若緑のねむるころ 8

 谷口から見ても、最近の一樹は落ち着いていた。
 この町の屋敷に来てからの一年間、一樹は常にそわそわとして、ある日は頬を上気させて庭を歩き回っていたかと思えば、ある日は顔面蒼白で柱にもたれてぼんやりしていた。太陽が東から昇って西に沈むように、朝が来れば腹が減り、夜になれば眠くなる谷口にしてみたら、その不安定さは病気持ちとしか思えなかった。
「悪いことぁ言わねえから、医者に見せろよ」
我慢できず、ある日庭先でうずくまっていた一樹に谷口がそう声をかけると、一樹は薄茶の帯にきりきりと締められた細い腰をひねって振り返った。
「何か御用ですか」
「だから医者に見せろ。気分悪いんだろ」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「てめえのその話し方をどうにかしろとか言わねえけど、キョンの前で絶対そんなところ見せんなよ。あいつにこれ以上心配かけんな」
「あなたに言われるまでもありません」
その慇懃な物言いに谷口はすっかり腹を立てて、倒れるなら倒れやがれと鼻息も荒くその場を去った。
 しかしながら、実はそういったことは一度や二度ではなかった。一樹は胸を去来する様々な心配事で頭が一杯だったし、谷口は一晩寝たらあらかたのストレスを解消できる性格だったので、二人は広いの庭のあちこちや廊下の陰でそうした会話を何度か飽きもせず繰り返していたのだ。その内に谷口は一樹をちょっと落ち着きの無い病弱なやつだと解釈した。

 だから、高等商業学校に進んでからの一樹の落ち着き方は彼を少しほっとさせるほどだった。違う学校に通うようになってから一樹は肩の力が抜けたようになり、その姿にキョンも安心しているようで、冬頃の緊張した雰囲気は二人の間から消えていた。朝方物置にいても二人の笑い声がすることがある。何事かと廊下を覗き込むと、棒立ちになった一樹の肩をキョンが遠慮なく叩いて笑っていたりするのだった。
「お前、朝弱いんだな、気づかなかった」
指を差されて顎に飯粒が付いているのに気が付いた一樹は、慌ててそれを取って頬を紅潮させていたりするのだ。いつも朝はほうけているキョンはそれで目が覚めたのかにやにやしながら、笑われて眉をハの字にしている一樹の袖を引いて玄関に向かっていた。
「そんなに笑わないで下さい」
困ったような顔でまごついている一樹はそれでも嫌そうではなく、されるままに腕を引かれて廊下を曲がって消えた。
 春になって暖かくなったのがいいのだろうか、と谷口は腕を天井に向けて伸びをした。あくびが口をついて出る、のどかな一日の始まりだった。

 一樹は、実際安堵していた。恩人の息子である一方でライバルのような気持ちもありながら、頼っているくせに心情的には頼れない、友人というには余りに複雑な関係の相手と、付かず離れず生活を共にするというのは、一樹にとって思っていたよりはるかに重圧になっていたようだった。日中は家を出たら帰るまでお互いの視界には入らない、という明確な区切りを与えられて、彼はようやく息をつけるようになった。学校ではキョンがいないために、却って事情を知る者もそうでない者も意思を表すのに余計な気を回さない。それも割り切れて気が抜けたし、父の遺志を継いで事業家になるという将来のために努力しているという事実が一樹を力づけた。前に進んでいる、という現実が心を支えるのだ。帰宅したらキョンが戻るまでそわそわするのはいつものことだが、今日あったことを話せるのは嬉しい。勉強の合間に何を話そうかと考えて時間を過ごす。一樹の顔色がよくなると、心なしかキョンの機嫌もよくなるようだった。以前のように不自然なほど気を遣うことなく、時にはぞんざいにさえ感じられる態度を示した。投げやりなキョンの態度さえ、一樹には優しいものに思えた。
「キョンくん」
そう呼びかけると、大抵キョンは眉間にしわを寄せて振り向いた。
「何だよ、気持ち悪い。妹の真似するな」
「おや、お寂しいかと、そうなら少しでもお慰めしようかと思っていたのですが」
「あいつにはこの間も会ってきたし、大体慰めにならんだろ」
「そうですか、それは失礼しました」
そう言って微笑むと、キョンはいやそうにため息をついたが、それから僅かに顎を上げて一樹の瞳を窺い見るその目は、とても穏やかだった。一樹はその眼差し欲しさに、度々キョンの気を引こうとあれこれ努力した。わざと距離を縮めて話すとキョンがひどくいやがったので、それが面白くて、一樹はつとめてキョンが驚くほど彼と身近に接した。一樹はそれは大切に、絹の布団で包まれるように育ち、その後大変に疎まれ、周囲から腫れ物に触るように扱われていることに慣れていたので、キョンの親しみを前提とした気の置けない嫌悪の表情は非常に新鮮だった。キョンの耳元に不意に顔を寄せて囁くと、その肩がびくっと揺れる。ぐいと胸を押されて離されると、その表情が明らかになる。柳眉が寄って、瞼が伏せられ、なめらかな耳が少し色づいている。薄い唇が少々乱暴に一樹をののしるが、それが一樹には嬉しかった。初めて身近に感じられた者と共に暮らし、夢に向かい、努力できる環境。その生活は、一樹にとってこれまでにない大切なもので、これからも静かに続くはずだった。

 一樹の新しい学校は、二人の家の隣の市にあった。それで一樹は電気鉄道を利用し、キョンは今まで通り徒歩で通学していた。以前にキョンは実家から車と運転手をよこそうかとの打診があったのだが、特に不便も感じていなかったのでそれを断っていた。そのために、逆方向に家を出るキョンは知らなかった。一樹の存在感が、駅で引き起こしていることを。

 背筋を伸ばして赤煉瓦のホームを踏みしめる一樹はすらりとして、漆黒の学生服は彼をひどく禁欲的に見せた。実際、道行く女性にもろくに目を向けず、俯いて書物に目を落としている姿は僧か教師のようであった。
 朝と夕には、一樹など学生や勤め人が利用するものとは別の、特別な車両が駅に停まった。その近隣の裕福な女子が通学するため誂えられた、彼女達だけのための華々しいものだ。彼女達は笑いさざめきながらそれに乗り込み、憧憬の眼差しを送る男子学生など視界にも入らぬかのように駅を出ていく。その明るく、恵まれた少女達が、自分達どころか外界のあらゆるものを遮断して書物を読み耽っている一樹を見つけるのにそう時間はかからなかった。あるリーダー格の上級生が一樹を指して、道真公から『菅原さま』と言い出したことから、一樹はすっかりその界隈の女学生に菅原さまで定着してしまったのだった。
 菅原さまは立ち居振舞いの優雅さや、浮世離れした風の佇まいが身を包む学生服との間に不思議な違和感を生み、それが魅力でもあった。女学生達は慎み深く、決して彼に近付くことはないまま、ただ髪が短くなったとか昨日まで手にしていた書物は読み終えていたようだとか、そういった他愛ない話でしばしば盛り上がった。それに対して一樹は生来一人になることが少なく、自分に視線が集まることに慣れてもいたので、このような状況にひどく鈍感だった。
 だから、一人の少女が自分の背中に倒れ込んできた時も、ごく自然に彼女に手を伸ばして助けたし、その時あらぬ方から響いた黄色い悲鳴にもろくに気がつかなかった。

 それは雨の日だった。学校が終わって、学校からほど近い駅に足早に駆け込んだ一樹は、傘を閉じるためしばしの間立ち止まった。その駅は地元の商人達が自分の子供のために設立した学校やら施設が住宅地の間に建てられた土地の最寄り駅で、のんびりとした雰囲気がいつも漂っていた。一樹は改札に向かおうと顔を上げたところで、どんと背中に衝撃を受けた。何か風船の抜けるような声が足下から聞こえたので、慌てて一樹は振り返った。彼の革靴の前には、亜麻色の豊かな髪を背に下ろした少女が泣きそうに眉を寄せてへたり込んでいた。紫の袴が濡れた床の雨を吸ってじっとりと濡れている。一樹は思わず手を差し出して、彼女を立ち上がらせた。
「ご、ごめんなさい…あたし、す、滑っちゃって…」
少女はそう言って頭を垂れた。恥ずかしさのためか頬を染めて目がこぼれ落ちそうに潤んでいる。
「いえ、大丈夫ですか。車を呼びましょうか」
一樹がそう声をかけると、少女は思い切り首を振って、ありがとうございましたとお辞儀をすると、はじかれたように踵を返した。思わず一樹がその矢絣の背を見送ると、彼女は少し離れたところにいた友人らしい女学生の集団に囲まれていた。華やかな嬌声が盛り上がり、彼女達は一斉に一樹を振り返るとお辞儀をした。一樹は礼を返すと、何となく一団が改札を通り抜けるのを眺めていた。躾けられた女学生達はそれ以上彼と接触しようとはしない。ただ、転んだ少女が車両に向かう折にそっと顔を傾けた時、ほんの一瞬二人の視線が交わった。間もなく、降りしきる雨の中を女学生を乗せた車両は駅を滑り出していった。






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