくに問題集に身が入らず、犬のように玄関や庭をうろうろとしてしまうことがあった。長門にじっと見られていて、訊かれてもいない言い訳をしたことも一度や二度ではない。記憶のページをめくってキョンの交友関係を思い出すが、その度にいかに自分が彼を知らないかを知る。そういう時は夕食もうまく喉を通らない。帰宅したキョンも自然と困った顔になり、お通夜のような空気になってしまうのだった。キョンが夕食を他所でよばれた日など、一樹は早々に寝てしまうことにしていた。大抵は布団の中でごろごろしているばかりだったのだが。

 キョンは時々ひどく気がめいったようになる一樹を案じていた。季節は冬だった。年を越してもうすぐ休暇も終わる。一樹は堰を切ったように話す時と沈み込んで言葉を飲み込んでいる時の落差が激しく、原因は環境の変化かと思いながら、内心まだ慣れないのかとため息をつきたいような気持ちもあった。一樹にも友人はいるらしいのだが、そこまで親しく付き合う気もないらしく勉強ばかりしている。自分に話す内容にしても腹を割った印象はなく、いつまで一線を引き続けるのかと思ってしまう。休暇中も常に自分に対しても緊張感があり、いつ彼は気を抜けるのかとつい心配になる。休みくらい母親のところへ顔を出せばどうかと言ったが、首を振って落ち着かなさげにしているこの家にいる。こうして考えられること自体わずらわしいのではないかと余り構わないようにしてはいたのだが、それでも時折はしっかり食べろと声をかけていた。
 谷口に言わせれば、キョンは一樹を甘やかしているのだった。
「だってお前、お前に飯よそわせる奴がどこにいるんだよ。俺は初めて見た時我が目を疑ったよ。そしたらもうずっとだって言うじゃねえか」
谷口は頭をかいてほうきの柄に顎を乗せた。玄関前の庭で白い息を吐いたキョンは、両手を袂に入れる。
「そんなこと言うけど、ああでもしないと食べんだろうが」
「食わなきゃいいんだ」
キョンはため息をついた。
「その割には甘いものを切らしたことがないな。俺だけの時は言わなけりゃ菓子なんて買わなかったくせに」
そう言われて、谷口は憮然とした。実際、一樹の好みに合わせた菓子を買いそろえているのは長門ではなく谷口だった。そんな指摘を受け入れるわけもなく、口をとがらせて谷口は反論する。
「ありゃお前、最近お嬢さまが来るかもしれないって旦那様に言われてるから…」
「そんなこと百年くらい前から言われてるだろ。ハルヒ嬢は一生挨拶なんぞ来る気はないぞ」
キョンは手をぱたぱたと振って室内に入った。顔も知らない婚約者候補などで幼なじみにからかわれるのはごめんだった。
 突っかけていた下駄を脱いで上がり框に足を上げると、そこに一樹がいてキョンはぎょっとした。
「どうした」
一樹はこわばらせた顔をぎこちなくゆるませると、思い切り作り笑顔を浮かべた。自然すぎて奇妙な笑顔だとキョンは思った。

 そんな風にして、二人は飯を食ったり気を遣ったり思いやったり不機嫌になったりしながら、一定の距離を明けて十五の冬を過ごした。一樹は黙々と勉強して、周囲に心配をかけることもなく志望校に合格した。二人は、お互いに異なる学校へ進むことに少し安堵し、少し不安になった。






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