砂漠のふたり

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 すごい偶然だ。
 マキセさんと遊園地へ行って、数日経った日だった。信号待ちしていた遠野は、背後からガラスを打つ音が聞こえて振り返った。
 あるのは、よく通りはするけれど、入ったことのない喫茶店――不審に思って店内に視線を移すと、すぐそこにはマキセさんがいた。
「マキセさん!」
 思わず大声を出してしまった。じろじろと見てくる人に頭を下げながら、その場を離れたくてそそくさと遠野は喫茶店のなかに入った。狭い店内で、全席禁煙というわけでもないらしくすぐに煙が鼻を衝く。
 マキセさんはいつものように仏頂面で、遠野を見ると手を上げた。
「マキセさん」
 遠野が小走りで寄ると「あら」と傍らから涼やかな声が聞こえる。何故気づかなかったのか、マキセの向かいにはスーツ姿の女性が座っている。
 驚いて遠野が目を瞬かせると、そこにいた女性はにっこりと笑った。「こんばんは」
「こ、こんばんは」
 マキセさんの横に立ちながら、遠野はどぎまぎと頭を下げた。
 女性は細身のスーツをぱきりと着こなした、美人だった。短い髪からピアスが覗いている。
「あらあら、可愛い子じゃないの。どうしたの、どこで見つけたの」
「長澤さん」
 苦々しそうに、マキセさんが唸った。女性は、長澤と言うらしい。遠野は再び頭を下げながら、「遠野です」と名乗った。
「長澤です。初めまして――どうぞ、座って」
 有無を言わせない雰囲気に、遠野は深く考えられないままに長澤の横に腰を下ろした。目の前にいるマキセさんは、いつもより不機嫌そうだ。いつも不機嫌そうだけれど、今日は、また増して。
 声をかけたのはそっちなのに。遠野は唇を尖らせる。来たら、邪魔だったのだろうか。
 遠野はちらりと長澤に視線を投げた。雰囲気は大きいのに、小柄で華奢な身体つきな、不思議な女性だった。さぞかし仕事のできる女性だろう。遠野は思う。それからふと、ここでふたりきりというのが、デートのようなシチュエーションだと思い当たった。思い当たってから、自分でも信じられないほど動揺してしまい、店員が運んできた水の入ったグラスを倒してしまった。
「あ、あっ」
「あら」
 慌ててグラスを直したが、水はほとんどが零れてしまった。テーブルの上を伝い、遠野の膝にまで零れた。
 するとすっと白い手がハンカチを膝の上に乗せた。
「どうぞ、使って」
「え、で、でも」
「ほら、早くしないともっと濡れるわよ」
「あ、あああ、す、すみません」
 もうハンカチも水を沁みこみ始めている。今更辞退しても無駄なので、遠野はハンカチを借りることにした。そのうちに店員に持ってこさせた布巾でマキセさんがテーブルの上を拭った。
「す、すみません。本当に」
「気にしなくていい」
 マキセさんは素っ気無い。いつものことだが、なんだか今日は、もっとその素っ気無さが胸に痛い。
 このまま謝って、場を辞そうか。遠野が考え始めたとき、隣の長澤が「ふふ」と笑みを零した。
「貴方にこんな可愛らしいお友達がいるなんて知らなかったわ」
「……長澤さん」
「何よ、そんなに怖い声出して。何も取って喰おうとしているわけじゃあないのよ?」
「信用できません」
「失礼ね――ねえ、遠野君って言ったかしら? 遠野君もそう思うでしょ」
 長澤の言葉に頷いたらいいものかどうか、遠野は曖昧に相槌を打つ。なんだか席を立つタイミングを逃してしまった。
「あの、長澤さんは……その、」
「上司だ」
 遠野の言いたいことがすぐに分かったのか、マキセさんがいやにはっきり答えた。逆にはっきりしすぎていて怪しい、と遠野は思ったが、当の長澤が「本当に可愛いげのない部下でねえ。困っちゃうわ」と溜息を吐いた。
「三十にもなる男に可愛いげを求めないでください」
「これだもの。ねえ、遠野君、知ってる? 今日ってこのひと、誕生日なのよ」
「え? ええ?!」
 知らなかった。遠野は驚きすぎて、言葉が浮かばない。目を大きく見開いて見つめると、マキセさんは気まずそうに顔を逸らした。
「な、何で言ってくれないんですか!」
「別に。言うことの程でもない」
「程のことですよ!」
 息を切らして怒鳴ると、マキセさんは不満そうに「何故誕生日なのに怒られねばならないんだ」とごくまっとうなことを言ったので、遠野は浮かしかけていた腰を下ろした。
 言ってくれよ。遠野は片手で顔を覆う。そうだと知っていれば――知っていれば?
 遠野ははっと我に返る。言っていれば、何だというのだろう。
 祝った? それは、恐らく間違いなく、祝っただろう。遠野にとってはもう、マキセさんは知らない人というわけではない。電車のなかでは自然とお互い探しあい、言葉を交わすようになった。けれど、そういうのではなくて、もっと。
 もっと、なにか――。
「ほうら、見なさい。普通は怒るのよ、こういうふうに」
「別に、部下だからと言って誕生日を祝ってくださらなくてもいいんですよ。長澤さん」
「……可愛くないわ」
「全く以って結構です。どうぞ、今日は帰って下さっていいですよ。後は彼に祝ってもらいます」
「マ、マキセさんっ」
 いくらなんでも帰れとは、上司に対して失礼なのではと遠野は青くなる。長澤は自身の頬を人差し指でとんとん、と叩いた。その動作で、彼女の手に銀色の指輪が光っていることに、遠野は気づく。
「俺は円満な家庭を壊したくはないです。新婚で、旦那を放っておいて別の男の誕生日なんて祝うもんじゃないですよ」
「彼なら気にしないわよ、きっと。むしろ一緒に祝いたいくらいの立場でしょう。貴方たち、仲良いじゃないの」
「長澤さんの目の前ではあいつはいい顔をしたいだけですよ――後で俺が嫌味を喰らうでしょうね」
 何の会話をしているのか。遠野が首を傾げると、長澤がにこりと笑って、左手の薬指を示した。
 銀色に光る指輪。
「先月結婚したばかりなの、私。相手はこの人の友人でね」
「あ、そうなんですか。えっと、おめでとうございます……?」
 遠野がどう答えたものかと考えながら述べると、長澤は吹き出した。「あ、ありがと」笑いながら、腹を抱えている。
「でも、そうねえ……ま、そこまで言うのなら、私は帰ろうかしらね。家に連絡も入れていないし――遠野君」
「え、はい!」
「後はよろしく。祝ってやってね?」
「は、はい」
 微笑まれながら頼まれ、遠野はつい背筋を伸ばして頷いてしまう。「よし」と長澤は頷くと、綺麗な指でするりと伝票をつかみ立ち上がる。
「長澤さん――」
「ま、安いけれどこのくらいはさせて頂戴」
 腰を浮かせかけたマキセさんを制して、長澤さんは目元を緩める。「おめでとう。じゃあ、また明日ね」
「遠野君も。今度は食事でもしましょうね」
 にこりと微笑まれて遠野はぎこちなく頷く。長澤はそのまま肩越しに軽く手を振って行ってしまった。
 斜め前に座るマキセさんをちらりと窺いながら、遠野はこれからどうしようかと頭を悩ませた。


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09.08.28


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