若緑のねむるころ 5
重厚な石柱の門を抜け、深い緑のトンネルをくぐり抜けると軽く汗ばむ。キョンの通う中学校は厚い森に囲まれていた。一樹はキョンと並んで、注意深くその歩調を乱さないように気をつける。キョンはやや猫背気味に上半身を傾けてあくびをしていた。一樹は彼を見ていると、場違いにのどかな気分になる。毎日連れ立って歩いて、もう数ヶ月になる。最初は随分と注目を集めてきまりが悪かったものだ。一樹は別に一緒に登校することもなかろうと思っていたのだが、そうすることで一樹がキョンに近しい者であり表立って悪し様に言う相手ではないことを周囲に知らしめることができるようだった。キョンにそうした思惑があるのか、それとも何の考えもなしなのか、一樹にはわからないままもありがたく、二人は登下校を共にしていた。 「おはよう、キョン」 「…おお、おはよう」 洗い立てのような挨拶の声にキョンがのんびり返事をする。後ろから追いついたのは同級の生徒だ。古い造り酒屋の息子である。 「おはようございます」 一樹がそう言って会釈すると、彼は顎を少ししゃくった。 「キョン、一昨日の話考えてくれたか。先生に一度ご相談しに伺おうと言っただろう」 キョンは返事をせず、眉間に少し皺を寄せている。一樹は出来る限り静かに歩みつつ、そっとその表情を窺った。 「来年からのこと、どうするんだ。少しは覇気を出さないと」 「ああ、まあそういうのはお前や古泉に任せとくよ」 唐突に自分の名前が出されて、一樹は顔には出さないまま驚いていた。彼らは高等学校に向けての話をしているのだろう。 「…彼と同じ学校に行くのか?」 「行けるのかねえ。さて、どうするか、古泉」 下からいたずらっぽい目つきで見上げられて、一樹は返答しかねてただ微笑んだ。視界には、不快そうに口を結んだ同級生が見える。 「俺はまあ、なるようになるよ」 そう言って背伸びしたキョンに、彼は一歩先に進んで呟いた。 「君はもっと向上心を持つべきだ。…そんな」 何か言いかけて、そのまま片手を挙げ会釈する。キョンが手を振ると、それきり彼は先に校舎に入ってしまった。 「あなたのことを気にかけているのですね。いいご学友だ」 一樹がそう言うと、キョンは首を傾げた。 「そうかねえ。あいつが挨拶もちゃんとできない男だとは思わなかったが」 一樹が思わずキョンをまじまじと見ると、キョンは眠そうな顔で続けた。 「古泉、お前これからのことも思うままにしろよ。俺に従う必要もない。したいことができるところに行けばいいさ」 二、三回古泉の腕を叩いて、キョンは校舎に入った。薄い手が腕の上にくっきりと動き、去っていく。その微かな感触と台詞に、一樹は改めて自分自身と向き合うことになった。 したいこと、できること。キョンの手。後ろ姿の、寝癖のついた髪。 キョンは教室ではいつもぼんやりと眠そうにしていた。普段話していると頭のいい人だと一樹はよく感じるが、勉強にはそれほど身が入らないらしい。一樹は頼まれた時はいつでも対応できるようにしようと、殊更きれいにノートを取っていたが、キョンにそれを必要とされることはまだ無かった。この授業態度で、自宅ののんびりした様子から考えても、さほど問題のない成績を維持しているというのは驚くべきことだと一樹は密かに考えている。 キョンの前の席の国木田が、振り返って何事か話しかける。二人は尋常小学校からの同級生で、家族ぐるみの付き合いをしている幼なじみだ。そういう友人を持たない一樹にとって、それはどことなく眩しく、今は直視することすらためらわれた。次の授業までの僅かな時間を風にあたろうと、一樹は静かに席を立った。 廊下のどん詰まりに面したガラス戸の真鍮の掛金を外すと、さっと涼しい風が抜けた。長いカーテンがはためく。一樹は急いで外に出て、簡単に扉を閉めた。石造りのテラスは八畳ほどでそう大きくはないが、大地から伸びた大きな楠が影を作って居心地がよい。ここは樹ばかりで眺めが悪いせいか、他の生徒は他に行って余りこのテラスには来ない。それも一樹にとっては、息を抜ける理由だった。 編入してすぐ、何人か見覚えのある生徒がいた。何の会で会ったのか思い出せる者もいれば、すぐには出てこない者もいる。彼らも驚きを露にした様子で、自分を知っていることはすぐ分かった。そうでない者達は、ただ興味深そうな表情、値踏みするような目つきでこちらを見て、キョンと共にいることで途端に愛想をよくする者もいれば、無関係と決め込む者もいた。あっという間に自分の背景は周囲に知れ渡ったが、そのことでかえって、一樹は人の値打ちが分かるような気がした。いたわるような視線を向けられると辛かったが、少数ながら何事もないかのように礼節をもって接する同級生もおり、彼らは一樹を安心させた。あるいは、キョンの存在がそうさせるのかもしれなかった。 不意に背後でギイと音がして、振り返るとそこには二人の同級生がいた。珍しい者だと一樹は驚いたが、それは彼らも同じようだった。一人は短く刈り込んだ髪を撫でて、一樹をじろじろと眺めた。 「何をやってるんだ、こんなところで」 「風にあたっているんですよ」 そう言いながら、一樹は経験的にこの状況のまずさを何となく察知していた。二人の視線は少しも好意的にならない。そして自分の態度や容姿は、ともすれば人の感情の振れ幅を大きくすることを彼は知っていた。 「いい気なものだな。人の世話にはなり慣れているのか」 目の釣った痩せた生徒がそう言うと、もう一人が頬を歪めて笑った。 「恥ずかしくはないのか、のうのうとそうして、俺ならとてもそんな風ではいられない」 一樹は黙っていた。彼らの感情を逆撫でする気はなかった。 「いい機会だ。噂を確かめておこう、衆人の前ではないことだし」 「噂ですか」 「若かりし頃の母君と同じように、とある家に世話になっているとか」 一樹は二人のぎこちなさの残る笑顔から目を逸らした。彼らが言いたいことがその表情から何となく察せられるが、手のつけようもなかった。 「ええ。とてもお世話になっています」 「そうか。こうして見ても、なるほど稚児にはうってつけだな」 そこまで言うかと一樹は顔を上げる。 「どこぞのお父上は、よほどこの顔にご執心と見える」 一瞬息が詰まる。一樹は出ない声を絞り出した。 「それはあの方のご厚意を侮辱する言葉です。訂正して下さい」 一樹の言葉を最後まで聞きもせず、彼らはいなくなった。一瞬自分の妄想だったのではないかと思い、振動が残るガラス戸にそんなことはありえないと思い直す。足音が遠く聞こえる。 一樹は呆然と爪先を眺めた。そこまで直接的な言葉を投げかけられるとは思いもよらず、何が彼らをそうさせるのかも分からなかった。自分は嗜虐心を煽るのだろうか。それとも自分の父親はかつて、彼らの家によほど大きな損害を与えでもしたのか。こんな侮辱を受けたのは初めてだ。十分この状況を理解し、納得した上での入学だと思ったが、実際に体験するとなると全く異なる衝撃だった。それは深く鋭く一樹の腹に沈み、一樹はゆっくりとテラスにしゃがみ込んだ。 その時、背後でコンコンと扉が叩かれた。一樹が顔を上げられないでいると、強い風に乗って声が届いた。 「古泉、何してるんだ。腹でも痛いのか」 一樹は、ただかぶりを振った。静かな足音がゆっくりと近付いてきていた。 |