砂漠のふたり

back next contents


10


 酔っていたのだ。遠野は後になって、言い訳のように思った。
 しかし事実だった。酔っていたのだ。以前とは違い、マキセさんではなく――遠野が。そうでなければ、訊ねたりは、しなかっただろう。
「昔の恋人のこと?」
 何を急に、とマキセさんは不快そうではないものの、不思議そうな顔をした。遠野は構わず頷く。「そう、どんな人」
「どんな、と言われても」
「名前とか、性格とか、色々あるでしょう」
 マキセさんは短くなった煙草を唇から放し、ゆっくりと紫煙を吐き出した。「名前は、はじめ」
「はじめさん」
「ああ」
 銀色の灰皿で、きゅ、と煙草を捻り消し、マキセさんは遠野の顔を覗き込んだ。「どうした?」
「え……何が」
「泣きそうな顔をしている」
 頬を滑る指に、遠野は本当に泣きそうな気がした。首を振る。
「別に。――他には?」
「他に? そうだな、干渉するのが好きな奴だった」
 マキセさんは困った奴だった、と愛しげに目を細める。
「自分の好きなものを、他の人間にも好きになってもらおうとする奴だった」
 するする言葉の出てくるマキセさんの口を見ていたくなくて、遠野はふい、と顔を背けた。「何だか我儘な人に聞こえる」
「我儘な奴だったよ」
 マキセさんは溜息を吐く。
 今でも好きなの。という言葉を遠野は必死で飲み込んだ。「でも、好きだったんだね」
「ああ」
 マキセさんは、静かに頷いた。ぐるりと部屋を見渡し、口を開く。「全て、何もかもを捨ててしまわなければならなかったくらいに」
「え?」
「物がないと、遠野も言っただろう。当然だ。ほとんどの物をはじめと別れた時に捨ててしまった。それだけでは足らずに、部屋も捨てるように、変えてしまった」
 どうして。考える間もなく、遠野の口から問いかけが零れる。
「そうしなければ、何か――俺の中から何かが吸い上げられてしまうと思った。からからに、干からびてしまうような気が、した」
 マキセさんは酷く遠い目をしている。その目は、遠野には与えられないものだ――そう気づいてしまうと、胸が苦しくて死ぬかと思った。今度こそ、本当に泣いてしまいそうだ。
 ――マキセさんは、まだそのひとのことが、本当に好きなのだ。
「どうして」
「遠野?」
 マキセさんの顔がぼやけた。
「どうしてそんなに好きなの、笑ってられるの。そのひとはマキセさんを捨てたのに」
 酷いことを言っている。遠野は思った。自分には全然関係のないことだ。マキセさんと昔の恋人のふたりの人間に口を出す権利も、はじめというマキセさんの昔の恋人を詰る理由も、遠野にはないのに。
 マキセさんは、また怒るだろう。遠野は覚悟して、でも怖くて、顔が上げられなかった。初めて言葉を交わした夜のように『君には関係ないだろう』と言われてしまったら、今度こそ愛想をつかされ嫌われてしまったら、自分はきっと、立ち直れなくなる。
 だが、耳に届いたのは、吐息の零れる音だった。
「変な奴だな、お前は」
 ぽんぽんと頭を撫でられて、遠野は顔を上げてしまった。その拍子に、溜まっていた涙がぼろぼろと零れていく。
「何故お前が泣く」
「知らないよ」
「変な奴だな」
 マキセさんは遠野の目尻に唇を当て、涙を拭う。そのまま涙の跡を辿るように唇は頬を滑り、遠野の唇に触れて、すぐに離れた。くすりと笑う。
「何て顔してる」
「何て、って……」
「目が零れ落ちそうだ」
 マキセさんはするりと遠野の顔の輪郭を撫ぜた。遠野はびくりと身体を震わせる。
「マ、マキセさ……何も、しないって……」
「嫌か」
 嫌じゃないとは言えずに、遠野がマキセさんの胸に手を突く。マキセさんは口元を緩めて身体を離した。
 遠野はほっと息を吐いたが、どうしてか物足りずに、マキセさんをちらりと窺い見た。マキセさんはじっと遠野を見つめている。「遠野」
「長澤さんのことを、気にしたか?」
「え――何、ですか急に」
 遠野の手を、マキセさんは握り、引き寄せた。「お前が、誕生日が祝ってくれると言って、嬉しかったよ」
「そ、そりゃあ誕生日ですし……」
 握られた手を引っ張ることも出来ずに、遠野はわたわたと視線を逸らす。マキセさんは、それを許さないかのようにぐっと更に手に力を篭めた。
「俺は、期待していいのか」
「な、何言ってるんですか。マキセさん、酔ってるでしょう」
「酔っていない」
 マキセさんの目は、いつかのように怖いくらい真剣に遠野の胸を刺した。
 黒々とした瞳が綺麗だ。遠野はこんなときなのに、そう思った。
「で、でも、マキセさん……最近失恋したばっかりで……」
「ああ、そうだ。自分でも、この変わり身の早さに呆れてしまう。だが」
 だが。マキセさんは苦しそうに眉根を寄せた。「おまえが」
「おまえが、いてくれて俺は本当に救われている。おまえのおかげで、こうして――背筋を伸ばしている」
「俺、何もしてないのに」
「そんなことはない。俺は、おまえがいてくれて、本当に嬉しい」
「マキセさん……」
 言葉が出なかった。本当に、自分は何もしていないのに。
 マキセさんが失恋から立ち直れたとするなら、それはマキセさん自身の力だ。確かに、一度は酷い八つ当たりをされたけれど、それは遠野にも非があることだ。
 マキセさんのために自分に何かが出来るなんて、遠野には思えなかった。
「嫌か」
 固まったままの遠野に、マキセさんが問う。
 遠野はマキセさんを見つめ返す。少し揺れる瞳が、不安を含んでいるようだった。――マキセさんも、不安を感じるのだろうか。そう思ったら、ふと、肩から力が抜けていくような気がした。
 握られたままの手は、遠野の震えに今にも離れてしまいそうだ。その手を、今度は遠野が強く握った。


back next contents

09.08.29


Copyright(c) 2009 NEIKO.N all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!