今まで頭の中が少しもやもやしてたので
すこしばかり、社会人になってからの制作に対するスタンスを
明確にするためにメモすることにします。
今まで大学では”個人”制作でものづくりをすることを強制されてきたし
僕自身も、僕個人の力だけで制作できるに越したことはないというような
ジェネラリスト的な考え方で制作してきたんだけど、
その考え方のまま社会人になってやっていけるのかという
疑問が今まで頭から離れずにいました。
制作ではなく仕事だと割り切ってやればいいのかと考えてみても
おそらく、それだといいものを作れるとは思えないし
何より仕事が嫌になってくるだろうと思う。
かといって、会社ではひとりで作るものではないし、
それだと何のための会社なのか分からない。
しばらく考えてみたけど、”企業”でものづくりするということは
決して他人に責任を任せるのでは無く、一人一人がその作品”全体”に対して
責任を共有するということなんではないかなと思う。
企業はジェネラリストではなく、プロフェッショナルを求めて
いるということを聞くけれど、だからといって自分の仕事以外の部分を
完全に放棄してしまっていいのかといえば、
それはNOなんじゃないかと僕は思う。
学生時代の経験でしか無いけど、その考え方で結局うまく
いったためしが無い。
アニメーションでいえば、自分のパートの原画を描くときには、
自分の前後の演出が理解できていないといい作品が
作れないということと同じだと思う。
自分の仕事は徹底してプロフェッショナルでやらないといけない。
けれども、それ以前に他のパートの人たちがどのくらいの
プロフェッショナルで、全体を通してどのくらいの演出ができるのかによって、
自分の行う仕事の質も変えなきゃならないということ。
我を通すのではなくて、どうやったら自分のパートで
今よりいい作品ができるのかを考える。
つまるところ、それはやっぱり個人制作で培ってきた
ジェネラリストの精神なのではないかと思う。
で、他人との駆け引きという考え方が:"企業"でものづくりすると
いった場合に必要になってくるんだけど、ここで勘違いしてしまいがちなのが、
いざ制作するということは結局個人との戦いだということ。
その部分をなあなあにして、”制作のモチベーションをあげるために
コミュニケーションをとる”といったことは本末転倒で、
身近に他人がいないと制作が出来ないという人は、正直表現者には
向いていないのではないかと思う。
むしろ身近に人がいないからこそ、表現しないといけなくなるわけで。
ジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんと糸井重里さんの
ダーク・ブルーの試写対談をみていて、鈴木さん曰く
宮崎駿監督はでっかい弁当箱にご飯とおかず(たくあんと
ソーセージとからしい)をぎゅうぎゅう詰めにいれてきて、
その半分を昼食べて夜にまた半分食べるそうです。
しかも一回の時間がたったの5分でこれを今まで
何年もずーっとやってきてるそうで。
これを聞いたとき、あぁ僕と同じなんだなって思ったんです。
僕は大学3年次にアニメーションを制作するときに、
今までクラスメイトと昼御飯を食べてたんだけど、それだと
時間がもったいないから大学へ向かう途中のコンビニで
100均のカリントウか、芋けんぴを買ってきて
昼になってその場で5分くらいでササッと御飯を済ませてたんです。
それを半年苦笑。ちなみに今はコンビニのおにぎりかカップ麺だったりします。
だれかと食べることは確かに楽しいんですけど、
だからといって作品がよくなるわけでもないし、
面白くないからこそ、がむしゃらに制作をしていたし、
そのほうが制作が進むことが楽しいんですよね。
宮崎監督もインタビューで、”退屈だからこそ描く”
ようなことをいってましたし、何か表現者として似た部分っていうのが
あるのかなと思うんです。
僕と宮崎監督を比べるのもすごくおこがましい気がしますが、
プロフェッショナルでありジェネラリストでもある宮崎監督は
僕の大きな目標だなと思います。
たけなか 2008.11.30-21:05 Edit
今回の日記は今までの中で一番長文かも。
なんだかぐだぐだです。