砂漠のふたり

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 あれ? と思ったものの、乗り込んだときにはすでに遅かった。
「うっ……?」
 通勤ラッシュで混んでいる時間だが、普段よりも酷い。いつものように駆け込み乗車で乗り込んでしまったから分からないが、何かあったのだろうか。――それとも、乗る電車もしくは時間を間違えただろうか。遠野は不安になる。
 斜め前にいるOLの肘が腹にめり込む。呻き声を押し殺していると、「遠野」とやたらと腹に響く低い声が間近で聞こえた。と、同時に伸びてきた手が遠野の肩を抱きこみ、身体の位置をずらしてくれる。
 一気に呼吸が楽になり、遠野はふはあ、と大きく息を吐いた。
「あ、ありがとうマキセさん」
「いや」
 「おはようございます」と挨拶しながら見上げた先での、マキセさんの顔がいつもより柔らかい――気がする。遠野は無性に恥ずかしくなり、「もう大丈夫だから」と抱きこまれた肩を外そうとする。
 しかし、身じろぐと、マキセさんはより手に力を込めた。
「混んでるんだ、我慢しろ」
「そっ……ええー」
 するりと肩を抱きこんだときのように、するりと腕を放すのも、マキセさんには簡単なはずだ。遠野が不満げに見やると、マキセさんは、ふ、と微笑んだ。遠野は間近で直視してしまったその表情に言葉を失う。顔が酷く熱い。脈拍の音が、まるで耳元で鳴っているみたいに大きく聞こえる。
 落ち着け。遠野は深く息を吸い込む。呼吸がし辛いのは、電車のなかだからだ。必死に自分に言い聞かせる。
「嫌か」
「え?」
 抱きこまれた肩が不安定になる。マキセさんが、力を緩めたからだ。
「嫌なら外す」
「え、えと」
 遠野は口ごもる。放してくれ、と言ってしまえばいいのだが、口からは「別にそんなに嫌なわけじゃあ……」と言葉が漏れた。途端にぐっと肩がつかみ直された。
 遠野は、何だかほっと力を抜いて、マキセさんを見た。マキセさんの目は、悪戯っぽく微笑っている。
「マ、マキセさんからかいましたね!?」
「からかったわけじゃない――遠野」
「何ですか」
「眠れなかったのか?」
 目が赤い。潜められた声に、遠野はまた、呼吸の仕方を忘れてしまう。俯き、口を開いた。
「そんな、ことはないです」
 嘘だった。分かりやすいだろうとは思ったが、口にせずにはいられなかった。ここで頷いてしまったら、まるで、マキセさんのことを気にして眠れなかったみたいだと思ったからだ。――事実、その通りなのだが。
 遊園地は楽しかった。遠野は思う。
 マキセさんは遊園地でもマキセさんで、それでも少し、身近なひとになったように遠野は感じた。重厚な存在感は形を変え、温かく遠野のなかに染み入ってきた。
 でも。遠野は思う。でもあの手のひらには、どんな意味があったのか。
 冷たいけれど、優しい触れかただった。雨に濡れた柔らかな指先が触れることに、遠野は嫌悪を感じなかった。それどころか、すごく――ものすごく、どきどきした。
 微かに鼻に触れる煙草の匂いに、マキセさんを今までにない近さに感じて息が止まった。
 その後マキセさんとどう別れ、どう家路についたのか、遠野は良く覚えていない。ただそれでもずっと、それこそ朝までマキセさんのことを考えていた。考え続けていた。
 これじゃあまるで。遠野はちらりとマキセさんを見やる。これじゃあ、まるで――。
「遠野?」
「へ!?」
 マキセさんが不審そうに覗き込んでいる。それに気づくと、遠野はぐっと首を反らした。
「どうかしたのか」
「え、あ、いや何でも……そう言えば今日は何でこんなに混んでるんでしょうね」
 多少強引に話題を変える。マキセさんはまだ不審そうな顔をしていたが、追求はしない様子で溜息を吐いた。
「踏み切りで自動車が……」
 問いかけに答えるマキセさんの声をどこか遠くに聴きながら、遠野はこれ以上このことについて考えまい、と思った。
 あれは、きっと気まぐれだ。マキセさんは、まだ恋人を想って泣くようなひとだ。それでも誰かに、触れたくなるようなときだってあるのかも知れない。それでいいじゃないか。遠野は思う。
 でも。と胸のうちから声がした。でも、じゃあ、自分は? と。
 自分は何故、あの手のひらを受け入れてしまったのだろう。――いや、きっと、それも自分の、気まぐれなのだ。遠野は苦し紛れでも、そう思うことにした。
 そうでなければ、後戻りできなくなるような気がした。


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2009.08.27


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