砂漠のふたり

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 起きたとき、遠野は早朝だと咄嗟に思った。早い時間はいつでもどこか、空気が違う。
 しばらくぼんやりと天井を見上げてから、はっと身体を起こす。寝る前に在った重みがない――ぐるりと部屋を見渡すと、すぐ脇のテーブルにマキセさんはいた。火のついていない煙草を銜え、ライターを手のなかで遊ばせている。
「起きたのか」
 昨日はかっちりとスーツを着っぱなしだったマキセさんだが、今は上着を脱ぎ、ワイシャツ姿になっている。一番上のボタンがひとつ外され、髪は少し解れていた。そんな場合ではないと分かっていながらも、妙な色香を感じてしまい遠野は咄嗟に目を逸らした。
 ――昨日のことを思い出してしまう。
「気分は」
 マキセさんは吸ってもいない煙草を携帯灰皿の中に捻じり入れた。
 気分? 遠野は昨夜あった、自分のなかの怒りが随分小さくなっているのを感じた。寝起きという頭の働いていない状態のせいもあるだろう。
 それでも、到底マキセさんのしたことを許容するわけにはいかない。わざと顔を背けたまま、「最悪です」と不機嫌な声を出した。
「まだいたんですね」
「ああ」
 嫌味もあっさりと返されてしまい、遠野は拍子抜けしてマキセさんを振り仰いでしまう。
「……敬語じゃないんですね」
「何か問題があるのか?」
「いえ、昨日は敬語だったし……」
 遠野は自分が酷くどうでもいいことを訊ねていると分かっていた。それでも何とか、その間に、目の前の男を罵倒して追い出す言葉を探そうとしていた。
「量が過ぎると、ああなる」
「普段は、そういう口調なんですか……」
「目上には敬語だが」
 言われて初めて、遠野は自分がマキセさんを上に見ているということに気づかされる。自然と、敬語を使ってしまっている。
 敬語を使うような相手でもないのに。遠野は自分の性格が恨めしい。「あの。」
「昨夜の――」
「大きな目だな」
「はあ?」
 昨夜のことをなんと言ったものか。とりあえず口を開いたのに、出足を挫かれて遠野は思い切り眉根を寄せた。
 しかしマキセさんは感心している様子でまじまじ見つめてくる。
「零れ落ちそう、と言うのはこういうことを言うんだろうな」
 初めて知った。と続けるマキセさんに、遠野は元々あまりなかった責める気が更に削がれてしまう。
「あの、マキセさん。俺が怒っているの、ちゃんと分かってます?」
 そもそも昨日のことをちゃんと覚えているのだろうか。遠野は訊ねる。
 マキセさんは手のなかのライターを弄りながら、視線を逸らした。
「……傷つけるようなことまでは、していない」
 遠野は目を吊り上げた。
「だから何ですか、大したことじゃないとでも言うつもりですか」
「違う」
 マキセさんは、ライターをぱたりとテーブルの上に置いた。それからゆっくりと、身体ごと遠野のほうを向く。
 黒い目が強く遠野を見据える。遠野は、少しだけ怯えた。
「すまなかった」
 マキセさんは、深く頭を垂れた。
「え」
 遠野は目を瞬かせた。時折傲慢そうにも見えるこのひとが謝ったりするとは、思っても見なかった。てっきり君も悪いとでも言われるかと思っていたし、事実遠野自身、そのことは密かに認めてもいた。行為自体には憤慨しているが、そこに至るまで怒らせてしまった負い目は在った。傷つけたのだろうと、酔っていたからと言って言っていいことと悪いことがあると、分かっている。尤も、酔っているからといって、酷いことを言われたからといって、やっていいことと悪いことがあるのだが。
 マキセさん、遠野は呟く。
「謝って済む問題ではないのだろうが、償えるものならば償いたい」
 マキセさんは頭を上げずに続けた。「何でもする」
 何でも? 遠野は首を傾げた。マキセさんの真意は何処にあるのだろう、と思った。
 別に、謝ってそのまま放っておいたっていいはずだ。マキセさんと遠野は、同じ駅を利用しているというだけで、親しい接点があるわけでもない。
 最初に考えたのは、この事実をおおっぴらにされたくないのか、ということだった。例えば、マキセさんの通勤先を調べて訴える、警察に訴える、等――だから言うことを聞く、というのは分かりやすい。尤も、遠野も男でありながら酔っ払った男を家に上げて仲良く飲んで無体を働かれた、とは言い振り回したくない。
 違うのだろう。遠野は思い、マキセさんに顔を上げさせた。
 黒い目が、じっと遠野を見つめ、答えを待っている。分かっている。マキセさんは恐らく――真面目な気持ちで、償うと口にしたのだ。
 謝罪には誠意が感じられた。演技だとも考えられたが、そんなことをするくらいなら、きっと遠野が起きるのを待たずに出て行くだろう。そうして考えているうちにふっと、気付いた。先程の発言は、言い逃れのためではなく、確認だったのだと。
 遠野はただでさえ弱火だった怒りが、すっかり鎮火していくのを感じた。ほとんど許してもいいと思ってしまっていた。――まあ、犬に噛まれたようなもの。と自分に言い聞かせる。
 しかし、ただ許してしまう気にもならなかった。折角何でもする、というのだし――そんなことを考えていると、ふと、テーブルの上に投げ出してあった雑誌が目に付いた。
 特集、とでかでかと書いてある――「遊園地……」
「は?」
「マキセさん、さっき何でもするって言いましたよね? じゃあ、遊園地に付き合ってください」
「……構わないが」
 マキセさんは理解できない、という表情を露骨に浮かべた。眉間にシワが寄っている。
 当然だ、と遠野は思った。遠野自身でさえ、自分が何を言い出したのか理解し難い。
 しかし、今更後には引けない。遠野は難題に取り組む心地で「じゃあ決まり」と雑誌を捲り、比較的近い遊園地のページを開いた。
「ここに明日十時に」
「……明日か」
「都合、悪いですか?」
「いや、問題ない」
 マキセさんの顔色は優れない。
 「本当に?」遠野は不安になって訊ねたが、「問題ない」と繰り返されただけだった。
 マキセさんは手帳を取り出し、遊園地への交通ルートをメモし始めた。黒い皮の手帳。予定はびっちりと書き込まれており、今更ながらに相手が社会人だと意識する。
「あの、別にまた都合のいい機会でもいいんですが」
「明日は休みで都合は良い」
 ぱたり、とマキセさんは手帳を閉じた。取り付く島もない。
 それからマキセさんは遠野へと視線を投げた。マキセさんはいつでも真っ直ぐに目を見つめるので、遠野は少したじろいでしまう。
「遠慮をする必要はない」
「え、いや……」
「君はもっと、無理難題を吹っ掛ける、くらいの気持ちになってもらって構わない」
 マキセさんはあくまで真顔なので、遠野は途方に暮れる。「そう言われても……」
 遠野が困っている間にも、マキセさんはきびきびと手帳を鞄にしまい、立ち上がる。遠野も慌てて立ち上がった。それを確認するように、マキセさんは頷き「では明日」と玄関に向かう。
「あ、あの本当に……」
 自分から言い出しておいてなんだが、本当に明日マキセさんと遊園地に行くのだろうか。遠野は、イマイチ実感がわかない。
 マキセさんは玄関のドアノブをつかんだまま、遠野へと振り返った。「ひとつ、いいか?」
「え、はい」
「何故遊園地へ?」
 「え」遠野は視線を泳がせた。「えっと」
 問われても、遠野にも分からない。むしろ遠野のほうが訊きたいくらいだった。
 ただちょっとマキセさんに付き合ってもらおうと言う――本当に唐突な思いつきに過ぎないのだから。
「理由は、自分でも良く分かりません」
 開き直って正直に答えると、マキセさんは「そうか」と頷いただけだった。そして「では」とさくさく出て行ってしまった。
 声をかける間もなかった。
 遠野はしばらく玄関に立ち尽くし、徐々にまた怒りが湧いてくるのを感じた。――何故自分が、こんなに困らなければならないのだろう。悪いのは、むしろ相手の側なのに。
 明日は本当に無理難題を押し付けてやろう。遠野は強く心に誓い、拳を握り締めた。


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2009.08.24


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