砂漠のふたり

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 遠野は朝から感情の移り変わりが激しく、その日はもう、遊園地に入るなりぐったりしてしまっていた。寝不足も祟っている。
 遊園地に辿り着いたのは九時半だった。早すぎる時間に、これではまるですごく楽しみにしているみたいだと居た堪れなくなった。そして今度は、待ち合わせ時間が近づくにつれて不安になってきた。
 本当にマキセさんは現れるのだろうか。
 別の予定があるのでは、とか、気が変わってしまったのでは、とか考え出すときりがない。また別の不安も芽生え始める。待ち合わせ場所も明確に決めていなかったのに、携帯のナンバーも知らない。
 それに、と遠野は空を見上げる。今日は、雨だ。
 傘を差しながら遊園地にいるというのは少し空しい。遠野は深々と溜息を吐いた。この天気だからと、マキセさんが来ないということもありえるのではないだろうか。
 しかし遠野の心配は、全て杞憂に終わった。
 マキセさんはきちんと十時になる十分前に現れた。――いつものように、かっちりしたスーツ姿で。
 黒い革靴に革の鞄。ネクタイも締めたその格好は、遊園地にはそぐわない。雨のなか、ぽつぽついる客の中でも大いに目立ち、遠野はすぐに彼を見つけることができた。
「待たせたか」
 黒い傘が妙に似合っている。遠野は知らずその傘を見上げてから「いえ」と首を振った。「あの、会えてよかったです」
 ぽつりと遠野が呟くと、マキセさんは怪訝げな表情を浮かべた。遠野は「ええと」と自分の唐突な発言を反省しながら、わたわたと手を振る。
「連絡取る手段とかなかったし、今日、雨だし」
「来ないと思ったということか?」
「来なくても不思議じゃないと思いました」
 正直なところ、と付け加えるとマキセさんは重々しく頷いた。それもそうかと納得したのか、それとも当然だと思ったのか。マキセさんは口数が少なく、表情もあまり動かない。遠野はその感情の動きを知るすべの少なさに、途方に暮れそうだった。
 けれど、どちらにせよ今日は雨だ。遊園地日和というわけにもいかないだろう。そもそもスーツを着た男性と遊園地という時点で間違っているようにも思ったが、遠野はあえてそのことは考えないことにした。
 どうしましょうかと遠野が訊ねる前に、マキセさんは受付の方へと足を進めている。遠野は驚き「え」と声を漏らしながら、慌てて後を追う。
「あの、今日、雨ですよ」
「そうだな」
 だから傘をさしているんだとマキセさんは不思議そうに遠野を見返す。足は止めない。
「遊園地って、普通、晴れた日に行きますよ、ね」
「そうか」
「そうかって、……いや、だから今日は」
 遠野が止める先で、マキセさんは受付の女性からチケットを購入した。フリーパス、大人二枚。その一枚を、遠野に差し出す。遠野は戸惑いながらも、受け取った。
「あの、ありがとうございます」
 遠野が頭を下げると、ふっとマキセさんが微笑した。その柔らかく動く頬に、遠野は目を瞬かせる。
「……あの?」
「いや。君がかしこまる必要はない、と言いたかったんだ」
「あ、はい。……でも、買ってもらったことには、変わりありませんし」
「そうか」
 マキセさんはゆっくりと入り口へ足を向けた。遠野も続く。
 雨だが、周りにはそれなりに人がいた。この遊園地は室内にもアトラクションが設置されている。主に子供向けだが、そのせいだろう家族連れが多かった。皆、マキセさんを見ると少し目を見開く。やはりここでスーツというのは、おかしいのだろう。遠野は頬を緩めた。
 マキセさんは入り口を通り、数歩進むと足を止めた。そうして辺りを見回す。けぶるような雨に、スーツ姿のマキセさんはぼんやりと遠野の目に映った。妙に幻想的で、他に誰もいないような錯覚を受ける。
「どうした」
「え」
 ぼう、と見惚れてしまっていた。遠野は強く首を振る。「なんでもないです」
 そう言いながらも、遠野はマキセさんの様子に疑問を浮かべた。懐かしそうに、少し痛みを覚えるように目を細めている。
「マキセさんは、もしかしてここに来たことがあるんですか」
 別れた彼女と一緒に、という言葉は飲み込んだ。問いかけに、マキセさんは一瞬現実に引き戻されたかのように遠野を見つめる。そうして「ああ、いや……」と曖昧に、肯定とも否定とも付かない応えを返した。遠野も先日の件から深く追求はしなかった。ただ物思いに沈むマキセさんの表情に、どうしてか焦燥を覚える。胸のあたりに何かーー明らかによいものではない感情が広がる。ざわりと、砂をひっかぶったような。
 雨のせいかなと遠野は思う。さあさあと降り続けている小糠雨は、傘をさしていても身体にまとわりついてくる。体温を奪うように。
「大丈夫か?」
「あ、……すみません」
 呼びかけに、遠野は再びはっとした。また知らずぼんやりしてしまっていた。昨夜は今日のことが気になってあまり寝付けなかったから、そのせいだろうか。
「別に謝る必要はないが。疲れているなら、帰るか?」
「まだ来たばかりですよ。五分も経っていない」
 遠野は苦笑した。もとより入るつもりなどなかったのだが、フリーパスを買った以上は回ってもいいと思った。もったいない。
 遠野は近くにある棚から地図を取り出した。湿気のせいで柔らかくなった紙を広げる。「どこを回りましょうか」
「どこでも。君の好きなところに行けばいい」
「はあ。えっと」
 じゃあまあ室内にとりあえずと遠野は傘を首と肩の間に挟み、地図を畳みながら歩き出す。マキセさんはすいっと遠野の傘を持ち上げ、その作業を手伝った。
「あの、ところでマキセさん」
「何だ」
「名前、覚えてます?」
「何の」
「俺の」
 そういえば自己紹介をしたのは、マキセさんがすっかり酔っぱらった後だったのだった。と、遠野は先刻気が付いた。教えたのに、一度も名前を呼ばれていない。
 マキセさんはふっと息を吐いた。「覚えている」
「遠野学」
「あ、ほんとだ。覚えてる」
 遠野がほっと安堵の息を漏らすと、マキセさんは苦虫を噛み潰したような顔をした。「俺は、」迷うように、視線を巡らす。
「君のような年下の知り合いが、いない」
「はあ」
 それで、と遠野は促すようにマキセさんを仰ぐ。マキセさんは少し、困っているようだった。表情は相変わらず厳しい。それは、一貫して変わらない。けれど、何がしかの空気が雨粒の隙間を縫って、遠野に染みていくようだった。
 だからだろうか、考えていることが伝わってくるように思う。もしくはそうであって欲しいと、遠野が思っているだけかも知れない。
「俺も、いませんよ。マキセさんぐらいの年齢の知り合いって」
「そうか」
 はい。と遠野は頷く。そうしてふと、マキセさんが何故困っているのかが分かった。――名前を、呼ばない理由。
「遠野でいいです」
 自分は今まで通りマキセさんと呼ぶけれど。そう遠野が笑んで見せると、マキセさんは一度、目を瞬かせた。それからその目元を柔らかく和ませる。
「遠野」
 低い声が、遠野の胸の底で響いた。じんわりとした痺れが手や足の指先から抜けていく。――何だこれ、と遠野は胸元を抑えた。ざわざわする、というのが近いだろうか。何かが身体のなかでさざめいている。
 行こうかとマキセさんが歩きだしても遠野はすぐには動き出せず、困惑したまま深呼吸を繰り返した。


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2009.08.25


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