好きなんだ。そう言って樋村は名取から離れた。名取が困惑げに見上げると、帰ろうか、と樋村は言った。
「帰りながら、ちゃんと話すよ」
「……彼女は」
「メールしておく」
言うなり樋村は携帯を開き、カチカチと手早く操作した。それはすぐに済み、「行こう」と樋村は鞄を背負う。
名取はその背を追うように教室を出た。日が短くなったと、ぽつりと呟くと樋村は「もうすぐ冬だもんね」と微笑む。
目を刺すような、鮮やかなオレンジ色。
同じことを思ったのか、樋村は「小学生の頃」と切り出した。
「よく、一緒に遊んだよね」
「……ああ」
「晴太んちのおばさんによくふたりして叱られたっけね」
「そうだな」
名取は曖昧に頷き、「俺は」と言うべきか言わぬべきか迷ったことを口にした。
「…………俺は……お前を、親友だと思ってた」
樋村は足を止めた。名取が見上げると、目は合わせずに、「俺も」と苦しげに笑う。
「俺も、晴太のことを親友、というか、一番の友達だと思ってた。晴太と遊ぶのが一番楽しかったし、一緒にいるのが当たり前のような感じがしてた」
小さかったあの頃。名取は樋村を、通、と名前で呼んでいた。
「じゃあ、何で……」
いつの日か、答えてもらうのを諦めてしまった問いかけ。訊ねたら、きっと今なら答えてくれるのだろう。
樋村は分かっているよ、とでも言うように微笑む。分かっているから、訊いてみればいい。そんなふうに。
「何で、一緒にいたくないって、言った?」
「――気づいたから」
「? 何に」
樋村はじっと名取を見つめる。名取は落ち着かずに、唇を噛んだ。
「俺は晴太の親友になれないって、ことに」
はっきりとした言葉に、名取の胸が痛む。顔が歪んだのが分かったのだろう、樋村の顔にも痛みが浮かんだ。
けれど『ごめん』とは言わない。名取はほっとする。
「好きな女の子の話、したことがあったよね。覚えてる?」
「……ああ」
「俺、あのとき名取が言ってた女の子のこと、まだ覚えてるよ」
「え?」
自分ですら忘れているのに。名取が言葉もでないでいると、樋村は「晴太は忘れてそうだけど」とくすりと笑った。
「あれが、きっかけだったんだよ」
「きっかけ……?」
「好きな女子は? って訊かれて、俺はそんなの考えたこともなかった。他のやつに訊かれたときは、どうでも良かったけど、晴太にそう訊かれたとき、じゃあ、晴太はいるのかなって思った」
外にでると、もう日が沈んだ後らしく薄暗い。うっすらと伸びた自身の影を名取は踏んだ。
「思って、訊いたよ。――いるの? って」
そのときなんと答えただろう。名取は思い出せずに眉根を寄せた。
「晴太はそのとき、クラスの女子の名前を挙げたよ。可愛いって言うより、ちょっとシャキシャキしてる、元気な子だった」
「……そうか」
「うん。俺は、何だかそれが、すごくショックでね」
怖くなった。樋村は言う。
「怖い?」
「うん。晴太が――」
言葉を探してか、樋村の視線が空を彷徨う。「晴太が、自分のものじゃないって、はっきり分かったから」
「ものって何だよ」
「言い方が悪いかも知れないね、ごめん。なんて、言ったらいいのかな……俺の一番は晴太だったけど、晴太の一番は俺とは限らないんだと、分かった。そうしたら、耐えられなくなった」
名取は、ぼうっと樋村の話を聞いていた。あの頃、樋村が何を考えていたのか――名取が知りたかったことが、明らかになる。
「こんなのは変だ、おかしいって、思った。好きな人はって言われて、晴太しか浮かばない。それだけなら、単純に今好きな子がいないからだって思えるけど、晴太が――晴太が、誰かと付き合ったりしたらって考えるだけで、目の前が真っ暗になってしまう」
樋村が自嘲気味に笑った。その顔が何処か自棄に見え、名取は不安になる。
今――今の樋村は、何を考えているのだろう。
「あの頃って、幾つだったっけね。でも、もうそのときにはそういう……同性愛者のことくらいは知ってた。自分がそうだと思ったりはさすがになかったけど、そういうことなのかなって思った。思ったら、また、怖くなった」
「……何が」
「晴太に嫌われることが」
「俺? 俺が何で――」
「俺が晴太に向けている感情は、晴太が女の子に向けている感情と一緒なんだよ。自分でも、十分変だと思ってるのに、晴太にまで変だって言われたら? 否定されたら? 気持ち悪いって、言われたら……?」
名取は言葉を失う。そんなこと言うはずがないだろう、と言ってやりたかった。
だがあの頃、名取は確かに樋村を友人のくくりでしか見ていなかった。樋村の感情を知ったとき、幼かった自分は何を言っただろう――簡単には、樋村の言葉を否定できなかった。
「もちろん、それだけじゃなくて、勘違いなのかも知れないって思った。ちょっと一緒にいすぎたからなんじゃないかって。この感情を、俺はあのとき認めてしまいたくなかった。マイノリティへの恐怖というのかな。だから……」
ちら、と樋村が名取を窺い見た。名取は続きを受け継ぐ。
「だから、一緒にいたくないって、言ったのか……」
「そう。でも、無理だった。結局のところ」
「無理?」
「一緒にいたくないって言ったのは俺なのに、どうしたって晴太を意識してしまう。まだ小学生の頃はマシだったけど、中学に入学してからは、意識して苛々して――酷いもんだったよ」
中学に入って、名取はほとんど樋村と顔も合わせなかった。意識してではなく、単純にクラスも部活も違ったので会う機会もなかったからだ。それでも、樋村の存在を名取は感じずにはいられなかった。
意識して苛々していたのは、名取だとて同じだ。そう言うと、そうなんだ、とちょっと嬉しそうに樋村は笑った。
「告白してくれた女の子と付き合ったりもしたけど、あんまり大事に出来なくて結局長続きしなかった。誰かと一緒にいても、晴太のことを考えてたんだから、当然といえば当然なんだけどね。その頃には諦めもついて、自分がそういった対象で晴太が好きだって、認めてた。でもすごく今更で、勝手な話で、告白なんて出来ない……気づいたときには進学を決める頃になってた。思わず先生から聞き出したよ。晴太が何処に進学するのか」
「そんなことしたのか、お前」
「しました」
高校が一緒だったのは、偶然ではなかったのか。名取は呆れたらいいのか分からないまま、曖昧に頷いた。
「もっと言ってしまえばね、晴太が誰かと付き合ったりするのが、どうしても我慢ならなくて、そういう女の子と付き合ったりした」
「そういう?」
「晴太のことが好きらしい女の子」
倉田が言っていたことを思い出しながら、名取はぎゅっと眉間にシワを寄せた。「好きでもないのに?」
「うん。好きじゃなくても」
「最低だ」
「そうだね。――でも、不思議なことにね、俺は晴太のことが好きな女の子とだと上手くいくんだ」
不思議だね。樋村は繰り返す。名取は、樋村の言っているのことが理解できなかった。「俺には分からない」
「好きでもないのに、付き合う? 上手くいく?」
「ちょっと違う。俺も彼女も、晴太のことが好きだから、晴太が笑うと、馬鹿みたいに嬉しくなったりする。だから、何かどこか、通じ合うんだろうね」
そう言われても、やっぱり名取には理解できなかった。樋村のことも、その彼女たちのことも。
そんな名取を見て、樋村は「分からないかもね」と言う。その響きに諦めを感じ取り、名取は何故か背筋を震わせる。
「なに?」
「……なんで、そんなに」
不安が大きくなる。
何故、樋村はこんなに饒舌なのだろう。彼がよく喋るのは、今に始まったことではないが、自分のことはあまり口にしない男だと思っていた。下らない、他愛ないことを面白おかしく話して、時に名取を綻ばせた――不本意ではあったけれど。
駅のホームはラッシュ時なのか混んでいる。名取に樋村は意味深長な笑みを見せて、すいすいとその人ごみを抜けていく。名取は慌ててその背を追う。
「晴太に納得してもらうためかな」
呟きは小さかったが、それでも名取の耳に届いた。
「納得?」
「言っただろ? 忘れて欲しいって」
『本当は、あんなこと言うつもりなんてなかったんだ』――あのせりふを思い出す。酷く後悔を帯びていた。
ああ、と名取は血の気が下がるのを感じた。樋村は、本当に、名取の思っている以上に、何もかもをなかったことにしてしまおうとしているのだ。
飄々と話しているように見えるのに、諦めも自棄も、その声には含まれている。
「晴太?」
樋村が訝しげに名取の手元に視線を下ろした。名取は何故、と思ったがすぐに分かる。知らず、彼の服の袖を掴んでしまっていた。「あ、」
「ごめん……」
強張った手を、無理矢理緩める。するりと袖は、その手の中から滑り落ちていく。
「晴太?」
樋村が訝しんでいる――いや、困惑しているのは、名取にも分かった。けれど足が動かない。後ろから、前から、名取の横を人がすり抜けていく。どん、と肩に衝撃が走って、舌打も聞こえる。
それでも、動かない。動けない。
「どうしたの、晴太」
樋村は名取の肩を抱き込むようにして、壁際に寄った。素直に従いながら、名取は「忘れないって、言ったら……?」と問う。
つい零れた問いかけだった。考えてのものではない――けれど、自分はこのことを忘れてしまいたくないのだと、分かる。
なかったことにしたくないのだと。
樋村はしばらく黙り込んでいた。
電車が来ては、発車していく。人ごみは増えたり減ったりを繰り返す。名取は樋村の顔を見ることが出来ずに、足早に去っていく人々の靴を眺めた。
「――どうして?」
黙っていたのは五分か、それとも三十分か。感覚があやふやなまま、名取は樋村の問いかけに顔を上げた。
「どうして忘れない、なんて、言う必要があるの?」
「……じゃあ、どうして忘れろなんて言うんだ」
名取は、樋村との距離が急速に広がっていくのを感じていた。
教室を出てから、このホームに上がるまで。樋村の話を聞き、近づくことが出来ると――それは多分、昔よりももっとずっと近い位置まで触れられると、名取は思った。
けれどどれだけ知ったところで、樋村は名取を近寄らせようとはしないのだ。求めておきながら、来るなと言う。
「ここまで話しておいて、忘れられるわけがないだろう」
「ここまで話さなかったら、納得しなかったくせに」
そういうことじゃない、名取は掠れた声で言う。「聞いたから、納得できる話じゃない」
「……晴太、自分で何を言ってるのか、本当に分かってる?」
樋村の声に、苛立ちが混じる。そんなことは初めてで、びくりと名取は肩を揺らした。
樋村はぐしゃりと、髪をかき上げる。「高校に入ったとき、」
「また一緒にいられないかと思った。友達に戻れたらって、勝手な話だけどね、思ったよ。でも、無理だ」
「何で!」
「俺は晴太の友達になりたいわけじゃない」
はっ、と名取が一歩引く。
「それがはっきり分かったから――だから、忘れてくれって言ってるんだよ」
行こうか。と樋村が名取の背中を押す。電車が来ていた。
「樋村、」
「本当に勝手だと、自分で分かってるよ」
樋村はひっそりと笑う。名取の背後で、扉が閉まり電車が走り出す。
バランスを崩しかけた名取の腕を取り、樋村は「もう振り回したりしないから」と囁くように告げた。
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