触れる、触れない

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 暁人は時計の時刻を確かめ、食卓の様子を確かめ、それから深々と溜息を吐いた。時刻は午後八時――夕飯時だ。だのに、食卓には新聞を広げている千隼しかいない。
「千歳は?」
「さあ」
 暁人の声に千隼は顔を上げ、新聞を折り畳む。
「飯」
「……腹減ったなら手伝えよ。運ぶくらいは」
 こういうとき、千隼は催促はするが文句を言わない。コンロにかけられた鍋を一瞥して、必要な皿を取り出す。
 千歳がいれば、千歳はテーブルを片付け台布巾で拭く。千歳がいないときは、前もって千隼がテーブルを片付けている。もう長年の習慣だ。
 小林家は、料理をする人間がいない。千隼の母親は離婚してからこの敷居を跨いでおらず、父親も家にあまり寄り付かない。千歳の親については、暁人は見たこともなく、詳しいことを知らない。更に言えば、千隼も千歳も料理をする努力をしない。彼らの食生活は全て、コンビニか店屋物で賄われていた。
 その壊滅的な食生活を暁人が知ったのは、千歳に引き合わされてすぐだ。そして暁人は、小林家で夕食を――時には朝食昼食までもを――作るようになった。
 高杉家は両親共働きで、帰りが遅い。そのため暁人は料理を含め、家事全般をそれなりにこなすことができた。ひとりで食事をするよりも、小林家で済ませるほうが余程効率的だ。両家の親にも許可を得、暁人はいつの間にか小林家で過ごすのが当たり前になっている。
「今日は肉じゃがなのになあ」
 テーブルを整え終り、席に着く。
 千隼は「頂きます」と行儀良く挨拶を済ませて、さっさと箸を伸ばし始めた。
「肉じゃがだと何かあるのか」
「いや、千歳の好物だし」
「……一昨日はスパニッシュオムレツ、昨日は豚のしょうが焼き」
「それが?」
 千隼は味噌汁をひとくち啜り、「千歳の好物なんだろ」と呆れた様子で呟く。
「毎日一品は必ず千歳の好物。今更『今日は』なんて言う必要があるとは思えないんだがな」
 暁人はサラダのレタスを齧りつつ唸る。
「いやいや……いつでも千歳が喜んで食べるのを前提に作ってるわけだしさ、『今日は』は『今日は』なんだよ」
「お前の過保護っぷりは今に始まったことじゃないが……呆れる」
 千隼は深々と溜息を吐いた。「ま、その対象がここにいないんじゃ、意味はないか」
「それだよ! 最近千歳は何してるんだ? もう八時だっていうのに帰ってこないなんて……飯もちゃんと食べてるのか?」
「俺に訊くな」
「……でも、知ってるだろ。千隼は」
 にやりと千隼は口元を歪めた。そして「ああ」と酷薄に哂う。
 それを見ると、暁人は何も言えなくなってしまう。――いつものことだ。千歳のことは大変心配なのだが、暁人にとって千隼は絶対の存在だ。そんな彼に深い追求は出来ないし、出来たとしてもはぐらかされてしまうのが暁人には分かっている。
「前から言ってるが、千歳はもう高一だ。しかも男子。一日帰ってこなくっても心配要らないくらいだろう」
「一日?! まさか帰ってこなかったのか!?」
「帰ってきてる」
 煩い、と顔を顰められ、暁人は口を噤んだ。もそもそとジャガイモを口に運ぶ――うん。味もしっかり染みていて、悪くない。
 どうして千歳はいないのだろう。暁人は時計を眺めた。午後八時十分過ぎ。
 部活に入っていない千歳は、暁人より早く帰ることだってある。それなのに最近は、十時を過ぎても帰ってきていないようだった。詳しいことを千隼は教えてくれないため分からないが、少なくとも暁人がいるうちは帰ってこない。
 こんなふうになってしまったのはごく最近だ。
 千隼に千歳の面倒を任されて五年、暁人は自分でもよき兄役をやってきたと自負している。千歳は素直ではないけれど、暁人のいうことをきちんと聞いてきたし、変にぐれたりはしないで育った。最も、千隼の影響力――威圧感ともいう――もあったのだろうけれども。
 最初は多少不安もあったものの、暁人にとっても、千歳は可愛い弟分だった。
「思春期なのかな」
 ぽつりと呟いたが、千隼は反応しない。暁人はやけになったように続ける。
「もう十五だし、そりゃあ保護者が鬱陶しいってのはあるかも知れないけど」
「確かに鬱陶しいな、お前」
「千隼……」
「御馳走様」
 かちりと千隼は箸を置く。涼しげな顔をして、千隼の食事のペースは速い。
「ま、今更か」
「何が」
「お前の過保護ぶりも鬱陶しさも」
 千隼はさっさと茶碗を流しにかたしてしまう。そういったそつのなさは千隼のいいところだろうが、暁人の碗にはまだ半分近くご飯が残っている。一緒に食事をとるのなら、ちょっとくらい気遣ってほしいところだ。
 千歳なら食事のペースが自分よりも遅いのだけれど――そう暁人が考えたとき、がちゃ、と玄関のほうからかすかな音が聞こえた。暁人は思わず立ち上がる。千隼の呆れた顔も構わず、ダイニングと廊下を繋ぐ扉を開く。その勢いよさにか、階段を昇りかけていた千歳がびくりと肩を揺らした。
「お帰り千歳!」
「ああ、うん」
 千歳はぼそりと応えると、すぐに自室へと視線を戻した。暁人は「ご飯できてるぞ」とにこにこ告げる。しかし千歳は「いい」とあっさり返した。
「ええー……今日は肉じゃがなのに?」
「食べてきたから」
 そのまま千歳は足を止めず、部屋に入ってしまった。暁人はぼんやりとそれを見やり、肩を落とす。しおしおと扉を閉め、テーブルに戻ると千隼が新聞を開いていた。
「振られたか」
「いやに楽しそうに言うなよ」
 茶碗を手に、暁人は食事を再開する。少し冷えたせいか、あまり美味しく感じられない。
 最近の千歳は、どことなくおかしい。どこ、と具体的には言えないのだけれど。――時折暁人は千歳の前に立つと、息を詰めてしまう。視線は合わないのに、強い意識を感じる。そのくせ、口調は素っ気無く冷たい。面倒を見ろ、と言われて早五年。――可愛い可愛いで育てすぎただろうか。千隼の言うように、暁人にも千歳に対して過保護だという自覚はある。
 もう高校一年か。暁人は感慨深く思う。あんなに小さかった千歳は今では身長も伸び、暁人と変わらなくなった。何かスポーツをしていると聞いたことはないけれど、体つきは、暁人よりもしっかりしているくらいだ。千隼もそうだが、しなやかな筋肉が付いている。
 大きくなったもんだよなと、暁人は少し寂しさを覚えた。


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2010.01.26


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