若緑のねむるころ 6

 隣でじゃりっと、靴裏で小石が擦れ合う音が響いた。衣擦れの音で、一樹は背後の人物が自分の斜め後ろに立っていることを悟った。
「休み時間はおしまいだろ」
頭上から降る声は、朝隣で聞いたものと寸分変わらない。ただ、その変わらなさが一樹には奇妙に思えた。
「古泉」
呼びかけられて、のろのろと一樹は顔を上げた。光を背に顔は暗かったが、確かにキョンがそこに立っていた。
「古泉、どうしたんだ?」
僅かに腰を屈めて、キョンは一樹を覗き込む。
「いえ…」
一樹はうまく言葉が出てこないまま、俯いた。
「我慢するなよ。気分悪いならこんな所で休むな」
「気分が悪いわけじゃ、ないんです」
不意に影が差した。一樹が不審に思ってそっと見上げると、キョンが手を伸ばしていた。長い指が目の前にしっかりと存在して、一樹はそれがひどく眩しかった。
「ほら」
促されて、その手を握る。思いのほか強い力で、一樹は体を引き上げられた。ひどく重いものはまだ奥深くに突き刺さっていたが、立ち上がり歩くことはできるようになった。キョンは気負わない無表情だったが、一樹の瞳をひょいと覗き込むと、
「疲れてるんだろ、ちょっと休んだらいいじゃないか」
と言ってにやっと笑った。それは悪ふざけをする子供の顔つきだった。

 キョンは一樹の腕を引いてテラスを後にすると、そのまま近い階段を降りてしまった。授業は、と遠慮がちに訊ねる一樹を適当にいなして、そのまま校舎を出てしまう。空はあっけらかんと晴れ上がっていて、にじむ汗を風が乾かした。音読する生徒の声も遠ざかり、偶然か教師に二人の姿は見とがめられない。キョンは西門へ向かうと、大きく伸びをした。空にぐっと拳が突き抜ける。そのままやにわに振り返ると、戸惑ったままの一樹をじろじろ見た。
「古泉、家まで歩けるか?」
一樹は目を瞬かせながら頷いた。キョンはにこっと笑った。
「そうだな。大丈夫そうだ」
学校から家までは歩いて二十分程度だ。途中短い坂があるが、体調が優れずとも歩けない距離ではない。一樹が気にしているのはそんなことではなかった。
「あの、お帰りになるのですか」
「うん?そのつもりだが、どこか寄りたいところがあるのか?」
「いえ、そういうことではなく、よろしいのですか。授業はまだありますよ」
「ひどい顔色でそんなこと言うな。古泉なら午後くらい早引けしても支障ないだろ」
「鞄も置いたままです」
「大事なものがあったのか?」
「いえ、小銭程度しか入れておりませんが」
「教科書なんていらないだろ。明日まとめて持って変えればいいさ。登校は手ぶらで楽だぞ」
そう言われてしまうと、一樹は何と反論すればよいのやら分からなくなった。ただ、キョンの気持ちがしみ通るように胸を暖めた。礼を言うのも違う気がして、一樹は一心にその背中を見つめた。白いシャツは、飄々とした彼のように風に膨らんではしぼんだ。

 二人が家に帰ると、玄関先の草を刈っていたらしい谷口が汗を拭って振り返った。
「おかえり。今日は早えなあ」
「おう、ただいま」
キョンはすました顔で敷居をまたぐと、上がり框で靴を脱ぎながら長門を呼んだ。滑るように出てきた長門は、お帰りなさいと小さな声で礼をした。
「何か冷たいもの出してくれ。もう暑くなってきたな。後で谷口にも麦茶出してやれ」
小さく頷いた長門は、そっと一樹を見上げた。一樹はどういう顔をすればよいのか分からず、小さく会釈をした。長門は静かな湖のような瞳で、また礼をすると、静かに台所へ下がった。
 居間で出された葛きりに黒蜜をかけていた一樹は、前のキョンの視線に気がついた。目が合うと、キョンはおかしそうに笑った。
「古泉、お前かけすぎだろう。甘くないのか、そんなにかけて」
一樹は黒々とした自分の椀を覗き込む。
「おいしそうです」
「そうかい、そりゃよかった」
キョンは申し訳程度に黒蜜をかけると、黒塗りの箸を取り上げてつるつると半透明の葛きりを啜った。薄い唇から伝う菓子は柔らかく噛み切られ、椀に落ちて行く。伏せたその目は縁側の方へ向き、強い風にちりちりとなる風鈴を見上げた。
「もう夏だな」
ええ、と応じると一樹も箸を上げた。冷たい菓子は喉越しもよく、甘さに肩の力が抜ける。一樹は甘い菓子が好きだった。昼食後とあって空腹は感じていなかったが、旨いものは間もなく平らげてしまう。上げ下げする箸に、何となく一樹はキョンの視線を感じた。特に反応はしない。いつものことで、どうやらキョンは自分が旺盛に食欲を見せるところを見るのが面白いらしいと一樹は感じていた。椀を下ろして息をつくと、キョンが微笑んだ気配がした。空気が緩んで訪れる沈黙が、一樹は嫌いではなかった。
 この日のことは、一樹にとって印象的である。キョンの気づかいや生来の優しさ、彼といる居心地のよさに気づかされた日であり、同時に学校という小さな社会で、自分に対する明確な不特定多数の悪意というものが発露した日だったからだ。それはどちらも初めて感じるもので、どちらも一樹を反対の方向へ引っ張り合う綱のようであった。

 次の日、昼休憩すぐに一樹は同級の者に呼び出された。何となくキョンに気兼ねし、悟られないように教室を出ると、図書室の二階で待っていたのは三人の生徒だった。二人は自分を不快に思っていると前々から感じていた者で、一人は意外にも真面目そうに見えた。彼は背筋を伸ばすと、口を開いた。
「古泉君、単刀直入に訊ねるが、君はある生徒に多大な悪影響を与えている自覚があるか」
一樹は首を振る。
「いいえ、ありません」
「では自覚してほしい。誰のことを言っているのか分かるな。恩を仇で返すような真似はやめろと言っているんだよ」
「僕がですか」
「彼は目立つタイプじゃないが、誰もが一目置いている。それを家のおかげという者もいるし、僕はそれを否定しないが、それだけではない。そういう家の長男に生まれついてああいうゆとりのある者はそういないと思う。そうは親しくない僕でも、彼をすごく年上の人物のように感じることが時々ある」
そんなことをここ数ヶ月共にいた自分の方がよく知っているとも、あるいは三年同級の彼の方が上を行くところがあるのかとも思い、一樹は少し眉を寄せて頷いた。その表情に、目の前の少年も不快そうな顔になる。
「彼は一見気楽そうだが、ずっと無遅刻無欠席であることは知っているか」
「…知りませんでした」
「そうだったんだよ。君が来るまでは」
ーーー君が来てからというもの、彼の家もご両親も何より彼も、君を引き取ってのことで少なからず評判を落としている。君だってお父上の仕事の仕方は知っているだろう。僕の父も同じ業界の人間だ。他にも何人もそういう者がいる。親と子は違うと思いこそすれ、今まで何も言わないできたが、昨日のようなことがあっては黙っていられない。聞けば彼は君を探しに行ってずる休みをしたんだろう。君は彼に甘え過ぎているんだよ。仮に君がどれほどの聖人君子であったとしても、君という存在を引き取った時点で彼と彼の家は不利益を被っていることを自覚すべきだ。君の家は成功も失敗も含めて醜聞に近いんだ、特に僕たちの親世代にとっては。

 一樹はその非難をごうごうと吹きすさぶ嵐のように聞いていたが、ひどく耳にこたえる一言があった。
「もし君がこのような話を寝耳に水だと思っているなら、それまでずっと彼に守られていたんだ。彼が君の代わりに受け取って、気づかれないようにしていたんだよ」
一樹は瞼を閉じた。黙って、一度だけ頷いた。






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