若緑のねむるころ 4

 一樹は自室にとあてがわれた一間の襖を開け、知らず息を飲んだ。そこには数週間前まで暮らしていた自宅で使っていた洋机があった。隣に並べられた机に合わせた本棚もその中の書物も、父親が自分に与えてくれたものだ。家が人手に渡った時点でおよそ全ての持ち物は諦めていたが、母が手配したのだろう。そっと手を伸ばしてマホガニーのどっしりとした机を撫でると、胸が微かにゆるんだ。
 これを父から贈られたのは、一樹が小学校に上がってすぐのことだった。海を越えてきたその大きな机に見事な彫刻は、父が母のために建てた一等地の洋館にため息が出るほどよく似合った。子供心にも一生傷つけず大切にするべき品物だということがわかった。背が伸びるまでは、机に届くよう誂えた背の高い椅子に上るのも一苦労だった。家庭教師がペンをかすらせて表面を傷つけたことがあったが、その時の憤りを一樹は今でも忘れられない。もの静かで真面目な家庭教師に腹を立てて逆らったのは、あの一度だけだ。
「捨てて下さい」
澄んだ声で、一樹はそう言った。
「は?」
背後にいたキョンが怪訝な面持ちで眉をひそめると、一樹は振り返った。
「いえ、売って下さっても構いませんが」
「…どういう意味だ?それはお前の机なんだろう」
「今こんなものは必要ありません」
「あってもいいだろうが」
「駄目ですよ。場違いも甚だしいです。谷口君のお力をお借りしておいて申し訳ありませんが、何か別の文机をお貸し頂ければ幸いです」
「場違いって何だよ。古泉、変に気を回すなよ」
一樹は微笑んだ。その唇は一言も無駄を許さなかった。
「お願いします」
キョンはしばらくその無表情の微笑に対峙して、それからため息をついた。やれやれと呟いて、頭を抱えた。

 キョンが一間挟んだ寝所に戻った後、谷口が言われた通り机を引き取りに一樹の元へやって来た。
「本当にいらないんすか」
「いりません」
「かあ、もったいねえなあ。これ元はいくらするか知ってんのかよ」
「存じませんが」
「いや俺も知らねえけどさ」
谷口は机に手をかけて首を振った。こりゃ隣の三ちゃん呼ぶかな、なんて呟いていたが、そのまま僅かに机を廊下に押しやりながら口を開いた。
「あんまりキョン心配させんなよ」
「どういう意味ですか」
つい返した一樹の問いかけに、谷口は軽く頭を振って廊下を出て行った。やはり隣の奉公人の手を借りるらしい。
 もしかすると、この机を手配したのは母ではないのかもしれない、と一樹は思った。本当にあの男は口が軽いようだと思った一樹は、冴え冴えとしたその顔に何の感情も浮かべることができなかった。胸の中も、ひどくがらんどうで、そのくせ疲れていた。

 その夕方、寝所に大きな行李を運んできた人物を見て、一樹は合点した。華奢な体を縹色に包んで、膝をついている。その白い小さな顔や静かな大きい目は、冬の空を連想させた。
「ひょっとして、長門さんですか」
小さく頷く小柄な少女は、そっと行李を押しやった。
「学校の用意。学生服もある」
それだけ言うと、長門は静かに一樹を見つめた。礼を言う一樹を穴が空くほど見つめて、一樹が気まずくも視線をそらせないでいると、立ち上がってそのまま音もなく廊下へと下がった。
 またオルガンの音がする。今度は昨日と違って、すぐ近くでよく聞こえる。淡々とした演奏だが、ミスタッチはない。彼だろう、と一樹はわけもなく思った。昨日の音色も彼のものだったのだ。がつん、がつんとふいごを踏む音が、彼らしく落ち着いた響きをもたらしていた。

 一樹は庭に面した廊下に出て、暮れる夕陽の日差しを瞼に受けた。
 何も裏切らず、何も捨てず、全てを守ろうと思った。父の遺志も、母の気持ちも、後見人の気まぐれも。世界の端に立っていると思った。風も吹かず人も通らない平野で一人ぼんやりと夕焼けを眺めている。全てがぬるく停滞した場所で、馬鹿みたいに突っ立っているばかりだと思った。自分は現状を冷静に受け止め、決して出過ぎず、固く固く守る。何を守っているのかはわからない。ただ高い高い頑丈で冷たい石で壁を築き、それを積み上げて行くことだけに務めようと思った。
 風にまぎれて、なにか音が聞こえた。それは、オルガンの音色なのかもしれなかった。

 それは後で一樹が思い返すと、最も空虚な隙間のような時間だった。新しい中学校に最後の学年から編入するということは、一樹にとって想像していたよりも骨の折れるものだったし、考えることも多い時期だった。編入する中学校は由緒正しい家とブルジョワの息子が混在しており、狭い社会のこと、自分を知る人間がいないはずもない。後ろ指を指されることは間違いない入学だった。すぐ来年からの進路についても考えねばならない。この負債の返し方も。
 それでも山積する問題をよそに、規則正しくこの静かな屋敷に朝はやって来るのだった。谷口が慌ただしく雨戸を開け、長門が閉じた襖の中に膳がしつらえれられる。猫が庭の池を眺め、キョンが緩んだ寝間着をそのままにぼんやり洗面に出てくる。一樹は障子から布団に映る光を体を起こして辿りながら、黒の漆塗りの文机を見つめた。引手の細かい彫りものなどその陰翳も見事だ。書物も目新しい本棚に入れ替えられている。襖に描かれた鶴も床の間の掛け軸も、何もかもが見慣れない。
 それでいいのだと、一樹は小さなため息をついた。






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